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愛する人と、好きな人、それでも人は理解できない。



『凄いですよ先輩!!』

『これ全部先輩がやったんですか!!?』

『先輩は将来絶対世界を救う人になりますよ!!』

『私、絶対先輩の後ろをついていきますから』

『先輩、もうこんなに……』

『私……先輩の事、尊敬してるんです……』

『もう……ついて行けません……』

『━━━━━━怖い……………』


 いつかの記憶が脳裏をよぎった。

 いつだったか、誰に言われた言葉だったのか。そんなことももう思い出せないほど、俺はその人物の事を記憶の奥底に押し込めてしまった。

 最初、好いてくれた人間が向けてくる、自分とは違う何かを見る恐怖に染まった目の奥に、あの頃の俺は何を思っていただろう。

 大したことは何も思っていなかったように思う。一人は好きだったし、他人が自分から離れていくことにはなれていた。

「じゃあ、俺は何が悲しくてこんなことを思い出したんだろうな」

 由利亜先輩と分かれて、何をするでもなくぼけっと校内を散歩していた俺は一人そんなことを呟いた。

 別に何かを探しているわけではなかった。

 ただ、祭りの後というモノのもの悲しさに、なんとなく感傷的になってしまっていただけで。

 とぼとぼと足が向く先は、無意識のままに部室を選択していたらしい。下りの階段に差し掛かる頃、暗くなった廊下の先に人影を見つけた。

 節電の名残で照明の消されている廊下では、シルエットしか見ることが出来なかったが、その後ろ姿には見覚えがあった。

「斉藤さん……?」

 口からこぼれた名前の主は病院にいるはずの、完璧な病人だ。

 しかし、その事実を裏付けるかのように目の前を歩くその人は、確かに病人の様にふらふらとおぼつかない足取りで俺と同じ進行方向を進んでいく。

 部室棟への道はその階段を降りるのみ。

 前を行く斉藤さんに気付かれないように、足音を消してそろりと後をつけた。いや、バレてもかまわないし、何故かはよく分からないが、なんとなく気になって。

 気になって。

 そりゃあ、兄の恋人(勝手な決めつけ)が追い出されることなく校内をうろうろしていたら気になるだろう。なんだったら迷子を疑う。

 けれど、おぼつかない足取りとは裏腹に、目指している場所は明確なように見て取れた。

「そういえば、俺たちの部室にはもう何度か来たことあるんだったな」

 一度の対面と、知らない間の来校を想起して目をこらす。

 やはり、斉藤さんなのだろう。

 だが、何をしに?

 そんな疑問に突き動かされて、鍵のかかった部室の前で立ち止まる斉藤さんに声をかけた。



 * * * *



 のそりと振り向くと、斉藤さんは何も言わず、扉の前で俺を待った。

「ああ、ちょっと待ってくださいね、今開けます。そしたら椅子用意するんで」

 病人で、ふらつく人をこれ以上立たせておくのはまずい気がして、慌ててポケットから鍵を取りだして扉を開けた。そのまま抑えて斉藤さんを先に通すと、いつも香っていた花のような香りがしなかった。

 あれはやはり柔軟剤か何かの匂いだったのか、それともシャンプー? 何にしても香水なら病院でもつけられるわけで、そういう類いのものではなかったわけだ。

 正直香水というものが子供の頃から苦手で、あれが香水の匂いなら使い方次第なのかと期待していたのだがそんなことはなかったようだった。

 斉藤さんに続いて部屋に入り、長机にしまわれたパイプ椅子を引くと斉藤さんが座るのを促した。よろよろと椅子に座り込むと、いつものきっちりした姿勢とは違う、だらりとした具合の悪さが見て取れる姿勢で落ち着いた。

 俺は椅子には座らず、お茶道具の前に移動する。

「斉藤さんはお茶飲みますか? 温かい煎茶なんですけど」

「……」

 こくりと頷く彼女は、それでも口を開こうとはしない。何か言いたいことがある様子だが、それが言える状況になるのを待っているようだった。

 いつも温和な表情を浮かばせる顔に差した陰りは、俺とやりとりをするごとにましていくのが見て取れる。

 どうぞと入れたお茶を差し出すと、湯飲みに触れることはしなかった。

 少しの間俺のお茶をすする音だけが部室内を満たして、少し遠いところから、和太鼓の音が聞こえる気がした。

 後夜祭の出し物か何かだろうか。

 そんな風に思考していると、斉藤さんがふるふると肩を揺らしているのが見えた。

 泣いて、いるのだろうか?

