誰と、それは。
弓削家の夕飯の引き留めをかいくぐり、次の目的地へと足を向けた。
足を向けると言っても距離が少しあるので大通りに出てタクシーを拾った。
最近タクシーと浅からぬ因縁が芽生え始めているので、恐る恐る運転手の顔を見るが、俺の知るその人ではないことを確認できた。
あのときは俺があの人を知る必要があったが、いまはもうその必要がないということかもしれない。
先輩の住まう病院を行き先に指定して、シートに深く腰掛けた。
見慣れた光景の先に病院が見えるころ、時間は六時を目前にしていた。
俺は心中で「やばい」そうつぶやいた。
タクシーが病院の玄関前に止まった。
俺は気持ち急ぎ目で降りて自動ドアを通り抜けると、病院特有の匂いが俺を包む。
いつものように特別棟に向かって歩き、人影のまったくない廊下にでた。
この先にあるエレベーターに乗れば病室だ。
そう思って足を進めると、ベンチに女性が座っていた。
黒髪をくるくるともてあそびながら誰かを待っている風なその美人は、俺の足音でこちらに目を向けた。
すると、立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。
え、なに、おれ? おれか? そんな風に戸惑っていると、女性は俺の目の前で止まり、こう言った。
「太一君、迎え遅すぎない?」
俺は面食らった。
当然だった。
俺が迎えに来たはずの女性とは、雰囲気が別人だったから。
「せ……せんぱい……?」
辛うじて出た言葉はその程度のものだった。
「他の誰に見えるのさ」
「いや、いやいや、他の誰かに見えたんです……」
「え、あ、そっか。私この姿で合うの初めてか」
そんな風にぼそりと言うと、先輩は微笑んむ。
「どう? 可愛い?」
その笑顔に見蕩れてしまって、俺は二の句が継げなかった。
「あ、と、っそう、ですね」
「ふーん。……まあ、いいや。荷物持ち来て。病室なの。あ、あと、このまま一端うち行くから」
言われた言葉を受け入れるくらいの思考力しかなくて、
「はい、りょうかいです」
しゃっきりとした言葉の割に、脳みそを使っていないものが口からこぼれた。
どうやら俺が来るのを待ってくれていたらしい先輩とエレベーターに乗って目的の階で降りると、白い廊下をまっすぐ歩く。
曲がり角などなく、いつもの場所の扉を開けるとベッドの上に荷物をまとめたのだろうカバンが一つのっていた。
「それ、開けちゃだめだからね。下着とか入ってるから」
「人のカバン勝手に開けませんよ」
エレベーターに乗ってる内になんとか正気を取り戻した俺は、なるべく先輩の方を見ないようにしながら病室に入った。
見慣れた場所は、主をなくしたようにがらんとし、少しもの悲しさすら感じた。
しかし、この感傷はお門違いも甚だしい。
むしろ先輩の退院は喜ぶべきことだ。
そう、喜んでしかり、なるべく盛大に祝うべき。
だが、俺にはいくつか懸念があるのだ。
コンコンという音が一人ぼけっとしていた俺の思考を引き戻した。
気づいたときには先輩が扉を開けるところで。
(……ん?)
と嫌な予感がよぎっても、もう止めることはできなかった。
「はいはいどちら様ですか?」
いいながら扉を開け放つ先輩。
俺は扉の前に立つ予想通りの人物を見て力なく、
「はぁ……」
盛大にため息を吐いた。
その男は飄々と立っていた。隣に立つ女性はまだ立つのになれていない様子で、男はそちらを少し気にする素振りをみせつつも俺のため息ににやりと笑った。
すこしふらつく斉藤さんに手を貸して病室に入ってくると、開口一番こういった。
「俺、沖縄行くわ」
「はい……さい……?」
今日はどうやら思考がうまくまとまらない日のようだった。
斉藤さんが椅子に座り、一拍おくと、俺と先輩は兄に促されるままソファーに座り、兄は立ったまま話を続けた。
「唯さんがまともに歩けるようになったら、結婚して沖縄に住むことにした」
「なぜ?」
「やっぱ海外より日本かなと思って」
意味分かんねぇ……。
俺が早々に理解を諦めると、先輩が口を開いた。
「確かに、けがや病気の療養は暖かい方が良いと聞きますけど、仕事はどうするんですか?」
なかなか丁寧な口調だったことに少し驚くと、そんな顔をキッと目線でとがめられた。
「仕事? それならほら、そこのそいつがやってくれてるから」
おい、あの丸投げたやつ全部俺持ちかよ。と、まあいいたいところだが、よく考えてみれば確かに引き受けたものだ。文句は言えそうになかった。
「自分の仕事を人に押しつけて、それで自分はリゾートですか?」
俺は言えないが先輩は思うところあるようで、反論してくれる。
いや、思ったこというのはこの人の性格か。
「押しつけるなんて人聞きの悪い。依頼したら引き受けてくれたんだよ」
「でも元は自分のところに来た依頼ですよね?」
「そうだけど、俺が達成できなかった依頼を一月足らずで片付けたやつがやるっていったらクライアントも文句は言わなかったし、そこは問題ない」
「…………っ」
先輩の攻撃が一瞬止まる。
「?」
俺は先輩の様子を見ようとしてピクリと体が固まる。そうだ、見たらいけないんだった。
