一方的に知っている人から突然話しかけられたらびっくりするよね。
俺の腹がクウと音を立てた。
本を読んでいた手を止めて、壁にかかった時計を見ると11時半少し前と言うところだった。
静かな空間だったことが災いし、隣の里奈さんにも聞きとがめられていた。集中の邪魔をしてしまったことに申し訳なさを感じて「ごめん」と一言。
里奈さんは少し微笑んで、
「ご飯、どうする?」
ペンを置いて、こちらに向き直る里奈さん。
そういえば、と今更に思う。
一日一緒に勉強と言うことはお昼ご飯も一緒に食べることだったのだと。
普段、朝も昼も夜も、自分で用意しなくなって久しい俺は、そのことをすっかり忘れていた。
そして、友達と遊ぶことのなく、ここ最近朝となく昼となく夜となく飯を抜く生活をしてきたせいで、ご飯をどこかお店に行って食べるという行為そのものをすっかり忘れてしまっていた。
しかも、まだある。
よく考えてみれば、これは同級生女子との二人きりのお昼ご飯ということになるのではないだろうか。
こういう場合、俺は何かしら用意をしておくべきだったのではないか?
などという手遅れ極まる思考。
そう、手遅れ。
「あ、うん、お昼、どうしよっか……?」
何も出来ない俺には、問いかけを返すことしか出来ない。
そんな俺に、里奈さんは笑顔で、
「本当はお弁当とか作ってこられれば良かったんだけど、ちょっと他の準備で時間なくて、さっき調べたら近くにお店あるみたいだからそこ行かない?」
「お店?」
「うん。……あ、普通のファミレスだよ? 私の働いてたところの系列店」
おお、あそこかとまたぞろユリア先輩の時のように高い店に連れ込まれるのかとびびっていた俺は胸をなで下ろす。
そして、過去形の文言に首をかしげた。
「もうあそこでバイトしてないの?」
里奈さんは首を縦に一つ。
「文化祭の準備で忙しくなってからシフトは入れなくなっちゃって、今はバイトはお休み中なの。勉強のしたいし」
終始笑顔なその表情に、針の穴ほどの陰りが見てとれたのは、俺が里奈さんとよく話しているからか、それとも普通の人なら簡単に気づくそれが、鈍感な俺にもわかるほどだったのかはわからない。
けれど、勉強を頑張りながら、バイトも頑張って、家族のために頑張る女の子のその表情に何も感じないほどに俺の感情は死んではいないと自負している。
とはいえ、俺に出来ることなんて思い浮かばないのだが。
「まあ、里奈さんは確かに勉強しなきゃだよね」
だからこんなおふざけみたいなことしか言えない。
「だからこうやってたいち君に時間作ってもらってるんじゃん。とにかく、ご飯行こう? 12時過ぎたら人増えちゃうかも」
「そだね。いったん鍵返してくるから先出てて」
机に出したものをカバンにしまう里奈さんに、カバンに文庫本を放り込んで鍵をフリフリしながら言う。
今日は一応お詫びの勉強会だ。
ならば、お昼ご飯をおごるくらいはした方が良いかもしれない。
これは決してバイトができていない同級生女子のお財布事情を慮ってのことではなく、それとないお詫びの気持ちだ。
1年目の文化祭という貴重な時間をくれた優しい友人に、仇で返してしまった人間のお詫びの気持ち。
つまりそういうことなのだ。
「そういえば……」
ふと思い出して口から言葉が漏れる。
そういえば、俺の貯金、今どれくらいの額になっているのだろう。
思えば、由利亜先輩に通帳を渡し、食事や掃除道具などのやりくりをしてもらい始めてからもう数ヶ月ほど経つ。
由利亜先輩は把握しているかもしれないけれど、俺はここ半年ほどATMに触れてもいない。
たまには自らの口座に目を通す必要があるかもしれない。
これまで兄から手渡される現金で生活してきたから特に銀行が必要なかったのだが、いつまでもタンス貯金というわけにも行くまい。タンスにお金をいれたことなどないので、引き出し貯金と言い換えておこうかな。
里奈さんに続いて自習室を出て鍵をかけると、カウンターに鍵を返しに向かう。
出入り口のすぐの場所にあるが、司書さんがいないのをみて、「じゃあ先にでてるね」と里奈さんが先を歩いて行った。
きょろきょろ見回して、司書さんを見つけると近寄って声をかけた。
「すみません、いったん外出るので鍵を返ししたいんですが」
そんな風に声をかけて、
「?!?!?!?!?!?!?!?!?!??!?」
どっひゃーーと声が聞こえるくらい肩を跳ねさせてびっくりされた。
ばっと振りかえって俺の顔をみて、もう一度びっくりして後ろに飛び退いて、そのまま尻餅をついて手であとづさる。
あまりにもな反応をされた俺はしかし体を動かして司書の女性のエプロンをぐいと引っ張った。