 あの兄がついに婚約を申し込み、その上で死が間近なことを伝えたりしたのだろうか?

 俺との会話を忘れ、好きな女の近くでイチャつく男にも、ついにその勇気が出たのだろうか。

 若干目肉親を馬鹿にしながら、俺はしかし声をかけることはしなかった。女性が泣いているときに声をかけるのはマナー違反だと以前ちっこい先輩に言われたから。

 震える吐息で深呼吸をして、斉藤さんはようやく口を開いた。第一声は、俺の名前だった。

「太一さん。私、一樹さんから全部聞きました」

 キリリとした、澄んだ声だ。

 温和な表情には不釣り合いなその声が、いつも通りに俺の耳に届いて少し安心した。

「そう、ですか。それで、斉藤さんの答えは?」

 うつむいたままの彼女の表情は読み取ることが出来なかった。それでも、薄く嗚咽のように漏らした「もちろん……」という言葉に、あの兄がどうやら婚約に成功してしまったことだけは確かだった。

 俺の方は丸投げされた仕事を六割ほどしか終えられていないので、それは投げ返しても良いものなのだろうか。

「私は……」

 声と言うにはあまりにもかすれた、空気の漏れただけのようなそんな言葉に、俺はピクと体が固まるのを感じた。

 途端、ひりつく空気にぞわりと背中に何かが走った。

「太一さん、私はあなたに聞きに来たんです」

 震える声。

 何かを無理矢理押し込めているような、そんな言葉だった。

「太一さんは、恋をしたことがありますか……?」

 その問いかけに、俺は目を見張る。

 どうも最近ちまたでは恋愛がはやっているようだと、現実逃避気味の思考が告げる。

 昨日、先輩と由利亜先輩に告白された。今日、三好里奈さんから告白された。

 少し前には兄に目の前の人とのことを相談された。

 俺は恋愛などしたことはないのに、なぜか俺の周りは恋愛一色だ。

 そう、俺は恋愛などしたことはない。

 だからそう答えれば良いのだ。

 周りのことなど気にせず、状況のことなどお構いなしに。

 だけれど、応えるために開いた口から声が出ない。

 まだ高校一年生なので、これからですね~、そんな風におちゃらけて、適当におふざけに、真剣な雰囲気を壊せば良いだけなのに、それが、ただ声を発することさえ出来ず、喉元につっと汗が伝う。