「そ……それでも、仕事が終わるのを見届けるのが筋なんじゃないですか?」
「その辺は信用してるし、完了の連絡は都度もらってるし、クライアントからも泣きながら電話もらうし、特に問題はないかな。沖縄だって電話くらいつながるよ」
「そういうことじゃなくてっ!!」
なんだろう、先輩がずいぶんいらついてる気がする。
とはいえ、俺が受けた依頼の四割は既に完了している。
残すところは時間の経過が必要な案件のみなのだ。だからそこまで気にするようなことではない。
俺は立ち上がり、息を荒くする先輩を制止する。
「沖縄だっけ? いいんじゃない? 母さんも父さんも、いったときに宿泊費が浮いて喜ぶと思うよ」
「結構大きめのコテージを買ってリノベーションして住むつもりだから、太一も遊びに来なよ」
「んー、暑いの苦手なんだよなぁ」
そもそも高校の内は沖縄なんぞに行く金はないし。
「鷲崎由利亜ちゃんとか喜びそうじゃん、一緒に旅行行こうとか誘ってみれば?」
視界の隅で、先輩がピクリと反応したような気がした。
「言ったら喜んでくれるだろうけど、ただの同居人と旅行はきついでしょ」
「どう考えても逆だけどな」
「逆って何が?」
聞き返してもやれやれと首を振るだけ。兄は斉藤さんと目を合わせると、一つ頷く。斉藤さんは俺を何か虫でも見るような目で見ていた。
「じゃあまあ、仕事頼んだってことと、今回はありがとうってことと、死ぬなよってことで」
「ああ、うん、早く帰んないとちびっ子に殺されるから急がないと」
「そういえば、長谷川ちゃんの素顔は初めてだったろ? どうだった?」
「あ? どうって、普通? に美人?」
盛大な虚勢を張った。
様子から察するに全員が失笑という感じだった。
「おまえ、さっきから露骨すぎだぞ。もっと真剣になれよ」
「だからなににだよ……」
前に似たようなことを母さんにも言われた気がする。親子だなぁ……。
「それじゃ、俺と斉藤さんは失礼するわ」
言うと斉藤さんが立ち上がるのを手伝って病室を出て行った。
「何だったんだ……」
ぼやいてみても、先輩からの応答はなかった。
「帰りますか、先輩」
呼びかけると、立ち上がる気配がした。
俺はベッドに近づいてカバンを持つ。
「じゃあ、行きますか」
扉の方に足を向けると、先輩が俺を呼んだ。
「ねえ、太一君」
「なんですか、先輩」
どうも心拍数がおかしい。
今はかったら異常値なのは間違いない。
何でだ?
その気持ちを悟らせないように、努めておちゃらけて振り返った。
「今日の私、どう?」
そう問うてくる先輩の姿は、ワイシャツにカーディガンを着込んで下はGパンというシンプルな出で立ち。
「似合ってると思いますよ? ていうか、似合わないものあるんですか?」
ふざけるように、明るく。
怒らせない程度に、逃げる。
「そうじゃなくて……。ねぇ、太一君。仕事、辛くない?」
先ほどの兄とのやりとりを思い出して俺は首を振る。
「先輩の病気を治すのに比べれば、全部しょうもないですよ。しょうもないことに力を注ぐほど、俺は一生懸命な生き方してないです」
ふざけて言って、笑って見せた。
嘘なんてついていない。俺は仕事に力なんて注いでいないから。
辛いことから逃げるのには、慣れているから。
「そう……」
それだけつぶやくと、先輩はしばらく口を噤んだ。
俺はカバンを元の位置に戻し、斉藤さんの座っていた椅子に腰掛けた。
先輩が何をそんなに思い詰めているのか、俺にはわからなかった。
でも結局沈黙に堪えかねて、質問していた。
「先輩は、これからどうするんですか?」
それは結構な確信をつくような質問だった。
自分で聞いておいて、そういえばどうなるんだろうと疑問に思うほどに。
「学校にはこれまで通り通うよ。私の保護者は行方不明だけど、どうやったのか太一君のお兄さんが身元の保証人になってくれてるから、大丈夫」
「そう、なんですね……?」
本当にそれで大丈夫なのだろうか? 両親は死に、保護者は消え、親族郎党行方を知らないという状況。これは世に言う天涯孤独というやつなのでは?
「それに、太一君が私を守ってくれるでしょ?」
俺は息を詰まらせた。
先輩が美人だったからではない。
その言葉の奥に、俺が殺した二人が見えたから。
何が両親は死にだよ。てめえで殺した人間を、自然に死んだみたいな言い方しやがって。辛いことからは逃げられても、現実からは逃げられないと、そんなことはいやというほど知っているだろうのに。
「そう、ですね。いつまでも力になりますよ。もちろん」
力なく頷いて、俺は先輩に笑いかける。
「ばか」
ふいに甘い香りが俺を包んだ。
ひしと抱きしめられて困惑する俺に、先輩はなんどもなんども、
「ばか」
そう繰り返した。
繰り返す言葉が段々と湿り気を帯びて、最後にはすすり泣きに変わった。
戸惑う俺を置き去りにして、先輩は一人、感情を吐き出していく。
何をどうすれば良いのかわからなくて、ふらついていた腕を使って背中をさすったり、ハンカチを渡したりしてやるせなさを拭った。
鼻声の先輩は、俺への罵倒をようやくやめて、一言だけこう言った。
「ねぇ、キス、しよ?」