それ以上後ろに下がることを許さない程度の力で。
そんな俺の行為の意味には気づく様子もなく、わたわたと声が出せないことがもどかしいかのように体を動かして騒ぎ立てる司書さんに堪えかねて、
「あの、図書館なので静かにしてもらっても良いですか?」
眼鏡の下の目に上に薄く涙が浮かんでいるのを見て、エプロンから手を放すと女性の背後にある本の積まれたカートをどかした。
*:*:*
女性の名前は直刃緑。
俺と同じ高校の二年一組に所属する先輩だった。
俺がカートを横にどけたすぐ後、バタバタしているのに気づいた他の仕事をしていた司書さんがよってきて、俺が事情を話すといぶかしげな顔をしながらも息を切らして目をむく直刃先輩の背中をさすり始めた。
平静を取り戻すのに少しの時間を要してから、直刃先輩が俺の身の潔白を証明してくれて、介抱に来た司書さんからの謝罪を受け入れた。
そうして鍵を返すと待たせている里奈さんの元へと急いだ。
*:*:*
「あら、三好さんじゃない」
図書館の玄関口で太一を待つ里奈に、そう声をかけてきたのはセミロングを後ろで束ね、白のシャツに水色のカーディガンを羽織った里奈より少し背の高い女子だった。
「よもぎ先輩、こんにちは」
「こんにちは。こんなところで立ち尽くしてどうしたの?」
「ちょっと人を待ってるんです。勉強を教えてもらってて、今からその人と一緒にお昼ご飯に行くところなんです」
頬に手を当てよもぎとよばれた女子は言葉をためる。
「もしかして、彼氏、とか?」
「ち、ちがいますよぉ……私なんて、勉強教えてもらうくらいでしか口実つくって休みにあってもらえないですし……」
自らの質問で瞬きの間に気を落とした後輩に、かける言葉を見つけられないよもぎは、
「そ、そう。あまりハメを外し過ぎちゃダメよ」
会話を打ち切ってこの場を離れようとして、現れた少年を見て立ち尽くす。
自分の向かう先から現れた少年は、今まで話していた後輩女子の肩をたたくと、
「ごめん、おまたせ」
そういった。
「あ、ごめん、取り込み中だった?」
少年はよもぎの存在に気づき目を向ける。
そんな少年の視線に、よもぎは足を一歩引く。逃げだしたい小動物のように。
よもぎのそんな態度になど気づくこともなく、里奈と少年は言葉を交わす。
「あ、たいち君、鍵ありがとう。この人は二年一組の三沢よもぎ先輩だよ。文化祭の委員会でお世話になったの」
「そうなんだ。 ……ん? 二年一組、って、さっき、えっと、直刃先輩、も確か……」
太一とよばれた少年の言葉に、よもぎは食いつく。
「緑と話したの? どんな話を?」
太一は不思議そうにしながらもよもぎの問いに答える。
「話した、というほど話したわけでもないんですけど、さっき自習室の鍵を返そうと思って声をかけたらめちゃくちゃびっくりされて、それでちょっと名前とかクラスとか聞いたくらいですかね」
「そ、そう……」
よもぎの態度に首をかしげながらも、太一は特に気にすることもなく里奈に向き直った。
「そうだ、お店、混み出す前に早く行こう。俺レストランとかで待つの苦手なんだ」
「苦手?」
「うん、なんか別にここじゃなくても良いんだけどなぁとか思っちゃって時間の無駄を感じちゃうんだよね、いつもそれ以上に無駄に使ってるくせに」
「あ、でもなんとなくわかるかも。絶対ここで食べたいってお店じゃなくて、他に選べる候補があるならお店出ちゃう」
そんな風に話を弾ませる二人を前にして、よもぎは里奈のメンタルの強さに驚嘆していた。
少年が持つ異様な雰囲気を、一切感じていないかのようなその態度に。
山野太一。
校内での彼の偉業を知ってなお、里奈のいまのような態度がとれると言うことが、彼女には考えられなかった。
学力試験において最高位をとり続ける異常な少年。
おおよそ人間には見えなかった。
「気をつけてね。私はこれから仕事だから」
その恐怖を心臓の鼓動を押しつけるように誤魔化し隠し、優しい先輩を演じてみせる。
手をかけたトートバックの持ち手に、汗がにじむのがわかった。
「はい。よもぎ先輩もお仕事頑張ってください!」
里奈の言葉に手で応じ、少年の会釈に目で応じると、玄関口を入っていった。
「じゃあ、いこっか」
「俺お店の場所わかんないんだけど大丈夫?」
「ちゃんと調べてありますとも」
「じゃあ、案内よろしくお願いします」
歩き出した二人を見るものは誰もいない。
背中にびっしりとかいた汗をシートで拭い、着替えるとロッカーをしめる。
椅子に腰掛け、ため息が漏れた。
「山野一樹の弟、それだけでもいやなのに……」
でも。
「山野太一、彼なら……」
二年一組三沢よもぎ、彼女の狙いは一体……。