第十三話 敵は待ってくれない
早めの夕食も終え、壁のランプの蝋燭を取り替えたり、戸締りのために私とラヘルの二人で見回りをしていました。
外は風が強く、湿った空気が城砦の中にも吹き込んでいました。ガラス窓が傷つかないよう雨戸を閉め、石壁の隙間風の出所を突き止めてはラヘルが粘土のようなものを詰めていました。私はその横でランプを持って明かりを確保する役です。
「まったく、あちこちツギハギだらけの場所だな。綺麗に整えているのはアリアーヌの部屋と周辺だけか」
ラヘルのそんなぼやきにも、甲高い風音が混じります。外は時折、暴風が吹き荒れているようですが、外に見に行こうという気にはなれませんでした。こういうときは家の中で大人しくしておくべきです、はい。
とりあえず、この城砦は中庭を囲むように四角い構造をしています。一階部分の高さがかなりあり、二階は屋根のない見晴し台のようになっているだけです。玄関である正門はしっかりとした鉄扉で、頑丈な鍵や鉄のかんぬきがあります。四角い構造の内側、中庭に面した部分に五つほどの部屋が並んでおり、殺風景な石畳の中庭からも実は入れるのですが、今のところラヘルのために日光を入れないよう、扉も窓も雨戸でしっかり塞がれていました。
ちょうど裏門に当たる部分に厨房や諸々の家事作業場となる水場が設けられていて、そちらはカラマツの大木が覆い隠してくれています。小さな森と接していて、隠れる場所にはなりませんが、正門側からは大木や森の存在が分からないよう上手く坂になっており、かつてこの城砦には開けた南の街道を監視する役目があったのだろうとラヘルが推理していました。
「しかし、だ……マイナーはこの国の騎士団長として、偽装された君の死に憤慨した異種族の侵攻を防ぐ任務を与えられるだろう」
あら、と私は驚きをもってラヘルの話に耳を傾けます。この数日間、一度もこれからのことを話さなかったラヘルが、ついに重い口を開いたのです。おそらく、私に負担をかけないため、時期を見計らってくれていたのでしょう。
「そういえば、処刑前にヘルマン宰相閣下が脅迫状の多さにおかんむりのようでした」
「ああ、私もそれは把握している。その中でも、血の気の多い連中を先に暗殺してきたからな」
「え? 暗殺……?」
「君の死を大義名分としてこの国へ攻め込み、領土や民に害をもたらそうと企む連中のことだ。オークやゴブリン、リザードマンといった戦いを好むやつらは、暴れる場所が欲しいだけだからな」
そう、なのでしょうか。私ははるか昔、私へ求婚にやってきたオークたちの長アイダナウ氏のことを思い出しました。直接その方にお会いしたわけではありませんが、父が私を全力で守らなければと決意した事件だったそうで、印象深かったのです。
「昔、オークの方に求婚されたことがありましたけど、そのときもそうだったのでしょうか?」
「君に求婚したのは、アイダナウか?」
「はい」
「あれは本当に君の背の、『豊穣の女神』の紋章目当てだ。つまり」
外の木々の枝が激しく揺れて、生い茂った葉が触れ合い、風とはまた違うさざめく音を生み出していました。それらが城砦の壁に当たり、廊下に響き渡ります。
しかし、ラヘルの言葉を消してしまうことはできなかったのです。
「君を食う……文字どおり、血肉を食らって紋章の力を取り込むことで、種族の枠を超えた力を得ようとしていたわけだ。何が求婚だ、取り繕う術はゴブリンから習ったのか、卑しい連中め」
——卑しい連中め、という罵倒は、あのとき父もしていました。求婚にやってきたオークたちが帰ったあと、意地で保った震える足を抑えながら、確かこう言ったのです。
「やつらはアリアーヌを牛や豚のように食うことしか考えていない。絶対に渡すものか、我が娘の尊厳を守らないような化け物どもに、断じて! やつらが領内から出ていくまで、厳重に見張れ! 人も家畜もやつらに奪われないよう、いっときたりとも見逃すな!」
あれはきっと、父には分かっていたからです。
モンスターや化け物と蔑んで呼ばれる異種族たちが何を差し置いてでも手に入れようと望む——極上の料理のように美味で力を得られる、そんな抗いがたい魅力が『豊穣の女神』の紋章にあるのなら、求婚はおかしい。
きっと彼らは、私を殺して食べることなんて、ためらいもしないのだから。
私は、背筋が凍るような恐怖までも、思い出してしまいました。
ヘリナス子爵家屋敷の門を異種族の誰かが叩いてくるたび、怖くて怖くて、眠れぬ夜が続いたこともありました。地下室のワインセラーを快適に過ごせる場所にしようと、いつもメイドたちは心を砕いてくれたものです。他の使用人たちも、私を決して渡すまいと父の指示に忠実に従っていました。
父がヴォルテア卿——フィオの祖父のほうです——とのよしみを結んだのも、私を守るためでした。セサニア王国騎士団のヘリナス子爵領駐留を望み、ヴォルテア卿は何かと我が家へ理由をつけてはやってきたくれたのです。
ですが、騎士団の面々は冷淡な態度を表すばかりでした。私のような面倒なものはこの先も災いを呼ぶだけだから、と話しているところに遭遇したこともあります。
それを、ヴォルテア卿は一喝していました。
「貴殿の騎士の矜持はどこへ行った? いいか、アリアーヌを守らぬということは、異種族の化け物どもの牙から民を守らぬと宣言するのと同じだ。騎士は必ず守ってくれる存在ではないと万人に知らしめて、栄光あるセサニア王国騎士団の名誉に泥を塗りたいというのであれば、話は変わってくるがね」
父とヴォルテア卿の擁護があってこそ、私は今まで生きてこられたようなものです。
……
……
……
——いえ、違いますね?
