Ex. 「ハル姉が戻った、あの日(後編)」
「なんで兄ちゃんの胸……ふくらんでいるの?」
あたしだって思わなかったのだ。まさか兄ちゃんが、高熱の果てに――女の子になっていただなんて。
それからの時間の流れは、恐ろしく早かった。最初は、聞き違いだと思ったのだろう。兄ちゃんは、バカにするように一蹴していたが、自身の胸と髪と。あと、股を触ったことで事態の大きさに気づいたのだろう。
「僕は、どうやら女の子になってしまったみたいだ……」
彼は。いや、彼女は大粒の涙と共にそう言い放ったのだ。
「……」
掛ける言葉も見つからない。神様は、なんと残酷なんだろう。今はただ、そうとしか言えなかった。
だいたい、兄ちゃんが一体どんな悪さをしたというのだ。どうして兄ちゃんがこんなひどい目にばかり遭っているのだ。周りのクラスメイトからいじめられ心まで折られて、一旦は死にかけて。あたしが無理やり引き留めたら、今度は性別を変えられるだなんて……。
もちろん、昔は兄ちゃんは姉ちゃんだった。でも、幼稚園だったあの時とは状況が明らかに違う。
性別があいまいだったあの頃とは違い、この年で性別を変えられるってことはそれまでの兄ちゃんを存在を否定していることにもつながることなのだ。
「まあね、そりゃ驚きはするがな……しかしなぜこう涙ってやつが漏れてくるんだろうな。クソがっ」
そんなの、決まってる。自分って「存在」を否定されたから。いや、もうそんな言葉では言い表せないほど傷ついたから。
「……そんなの、言葉じゃ説明できないから出るんだよ」
エプロンのポケットからハンドタオルを出して、手渡す。でも、そんな小さな布切れで受け止めきれるほど、兄ちゃんの涙は少なくはない。
女の子になった。確かにそれも大きいとは思う。
でも、本当は違うと思う。色々な人に傷つけられて、追い詰められて、死ぬのがマシとさえ思えるほどに苦しい思いをして。それでも歯を食いしばって、周囲にはそう見せないように耐えたんだ。でも止めを刺すかのように存在を否定される。こんな状況で、涙が出ない方がおかしいんだ!
出来ることならば、半分くらいあたしが肩代わりしてあげたいくらいだ。
「きっと、辛くて苦しくてその上これで……気持ちが整理できないんだよね」
だけれど、そんなことが許されるわけもなく。だからあたしは、傷ついた兄ちゃんの手を掴んで一緒に苦しみを共有することしか出来ないのだ。
「そう……かもな」
彼はそう言い、力なく笑う。その様子が、見ていて痛ましくてますます神とやらに。クラスメイトとやらに。兄ちゃんを傷つけた全ての人間への怒りに変わる。
「すまんな。情けないとこ見せちまった」
それなのに、兄ちゃんは人を責めることを一切しなかった。責める相手は、自分自身。どう考えても、兄ちゃんに落ち度は無いはずなのに。
彼はただひたすら、傷ついた自分自身にさらに塩を塗り込むかのごとく自身を責め続けたのだ。
「謝らないでよ。あなたが悪いわけじゃないのだから」
そんな道理の合わないことをひたすら続ける彼に、ただでさえ気が立っていたあたしはますます怒りを大きくする。
「だとしても、引くだろ? こんなのが兄貴だなんて……本当に最低だ」
あぁ、最低よ。
そうやって、周りから一方的にいじめられてひたすら傷ついて。それなのに、誰にも助けを求めないで一人で勝手に死のうとして。だいたい、兄ちゃんに悪いところなんて何も無いはずなのに、乱暴な強者に都合のいいように思考まで壊されて。そして、そんなことを昨日のあの時まで何にも知らなくて……。
「――兄ちゃん、それ本気で言ってる? もしそれを本気で言うなら、あたしは怒るよ?」
壊れた人形みたく自身を責め続ける彼に。そして、気づけなかったあたし自身に怒りがこみ上げる。
だいたいあたしたちは家族なんだよ? 同じ血の通った、生まれついての仲間なんだよ? なのにどうして、頼ってくれないの?
ハル姉は、あたしのことをいっぱい助けてくれた。友だちの作り方、外での遊び方。喧嘩をした時の仲直りの仕方。全部、ハル姉から教わった。
なのに――あたしでは役不足なの? あたしは、兄ちゃんにとってのハル姉になれないの?
