第十二話 私は悩み、そしてそれは無意味だと知っている
——うん? それは、おかしなことなのでしょうか。
吸血鬼の王ラヘルが、『セサニア王国のブリジット王女を今まで見たことも聞いたこともない』。人間の世界のことなのだからいちいち知らなくてもおかしくはない、なのか、一芝居打つほどセサニア王国を舞台に企み調べたラヘルでさえも知らない、なのか。一体、どちらの意味合いなのでしょう。……ダメですね、私ではまだまだ現状への理解が及びません。
廊下に出て黒っぽい執事服についた白い埃をはたきながら、ラヘルはちゃんと最初から説明してくれました。
「前にも言っただろう? 私は魔法で時間を巻き戻し、何度も君を救おうとした、と。そうして数えきれないほど魔法を行使した中では、いろいろな可能性への分岐があった。祖父のほうのヴォルテア卿が最初から君を守らなかったときも、君が別の国に誘拐されたときも……とにかく、無数の分岐だ。どの未来でも君は救われなかったのだが、ありとあらゆる違いを積み重ねていけば未来もすっかり変わり、今回ばかりはこうして君は生きている。だが、今までブリジット王女はいなかったんだ。私が無数の可能性を見てきた中で、この国にはただの一度も王女はいなかった」
なるほど、そういう意味でしたか。
私には、今この人生の記憶しかありませんから分からなかったのです。ラヘルは何度も時間を巻き戻して、色々な未来を見てきた。その中に、一度もブリジット王女が登場することはなかったのに、今回は、彼女がいる。
当然、ラヘルとしては警戒すべきでしょう。私も、かもしれません。せっかく上手くいく未来が見つかったと思ったのに、未知の不確定要素がそこにいるのですから。
とはいえ、王城のことなら騎士団長であるフィオにも聞くべきです。知らないはずがないのですし、ラヘルはもうとっくにブリジット王女について話していることでしょう。
「そのことを、フィオはどう言っていましたか?」
「心当たりがある、とだけ返事があった」
「心当たり?」
「うむ。何にせよ、これからの行動方針を定めるために、マイナーは王城へ出向いて働きついでに情報収集をしている。次に帰ってくるときには、何か役立つ情報があるといいがね」
「そうですね……そうあってほしいです。私も何かできれば」
私の言葉を遮り、ラヘルはゆっくりと頭を横に振りました。
「今のところ、君の出番はない。だが、必ずそのときは来る。焦らず、待っていてくれ」
私はじっとラヘルの顔を見つめていました。目を逸らすでも泳がすでもなく、ラヘルは品よく微笑みます。それが虚勢でないのであれば、きっと私にも事態を打開できる何かの役割があるはずです。
私にできることがあるのなら——誰かの迷惑にしかならない私でも、できることがあれば。
今は、そのときを待ちましょう。それまで、自分に何ができるかを考えておかなければ。
☆
三日後。
一日三食、自分とラヘルの二人分を作っていれば、料理にも徐々に慣れてきました。それに、他のことにも手がつけられるようになったのです。
固焼パンをベーコンたっぷりの野菜スープに浸しながら、厨房で野菜の下ごしらえをしつつ朝食を取るお行儀悪いスタイルも、慣れの一つです。スツールを持ってきて、ラヘルと並んでじゃがいもやにんじんの皮剥きに従事しつつ、おしゃべりしながらご飯を食べる。だって、一緒に食べたほうが美味しいですからね。
ほとんどは他愛ないお喋りですが、この城砦での生活について、真剣に話し合いもしています。
「掃除、洗濯くらいはまあ私でもできる。ただ、私は夜しか外に出られないし、来客対応などもってのほかだ。無論、マイナーの来客がここにまで来ないだろうがね」
「となると、食料や生活必需品の調達はどうしましょう?」
「それはマイナーが何とかするそうだ。ここに来るたび持ってくるぐらいだろうが、私や君が応対しなければならない事態とはならないだろう」
「そうですよね、私は死んだことになっているわけですし」
「うむ、私などお尋ね者だからな」
声に出して言ってみると、私たちを取り巻く状況はけっこう大変なものです。外に出られるのはフィオだけ、私もラヘルも誰かに会うことは避けなければなりません。
「ただ、これからずっとこの生活が続くわけではない。それはそうだ、私もマイナーも、君を監禁して喜ぶ趣味はないよ」
「だといいのですが」
「何だねアリアーヌ、信用したまえ。私はマイナーの歪んだ性癖については何ら保証しないが」
「きっとフィオも同じようなことを言うと思いますよ」
「むぅ……」
唸るラヘルは、自分と同じようなことを言うフィオを簡単に想像できたようです。なんだか二人は似た者同士なのかもしれません。それを言うと怒られそうなので、言いませんけども。
穏やかに過ぎたこの三日間では、私は結局ラヘルに突っ込んだことを聞くことができませんでした。目の前の生活でいっぱいいっぱいだったこともありますが、ラヘルがあまりにも紳士的で優しかったせいもあります。
もし、私は助けられたにもかかわらず、ラヘルを傷つけるようなことを言ってしまったら——そう考えると、つい言葉が出なくなるのです。
(ダメなのに血液の話もうっかりしてしまったし、あまり負担をかけたくないのよね……やっぱり、フィオを待つしかないのかしら)
単純に、私が気遣いのできない意気地なしだから悪いのです。ラヘルから上手く話を聞き出せるような、そんな社交性があればよかったのに。引きこもりの子爵令嬢では、どうしても無理でした。
それに、親しい友達の一人もいなかった身としましては、ラヘルの親身な態度がとっても嬉しかったのです。おっかなびっくり、初めての友達に粗相をしたくなくて……それは結局私の都合でなけなしのプライドが弱気にさせたことになります。
(ん? 初めての友達……よね? じゃあフィオは、いつ知り合った幼馴染なのかしら。それも聞いておかないと、いけないわよね……?)
困ったことに、日々疑問が増えていっては、雪だるまのように積み重なっていきます。せめてフィオがいれば、ラヘルとの話も上手く行くでしょうか。
でも、話を聞いてしまえば、ふやけた固焼パンをスプーンで砕いて塩味のスープとともに流し込むこの生活も、終わってしまわないでしょうか。私の隣では、猫舌のラヘルが可愛らしく、スプーンですくったスープを冷ましています。ラヘルが吸血鬼の王だなんて信じられない、平穏な光景です。こんな状況になっても、願わくば……などと考えるのは、浅はかでしょうか。どこか物悲しい気持ちになりつつも、私は今日のこの一日をスタートさせました。
この日の夕方にフィオが帰ってきて、私たちを取り巻く環境と事態が急変するなど、まったく思いもよらなかったのです。




