175回 手は取りながら。
「しませんよ」
俺の口から出たのはそんな拒否のことばだった。
自分でも驚くくらいにあっさりとそのことばが出たことで、数秒間の間がうまれた。
「キスしよ」とか、そんなことを言う雰囲気になったことがこれまで一度もなかったから、むしろ凄い冷静になっている。
目の前にいる美少女が、なぜ自分にそんなことを求めてくるのか、そんなことの理由を考える余裕すらあるくらいだ。
俺のことばを聞いた先輩は、俺の顔をまじまじと見ていた。
じっくりと、なんどなく目をそらす俺の顔を、目をあわせてはそらす、俺の目をじっと見続けて。
「そっか。うん。わかった」
笑顔は満面で、泣き後の残る目が痛々しかったけれど、俺はどうしてかまた硬直して、「あぁ、綺麗な人だ」そんなことを夢の中にでもいるときのように考えた。
先輩は俺から体を離すとソファーに置いていた鞄を持った。
「そろそろ帰ろっか」
俺はハッとして立ち上がるとボストンバックを持ち上げて、体に入りすぎた力のせいでぴくりと肩が跳ねる。
なんだ、この感じ。
体が言うこと聞かなくてうざい。
心の中で文句をたれた。
「ほら、いこう? どうせ鷲崎ちゃんには今日のこと何も言ってないんでしょ」
そうだ、急いで帰らなければ。
遅れることは言っているが、あまり遅いと心配される。
「そうですね。行きましょうか」
先輩が扉を開ける。
俺は後ろからその背中を見ていた。
病室から歩き出る先輩の背中。
長い長い療養を終え、何もかもを失った少女の、その後ろ姿。
そうだ。この人は、ここから新しい日々が始まるんだ。
暗く閉じた病室を抜ける先輩は、明るい未来に踏み出すようにも見えて、でもそれは俺の希望の混じった見方でしかないと首を振る。
俺が終わらせてしまったんだ。この人の日常を。
もしかしたらあったかも知れない、三人の生活を、俺が消したんだ。
自分のしたことを忘れてはならない。
それでも、この人の未来が明るくなるような手伝いをしたいと思った。
そうあって欲しいと思ったのは本当だった。
続いて俺が病室から出ると、先輩は振り向いて、
「太一君! これからもよろしくね!!」
逃げてばかりの人生で、これからもそうやって生きていこうと思っていて、逃げて逃げて、たどりついた場所がこの顔で。
俺がいったい何をしたというのか。
はぁ……、太く長いため息が漏れる。
仕方ない。逃れようがない。だからやるしかない。
一緒に歩く先輩は目をそらしても見つめてくるし、家に帰れば今日も説教してくれる先輩がいる。
今の生活からは逃れられない。
というか、俺自身、もうこの生活以外をあり得ないと思ってしまっている。
だから。
「はい。こちらこそです」
後ろ手に閉まる扉が、俺の背中を押した気がした。