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これからのことは聞いたけど、これまでのことは知らないなと思った。



 逃げていた。

 短い廊下、開け放たれた洗面所の扉をぶつかるように閉める。

 いやだ。

 いやだ。いやだ。いやだ。

 いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。

 激しい足音から逃げる。

 玄関にたどり着き、靴を引っ掛ける。

 踵を踏みつけ鍵を開け、チェーンを外す。

 いやだ。

 いやなんだ。

 ノブを回し、扉を押す。

 勢いよく外に出た。

 ───つもりだった。

 ガクっと首が後ろにひかれ、あれ?と思ったときには後ろ向きに倒れていた。

 嘘だ。倒れそうになった私の体は、私のものではない力によって浮かされていた。

 私の長い髪の毛を鷲掴みにした、私の父の、手によって。

「ゆいは、お母さんみたいに、いなくなったりしないよな?」

 虚な目。

 かわいそうだと思ったその目。

 でも私はようやく目を覚ました。

 教えてもらったのに。

 なのに、なのに。

「ううん……どこにも行かないよ……」

 どうしてまた。

 もう、あの人の隣でなきゃ、いやなのに。


 *:*:*


「太一くんて、中学ではどうだったの?」

「どうとは?」

 肉を食べ終え、なんだったら追加で2枚食べた後輩二人を白い目で見ながら、俺は由利亜先輩の質問に首を傾げていた。

「高校では割と孤立気味じゃん? だけど、中学ではこんなに慕ってくれる後輩もいるくらいでしょ? だから今よりは明るい人だったのかなって」

 高校での俺ってそんなに暗い人か?

 引っ掛かりを覚えながらも、慕ってくれる後輩とやらを肘でつついて説明を要求する。

「中学の時の俺ってどうだった?」

 そんな抽象的な質問で、突然に聞かれたにも関わらず考えるそぶりもなく、

「ヒーローでした」

 碧波はなんの躊躇いもなくそういった。

「ヒーロー?」

 先輩は当然に首を傾げた。

 由利亜先輩も同様で、少し頭を傾ける。

「なんかもう少しまともなこと言えない?」

 俺は頭の残念な後輩に深いため息を吐いた。

「なんですかその顔! 私に聞いたの先輩じゃん!」

「いやだってお前、人のこと恥ずかしげもなくヒーローとか形容するやつは、ちょっともう少しくらい大人になってほしいっていうか」

「人のこと言える立場か!!」

 その声に反応を見せることなく、俺の手は声の主のこめかみを捉えていた。

「埜菊、お前声出したらわかってんな」

 パクパク口を開閉しながら、めちゃめちゃ謝るもう一人の後輩を睨む。

「太一くん、怒るよ」

 めっ、と怒られる。

 可愛い先輩は暴力に厳しい。

「それで、ヒーローってどう言うこと?」

 俺の両の手を握り自分の膝にそっと置くと、話を戻すように促す。

 いや、これ普通にめちゃくちゃ恥ずかしいんだが。

 俺は少し引っ張られる形で姿勢をキープすることを余儀なくされていた。

「先輩、カッコ悪いよ」

「うるせえ」

 小声のやりとりは、しかし話を遮ることはなかった。

「私たち後輩にとって、山野太一先輩はヒーローなんです。誰がなんと言おうと、本人がどう思おうと、それは揺るぎません」

 質問と同じくらいに抽象的な回答に、先輩二人は首をかしげるしかない。

 それもそのはずだ。

 この二人は俺がなんでヒーローなんて呼ばれるのか知らない。

 俺だって、どうしてそう呼ばれるのか心当たりがないのだ。

 確かに俺は川上に唆されて、中学では少し派手に活動していた。いじめを止めて見たり、事故を未然に防いだり、事件の犯人を見つけ出したり、学校のルールを変えてみたり。はたまた、人の家の事情に口を挟んだり。

 そう言うのを見聞きして、ヒーロー扱いしているのであれば、それは非常にお門違いというものだろう。

 俺はただ、解決しただけなのだ。

 問題があって、解答を持っていた。それだけ。

 そして、一番重要な問いを、俺は間違えた。

 だから俺はヒーローなどと呼ばれる人間ではない。

 ちっぽけな、負け犬。

「本人はこれっぽっちも自覚がありませんが、いっちゃん先輩の三年間は同じ学校に通ったすべての人を救っています。だから、あの学校にいた人たちにとって、山野太一はヒーローなんです」

 俺の自己評価など興味はないと言わんばかりの評価だった。

 ぶっちゃけ気恥ずかしい。

 でもそんなことより未だに握られた手の方が気になって、全く話に集中できない。

 軽いツッコミも入れられない。

「まあ山野は中学時代、派手でしたから」

「おい、その評価はおかしいだろ」

 入れられないが、川上にだけは言われたくないセリフがあった。

「悪の組織潰したのは痛快だったな。まさか野球拳で壊滅させるとは」

「あれは俺がいったときにはもう潰れてたんだよ。すでに開催されていた野球拳に飛び込んじゃっただけだよ」

「どゆこと?」

 当然の反応で、俺があれから抱えてきた疑問でもあった。

 それはそれはシンプルな、しかし、拭いきれない疑問。

「どういうことだったんでしょうね、あれは」

 先輩と顔を見合わせて、俺は首を重くかしげる。

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