165回 あー、まあそうなるよね。
以前、兄がこんなことを言っていた。
「アメリカにはなんでもあると思ってるやつが多いと思うんだよ。実際、今の世の中はアメリカって言う大国の影響をどこにいてももろに受ける」
俺はその言葉に何のためらいもなく頷いた。
俺たちみたいな一般人の、ありきたりな高校生でも、授業や日常生活でアメリカの影響を受けないことはない。
「行ってみて、俺が肌で感じたのはあの国に何でもあるという風潮が嘘だってことだ」
少し考えるようにして、俺の目を見る。
「俺はおまえを見て育ったからか、圧倒的なものにはそれなりの理解がある。それでもアメリカっていう国がその『圧倒的な存在』ではないことは、はっきりとわかった」
兄の言葉にいちいち反応はしない。
この男の言葉がいまいち理解に苦しむのは今に始まったことではないから。だから、俺はそのまま続きを待つ。
「ニューヨークやロサンゼルス、ワシントンD.C.なんかに人が多いのは正直当然だ。日本の東京や大阪、京都なんかに人が集まるのと同じ現象だ」
兄は鞄から取り出したスケジュール帳の白紙のページにアメリカの地図を書いていく。
さらさらと書かれたアメリカの地図はアラスカとハワイを描き完成した。
「でもな、そこにいる人たちはほんの一部なんだ。大都会に憧れて、一攫千金の求めて、そんな風に人生を送ろうとするやつが全員でたまるかって話だよな。当然、普通に手堅く当たり前の日々を送ってる人たちの方が大半、というか九割方そういう人間だ。アメリカだってそういう場所だ」
このとき俺はようやく気づいた。
この話には要点がないということに。
たまにこんな風に要点のない話を始めると、意味深なことを言って俺に問題を出すのだ。その雰囲気をようやくつかみ取った。
しかし、今更気づいたところで後の祭りだ。もうこの話は終わりを迎える。その時俺は、どんなことを問われるのだろう。
「じゃあなんでみんながそんな、何でもあるって風潮に染まってるのか。俺はおまえほど賢くないから言葉で表すと違和感があるんだけど、でもそう、サンタクロースみたいなものだった」
ニヒルに笑う兄の顔をよく、覚えている。
「なあ、おまえはどう思う───
* * *
自分の布団から這い出して、洗面所に向かった。
鏡に映る自分の顔は普段通り。
顔を洗って軽く歯を磨くと、ダイニングに戻る。
「おはようございます」
洗面所に行く前に通り過ぎるタイミングでした挨拶をなぞった。
由利亜先輩は部屋着にエプロンを着けた格好でフライパンを揺すっていた。
「うん、おはよう」
フライ返しを持った手に意識を集中しながらも、俺の挨拶に二度目の返事をくれた。
ジュウジュウと焼いているのは卵焼きのようだ。
隣では味噌汁の鍋がふつふつとしている。
普段通りの、いつも通りの朝だ。
昨日、中華料理屋で赤のスポーツカーに乗りこむと、正造氏(未だ真偽不明)の言うとおり、由利亜先輩よりも二分ほど早く家に着くことが出来た。
車の運転をしている最中、例のおじさんは一言たりとも口を開かなかったけれど、あの人は確かにおしゃべりなタクシーの運転手だった。はずだ。
近頃あの人に出くわすことが多かったのは、このときの布石だったと考えられる。昨日あの場であの車に乗り込めたのは、数回あの人の車に乗っていたことが契機になったのは確かだ。
俺をこの家まで送り届けた後、「またのご利用を」とだけ言って去って行ったおじさん。
法定速度とか、そういうのを守っていたのかいなかったのかは置いておいて、ともかく、由利亜先輩より早く帰るミッションに成功した俺は何事もなかったかのように由利亜先輩と向き合い、由利亜先輩もなにごともなかったかのように普段通りに過ごしている。
それが、今の状況。
「太一くん、出来たから運ぶの手伝ってもらって良い?」
「了解です」
椅子に座り、考え事をしている間に料理が終わっていたらしい。
返事とともに立ち上がると、茶碗としゃもじを用意してご飯をよそって机に並べ、由利亜先輩の盛り付けた料理を受け取って机にのせていく。
ご飯、味噌汁、卵焼き、納豆、ひじき、小松菜のごま和え。細々とした料理が並び、最後に由利亜先輩特製のキャロットジュースを冷蔵庫から出して完成。
朝ご飯の定番となりつつあるメニューたちだ。
どれだけ食べても飽きないのは、俺が同じ料理を食べ続ける派人間であることもあるだろうが、由利亜先輩の料理の腕合ってのことだろう。
この人が日本からいなくなるというのは、それだけで国家レベルの損失な気がする。
……………いや、大げさでなく……。
二人とも食卓につくと、いただきますと手を合わせる。
どちらともなく箸をうごかしはじめ、俺は一口目に味噌汁をすする。
「今日の味噌汁、トマトですか……? ほんのり酸味がきいてておいしいです」
「ほんと? 昨日疲れてたみたいだったから、ちょうど良いかと思ったの」
ふふと微笑み「よかった」と小さく漏らす。
いや、やっぱ国家レベルだな。
お互い食事中に喋る癖はなく(俺に関しては「うまっ」「何これ、なにがはいってんのこれうまくね!!?」とう口から漏れたが)、黙々と食事を終えると、机を片付けてお茶を飲む。
学校祭翌日の今日は全学休講なのだ。
八時を過ぎ、まったりする俺に由利亜先輩が訊ねてきた。
「そういえば、昨日のミスコンの、どうするの?」
昨日の、ミスコンの?
「昨日のミスコンの里奈ちゃんの告白! どうするの!!?」
告白。
そうだ、そういえばそんなこともあった。
すっかり忘れていた。
「まさか、忘れてたとか言わないよね……?」
俺の表情を見て問うてきているのだから、俺からの回答などわかり切っているだろうのに、あえて俺に聴くあたり相当感情を押さえつけているようだった。
由利亜先輩の問いかけに目を逸らすことで回答を拒否し、自分の中でだけでも自分の恐るべき蛮行を正当化しようと試みる。
いや、正当化というかむしろこれはただの事実確認だ。
何しろ俺は昨日三好さんに告白されたあと、殺されかけたり助けられたり、殺人未遂の容疑者を病院に送ったり兄の人生をねじ曲げたりと忙しかった上に、目の前のこの人の人生の転換点になるかもしれなかった現場に連れて行かれたりと一日で激動だったのだ。
前日不眠でむしろよくもやり切った方だと言えるだろう。
そう、自分ではそう言えるし、そう思える。
が、現実はそうでもないらしく。
ガタっと立ち上がり、
「私があんなに不安な気持ちになったのに!!? 当の本人は告白されたことそのものを忘れてたってどういうこと!!!!!」
由利亜先輩は叫んだ。
「………そういう、こと?」
怯んだ俺はいらん口をはさみ、
「ふざけてる!!!」
怒りを買った。