それでも、彼の中では何も揺るがない。
さっきまで自分を殺そうとしていて、今もその意思を曲げてはいないだろう女性を背中に負いながら、学校をでる。
校庭でラストイベントが行われているおかげで、反対側に位置する昇降口に人はおらず、なんとか誰にも見つかることなく校門の外に出る。日本刀はブランケットに包んで斎藤さんの体を支える道具となっていた。
坂をくだりながら、タクシーが通りがかるのを期待半分にキョロキョロするが、当たり前だがそう都合よくはいかない。
しかし、現状タクシーに来てもらわなければ俺はこの人を駅まで背負っていって駅のロータリーでタクシーを拾わなければならなくなるのだった。
生徒会長が出て行き、なにも考えずに抵抗する斎藤さんを背負うと昇降口を目指して歩き出したのだが、財布をどこかに落としたらしく小銭がなく公衆電話は使えず、斎藤さんにスマホを借りようかと考えてみて、どうやら入院着のこの女性はスマホも財布も持っていないようだった。
校舎内を歩いている時こそおろせと言わんばかりに暴れていた斎藤さんも、今の時点ではその気力をなくしたようでおとなしい。
歩きやすくてとても助かるのだが、暴れている時は気にならなかったのに入院着の上からでもはっきりとわかる重量のものが俺の背中を圧迫しているのを意識した途端、気不味さがマックス………。
もちろんブレザーを貸し、さらにもういちまいのブランケットもかけているのだけれど、そんなことでは物ともしないようだった。
俺はワイシャツにネクタイという夏のサラリーマンよろしい格好をして、それなりに寒そうな格好だったけれど、現状全く寒さはなかった。大人一人背負っている時点でかなりの運動になるということの証明である。
普段つけている眼鏡をつけていない斎藤さんの表情は、俺から窺い知ることはできないが、息遣いの様子からは眠っているように推察できた。
疲れた……。
考えるまでもなく、斎藤さんは一般女性の中でも割に肉の多い方で(どことは言わないけれど)、月並みの身長を持てば由利亜先輩の比ではない。加えて眠った人間は起きているときより増加するのだ。
俺は人を一人抱えるということを少しなめていたのかもしれない。
普段、創作物で見る主人公とかいう存在は、軽々しくヒロインやサブヒロインをおんぶや抱っこで運びまわるから、意外といけるんだなと勘違いしていた。
そう、俺が見誤ったのは自分の腕力であって、決して持ち上げるものの重さじゃなくて。
「太一さん、今私のこと重いって思いましたか?」
そんな心の声は、眠っていたはずの人にも聞こえていたらしかった。
「決してそのようなことは。ただ俺って力ないなぁって思ってただけです」
「それって遠回しな───」
「違いますから!! 俺めっちゃ素直ですから!!」
女性の体重への執着を身をもって知っている俺は、必死の形相で言い訳するが、そんな俺の言い分はどうでもいいという風に、斎藤さんは疲労からか息を吐きぐったりと俺に体を預けてきて腕がずしりと命を感じる。
「おんぶなんてされたの子供の時ぶりです。父に、遊園地の帰り路におぶさってもらって、それ以来」
朦朧としている意識で、どうにか保っている意識でそんなことを言うのだろう。
譫言のような声は耳許で囁かれなければ聞き取れないような、そんな微かさだった。
「私、結婚します…… 一樹さんと結婚して、あの人を幸せにしたいんです…… これまで人のことばかりだった人に、これからは自分のことを考えて生きて欲しいって、そう思うんです………」
その言葉を最後に寝息が聞こえ始めた。
一定のリズムで刻まれる呼気に俺は安堵の息をこぼし、足を止めるともう黒くなった空に向かって目を向ける。
星の一つも見えない空に再度、今度はため息を吐く。
視線を戻し、足を動かそうとした時だった。
「山野、くんかな?」
車道側からの声。
大人の男の声。
「あなたは、えっと……」