「だってそうだろ!? こんなクソ野郎、ホントなんで生きてるんだよ!」
そんな――クソ野郎だなんて汚い言葉。
あたしに生き方を教えてくれた、偉大な姉ちゃんに向かってそんな悲しい言葉。
何より、あたしの大切な家族に……そんなふざけた言葉ッ。
「そんな悲しいこと、二度と言わないでよッ!」
あたしは、今出せる全ての力で兄ちゃんの頬を叩いた。
「情けない兄ちゃんで何が悪い!? 誰だそんなことを言ったのわッ!」
そう言い、あたしは兄ちゃんの上にのしかかって続けた。
「最近の兄ちゃんは何か変だと思ってた。でも今ので確信した。兄ちゃんはもっと自分を大切にしてよ! あたしは、兄ちゃんが例えどんなになったって気にしない! うちの家族は誰も気にしない! 女の子になった? それが何だって言うのよ」
許せなかった。
あたしが一番大切にしていたものが、あたしの知らぬ誰かに犯されたという事実に。何よりも、その事実にあたしが察知してあげられなかったということに。
でもそれだけじゃ、今の彼には届かないんだ。今の彼に必要なのはたぶん。
「ぶったことは謝る。本当にごめん。でもさ、自分をもっと大切にしても良いんじゃないかな? 辛い時は泣いたっていいじゃない。女の子になったからってなんだって言うの?」
安心して羽を休める、そういう居場所なんだと思う。今の兄ちゃんは、例えて言うなら羽を痛めた鳥なんだ。傷ついた鳥に無理に飛ぶことなんか出来るわけがない。だから今は、休む場所が必要なんだ。
「……そんなに優しくされちゃったら、僕は壊れてしまいそうだ。ますます面倒くさくなっちゃう。妹に依存してしまうじゃないか。
「だから言ってるじゃない。ちょっとは妹に依存しなさいって」
めんどくさくなったって構わない。依存されたって構わない。
そんなの、いつか再び飛び立てるようになるならいくらだって構わない。
「――昨日の経緯は、あたしも深くは聞かない。でもね、自分のことをもっと大切にしてよ。そのためなら、あたしは何だってする。それだけは忘れないで」
兄ちゃんがそこまで追い詰められたということを知り、あたしのほうが涙を出しそうだった。でもここで泣いたら、それこそ兄ちゃんが動揺しちゃう。そんなことは、もう嫌だ。だから、あたしは無理やり兄ちゃんを布団から起こす。
「さてと。ちょっと遅いけど、お夕飯にしようか。幸い熱も下がったみたいだし、下で食べよ。お母さんも帰って来たしね!」
そう言い、あたしは土鍋を持ってそそくさと部屋を出た。そして、廊下で少しだけ泣いた。
でも、ハル姉ならいつまでも泣いてなんか居ないはずだ。
「さてさて、注文の多い兄ちゃんのためにご飯を作らないとね」
もうひと踏ん張り。自分で喝を入れて、あたしは台所へ向かうことにしたのだった。
◇
「どうだった?」
開口一番、お母さんはそう尋ねてきた。
「……熱は引いてたみたい」
「そう」
その言葉に安心したのだろうか、あるいは悩みの種が一つとれたというべきなのだろう。お母さんは安心して、ソファーに寄っかかっていた。けど、すぐに身体を起こしてもう一つのことを尋ねる。
「春樹の気持ちの面ではどうだった?」
「それが……」
一応、昨日起こった出来事については簡単に説明している。兄ちゃんが倒れたことやお医者様に見せたところまでは二人の共通認識となっていることだろう。ただし、仕事場にいる母さんにとって。というより、フラッシュバックしそうなあたしの精神状況もあって、自殺未遂まで至ったことやショッキングな出来事についてはかなり濁した説明しかしていない。
「少し精神が不安定だとは思うけど、昨日と比べるとだいぶ落ち着いた方じゃないかな?」
少し? どう考えても少しどころじゃない。本当なら、今すぐにでも詳しく言うべきなんだろう。でも、今は言いたくない。
お母さんに負担を掛けたくない。それもあるけど、それ以上にあんな状況を思い出したくないのだ。もしもそれを想起させるようなことを言ったら、同じことが繰り返されるような気もするし……。
「……そう。すぐに駆け付けてあげられなかった私が言えることじゃないけど……それは良かったのかしら」
「きっと、ね」
臭い物に蓋をした、のかもしれない。お鍋に火を掛けながら、あたしはそう答えた。
真実は違う。彼の様子を見る限り、自殺の件は忘れているように見えたが、それでも精神的にかなり不安定なのは事実だ。
「何にせよ、保健室の先生が昔言ってた。辛いときは、こころの専門家に相談してみたらって」