私は、ヴォルテア卿にお会いしたことがありません。私が会ったのは、フィオです。銀髪の小さな騎士、必ず私を守ると言ってくれた——はずなのに、なぜでしょう。
何かが違うような気がするのです。些細なことかもしれませんが、どうにも腑に落ちません。
私は何を見落としているのでしょう? もしかして、とても大事なことでしょうか……だとすれば。
私は、暗転しかけた視界を持ち堪えさせようと努力します。
ランプが私の手から滑り落ち、短い金属音が廊下にこだまします。はずみで蝋燭が転がっていき、石床の隙間に挟まって止まりました。
目が回って、足から力が抜けかけたものの、ラヘルが私の両肩をしっかり支えてくれました。
「アリアーヌ!? 大丈夫か? ここに座って、立ったままでは危ない」
「ごめんなさい、立ちくらみが」
ラヘルに促されるまま、私はその場に座り込みました。冷たい石床は触れた瞬間ぞっとしますが、背筋の凍った先ほどよりはずっとマシです。
なんとか這って動いて壁際に腰かけ、私は落ち着くまでしばらくラヘルの右手を握りしめていました。
「……ラヘル、ごめんなさい」
「謝ることはない。疲れかな、それとも夕食の冷製スープと言い張ったじゃがいもスープのせいかもしれない」
「ええ、そうだったらいいけれど」
ラヘルなりに軽口で気を紛らわそうとしてくれたのでしょうが、私は余裕がなくて上手く答えられません。でも、夕食のあのじゃがいもスープは決して不味くはなかったでしょう? そのはずですけど……。
話が逸れました。暗闇に目が慣れてきた私は、違和感の正体を探るべく、ラヘルに聞いてみることにしました。
「ラヘル、私は、フィオのお祖父様と会ったことはない、はずよね?」
「だろうな。今回は、君が生まれる前に私が殺している」
「じゃあ、フィオじゃない、私の知るヴォルテア卿って——」
一体誰なのかしら、と言いたかったのですが、対面の壁の隅っこでうごめく何かが蝋燭の火で照らされました。
「きゃああ!? 何、何!?」
ラヘルは私の視線の先へと赤い目を向けます。吸血鬼だから夜目が利くのでしょうか、すぐに正体を見破りました。
「蛇だ。隙間から入ってきたのか」
「へ、へび……ああ、びっくりした。この風の中、外に出すのもかわいそうかしら」
「いや、別に蛇はそのくらい平気だろう」
そんな問答の間も、私たちは蛇へと目を向けていたつもりでした。
しかし、私の目にはまだ捉えられていない蛇は、一瞬にして距離を詰めて飛びかかってきたのです。私が反応できないほどの速さなのか、暗闇のせいで反応が遅れたのか。ともかく私は悲鳴を上げることもできず、息が止まってしまっていました。
「……え? ラ、ラヘル!?」
いつの間にかラヘルが私をかばうように割り込んで、蛇を叩き落としたのです。おそらく、蛇なのでしょう。ですが、それは石床に落ちる瞬間、どうん、と重量のある肉がぶつかる音を立てたのです。
地面に残る蝋燭の小さな火が、壁のランプが、大きな何かの影を石壁に映し出します。
私が見たものは、こんなに大きなものだったのでしょうか——天井まで届く鎌首をもたげた白金の大蛇が、牙を剥き出しにして鋭い呼吸のような威嚇音を発しているのですから、何が何だか分かりません。
いえ、分かることがありました。この大蛇、今も巨大化しています。私の頭ほどもある白金の鱗だらけの寸胴な体が、もう廊下いっぱいまで広がってみっちりと詰まっているではありませんか。
呆然としていた私をよそに、ラヘルが大蛇と私の間に立ち塞がり、叫びます。
「アリアーヌ、逃げろ!」