左ハンドルの車の人。
俺は背中のひとを背負い直して、相対する。
「えっと……御牧、さん………?」
俺は辛うじて思い出せた名前を口に出すと、その男は俺の目を見て微かに笑う。
「会って挨拶したのつい最近なのに、もう忘れてるとは。聞いた通りだな」
この人は、こんな人だったろうか? もっと豪快な人だったような、そんな微かな記憶が現実との乖離を生んだ。しかし、そんな俺の些細な疑問は今は大した問題ではない。
「ずいぶんな荷物じゃないか、乗るかい?」
俺は固まった思考を回転させ、その男、御牧さんの誘いを有り難く受けることにした。
「はい、総合病院なんですけど、お願いできますか?」
「いいよいいよ、乗りな。その人は後ろで寝かしてな」
言われた通りに後部座席に斎藤さんを寝かせて、俺は助手席に座った。
そうだ、この人は御牧正吾さんだと横顔を見て思い出す。
「それじゃあシートベルトしたね、オッケー。じゃあ総合病院へレッツゴー」
人の良さそうな風貌が、明るめのテンションに相まって、この人がいれば馬が暖かくなることを確信させた。
しかし、今の俺の心境では、あまりに暖か過ぎてどうしてもギャップ以上の感覚を享受しきれない。
この暖かさの中でぬくぬくと他愛のない会話なんかに花を咲かせるのが普段の俺なら本当だろう。しかし今はそれができないでいた。
なにしろ一時間も前ではないのだ。
後ろで眠る女性に、今自分の手で握っている日本刀で殺されかけたのは。
「ところで、総合病院て相当遠いけど、財布も持たずに歩いてたってことは背負ってくきだったのかな?」
前方に目を向けたまま、俺にそう問いかける御牧さん。
「タクシー拾って病院に行って、病院の知り合いにお金を借りる予定でした」
俺は今思いついたことを口に出して質問にこたえ、その手があったかと遅ればせながら自分でも納得する。
て、なんかおかしくないか?
違和感にぴくりと動いた時、となりから腕が伸びてきて俺の前に何かをかざした。
見たことのある色合いと布地。
「甥が来年この学校に入学するかもしれないって言われて一緒に回ってたんだよ。そしたら帰り際にきみが前を歩いているのが見えてさ、きみの落とした財布を拾ったわけよ。背中の女性が気になったから、先に車を取りに行ってから追いついた。ここまでがシナリオね」
俺は財布を受け取ると、ポケットにしまう。
「中身見なくていいのかい?」
「気にするものは入ってないので。金も、よくよく考えたらタクシーに乗れるほど入ってませんし」
「へぇなるほど」
そう溢すと、聞いてた通りだ……と小声で呟いた。
俺はその言葉の意味をあえて問うことはしなかった。もう、勘違いされるのには慣れた。
「そういえば、あの時一緒にいた女の子とはどうなの?」
赤信号で停車するとコミカルに問いかけてくる御牧さんに、俺は努めて明るく応える。
「特になにもありませんよ。ただの先輩後輩です」
「そうなの? でも由利亜ちゃんの方はなにもないって感じじゃないじゃない? そろそろ告白とかされたんじゃないの?」
なんだこの大人、鋭いな。
青信号で車の発進するのを待って、俺は口を開く。
「告白なんてされてませんて。俺がする分にも由利亜が俺に告白する理由がないですもん」
「山野くんは告白に理由を求めるタイプなのか」
「それは、まあそうですね。漠然としてても、何かしらの理由がないと、何も見えないと不安ではありますから」
「ふーん……なるほど」
なんなんだろう。俺の告白観など聞いてどうする気なのだろう。
「いやいや、きみは意外というか見た目通りというか、かなりピュアなところがあるんだね。面白いよ。きみみたいに見え過ぎている人間は、もっと荒んでいるものだとばかり思っていたんだけれど」
「見え過ぎている?」
「ふ…まあいいや、そろそろ着くぞ」
そういうと、御牧さんは最後の交差点に差し掛かった車のハンドルを切った。