それらしく、解決案を提示する。今の兄ちゃんは、心をかなり痛めている。傷ついた心を治すためには、怪我をしたら医者にかかるのと同じでそういう専門の人に相談していくしかない。
でもこの問題の本質って、たぶん違うと思うのだ。
「そう。だとしたら、明日にでも春樹を連れて行かないといけないわね。……私、今の今まで仕事ばかりで子どもたちのピンチに全然気づけてなかった。母親失格ね」
「やめてよ。そんなの、あたしだって……」
気づけてなかったから、やはりあたしも同罪だ。しかも、兄ちゃんを襲っている問題点はそれだけでない。
「それに、それとは別件でもう一つケアが必要なの」
性別まで変わったことを遠まわしに伝えようとするのだが……やはりそうだと察してくれるわけもなく。
「もう一つっていうのは……?」
「その、身体的なお話で……」
「直接の原因って、身長の低さよね? でも、そういうことをお医者様で扱っているのかしら。私も背が伸びるのが遅かったから、こればかりは申し訳ないけど遺伝としか言えない気が……」
「そうじゃ、ないのよ」
真実を明かす、勇気が出ない。
だって、これから言うことってどう考えても道理に合わない話なのだから。でも、現実問題として兄ちゃんの身体を襲っている。家族として、この問題を隠しておくわけにも行かない。だからあたしは、決心した。真実を明かすことに。
「……今の兄ちゃんは、兄ちゃんじゃない」
その言葉に、お母さんは顔をゆがめた。
「どういうこと?」
言葉としては穏やかな一言。でもその裏には、とても信じられないという怪訝な気持ちが混ざっているようだった。無理も無い話だ。でもそれは、見てもらって信じてもらうしかない。
「ごめん、あたしも未だに信じられてないんだけど……兄ちゃんは、女の子になっちゃったの。身体的な意味で」
その瞬間、我が家から音が消えた。
「秋奈、ふざけている?」
お母さんから、ドスの効いた声が放たれる。
「ふざけてない。だけれども、現実的には思えないのはあたしも同感」
そう、そんなおとぎ話みたいなことなんて普通は起こり得ない。起こるとしたら、それこそ小説とか映画の世界でしかあり得ないはずだ。でも、その話は現実に起こっている。
「考えられる理由は?」
「それも分からない」
何でそうなったのか。それも含めて一度大きな病院に検査に行ったほうが良いのかもしれない。でも、それをして研究対象にされても嫌だし……。
何せ昨日から現実味の無い、恐ろしく残酷な光景ばかり見ているせいか嫌でも最悪な未来が頭の中によぎってしまうのである。
その時だった。リビングの前のドアから人が歩く音がした。3人家族の我が家で、お母さんとあたしを除いたら残る人物は一人しか居ない。
「分かったわ。いや、分かってはいないけど――まずはいつも通り振る舞いましょう。私たちの動揺を見せたら、春樹が今度こそ壊れてしまうかもしれないから」
「そうだね」
お母さんだって声が震えていた。無理も無い、それだけの出来事が目の前で起こっているのだから。
でも、あたしたちがいつまでもそれに動揺してどうする。一番辛いのは、兄ちゃんなんだ。今あたしたちに出来ることは、動揺することじゃない。兄ちゃんの傍で、彼を心身ともに支えてあげることなんだ。
彼が望んでいる、普通のありふれた当たり前の日常を。だから……。
「夜だけど、おはよう。もう夕飯出来たー?」
兄ちゃんは、何事も無かったかのように振る舞う。でも、その顔には泣き腫らしたあとがしっかりと刻み込まれていた。
――辛かったんだよね。苦しかったんだよね。今なら分かる。兄ちゃんの苦しみが。悲しみが。でも、あたしの兄ちゃんは。いや、姉ちゃんは強い人だ。自分で折り合いをつけようと、今も頑張っているのだから。
だから、あたしも決めたよ。もう失わない、と。あたしがかつて失ったハル姉を。ハル姉になり掛けた兄ちゃんを。
だって、あたしたちは……二人で一つなのだから。
読んでいただきましてありがとうございます。
このお話は、春樹が春奈に生まれ変わった日の出来事を秋奈の視点からみたお話になっています。
前後編の後編ということで、春樹が家族に受け入れられるところまでがメインとなっています。本編では第3話に対応するお話です。秋奈と母親の舞台裏での会話がまさにここに対応する形になっています。
お待たせしました。次回からは第3章です。楽しみにしていただければ幸いです。