 うつむかせていた顔を上げ、眼鏡越しにこちらを見る斉藤さんのその目には負の感情を凝縮したような色が浮かんでいた。

 この人はこんな目をしたままさっき少し笑うような素振りをしたのかと、背筋がまた寒くなる。

「恋愛経験、ないですか?」

 答えない俺に業を煮やしたのか、斉藤さんは言葉を重ねた。

「そうですよね。そんなの見ればわかりますよ。だってあなたは人を愛せない」

 何を言っているのか、わからなかった。

「だってそうでもなければ実の兄が死ぬかもしれない状況で学校行事に笑顔で参加できるはずがないんです……」

 …………わからなかったし、返す言葉もなかった……。

「助けられるのに、助けない選択をする人間が、人を愛せるはずがない」

 よろよろと立ち上がると、斉藤さんは俺を見た。

「なんで…… なんで……先生を見殺しにしたの……」

 構えた日本刀の切っ先ににらまれながら、その日本刀がいつから持たれていたのか、俺にはわからなかった。

ごくりと喉から音がなる。

俺は質問に口を閉ざした。

  あの男を見殺しにした、そんな事実は存在しない。そのことをそのまま告げることがなんの意味も持たないことを知っているから。

 いま目の前にいる女性が言いたいことは、ハッキリと理解した上で、俺はただ次の言葉を待つ。

 努めて静かに、静寂の継続のみをよしとした俺は呼吸さえ可能な限り抑えて、視線の先では闇夜で不思議と淡く輝く切っ先を見据えていた。

 それが自然であるかのように一本の線として停止していた刃が、数ミリの感覚でぶれる。

 小さく息を呑む音に、顔を上げる。

「ぁっ……っぅぁ……」

 巨乳の女秘書が、眼鏡の奥で泣いていた。

 暗闇に慣れた目で捉えたのは、頬を伝い地に落ちる雫。しかし目の前の涙を流す女性がそれを拭おうとする動作は見受けられなかった。

 ポケットからハンカチを取り出して、差しだそうとしたとき、斉藤さんは激しい声で「ふざけないで」と叫んだ。

 震えた声に気圧されて、俺は一歩足を引く。

「こんなこと…… こんなことしてる暇なんてないのよ……っ!! あの人のそばにいて、寄り添っていたいのに!!! それ以上にあなたを許せないっ!!!!」

 ずしりと何かが肩に乗っかった。空気が重くなったのかもしれない。少なくともそう感じたとき俺の背後には何もなかった。

「あなたが本当に助けようとすれば助けられる命なのに……なんで、自分の実の兄を見捨てられるのよ!!!!」

 助けようとすれば、助けられる。

 そんな買いかぶりに、俺は閉ざしていた口を開く。

 勘違いは、正さなければならないから。だって、間違っているとわかっていて正さない勘違いは、それは嘘をついているのと変わらない。

「斉藤さんも、俺のことを調べたなら知っているでしょ? 俺が中学の時何をしたか」

 険しい表情を崩さない目の前の大人の女性は、俺を子供としてみていないような、そんな視線で目を細める。

 それだけで伝わるはずの内容は、それだけで本当に伝わって、でも、どうやら俺がほんとうに伝えたかった内容とは少し違っていたようだった。

「知ってるわ……全部、全部……」

 訥々とこぼれる彼女の声に傾けた耳は、廊下で響いたカツっという靴音も拾い上げた。しかし靴音の主はこの部屋の前で耳を澄ませているらしい。

 チャキリと震える手に握られた日本刀が音を鳴らす。その手に煌めく刀を握る当人は、刃を納める気はさらさらないのだろう。

「一樹さんが話してくれたもの……。俺の弟がまた人を助けたんだって……。あいつはいつも自分のことを棚に上げて人助けして、それが心配だって……」

 ぽろぽろこぼれていく涙が妙に痛々しくて、感情が、こぼれていっているようで……。

「いつも苦笑いで、でも俺には何を言ってやることもできないから、だから俺はあいつの人生を否定しなきゃいけないんだって……。おまえのやり方じゃ、おまえが幸せになれないって、教えてやりたいんだって……」

 ドスッと言う重々しい音がして、切っ先が床に落ちる。 

「なのに……なのに……!!! なんで他人は助けるのに、一樹さんを助けてくれないの!!! なんで!!!!」

 その叫びは問い詰めるとか、そんな生易しいものではなかった。

 咆吼、に近いもの。

 そんな絶叫にも、俺はきっと彼女の望むような答えを返すことはできない。

 だって俺は、中学時代に人なんて助けていないのだから。

 目をそらしたくなるようなものを見てしまったとき、焼き尽くしたことは確かにあった。這いつくばった地面の下に手を伸ばして、すくい上げた同級生のことだって覚えている。後輩一人を登校させるためだけに、学校中の人間に嫌われたのだって昨日のことのようだし、その後輩からすら嫌われたときにはさすがに心が折れかけた。

 でも、こんなのは人助けじゃない。

 ただ巻き込まれただけだ。

 関係したのが俺なだけ。

 誰が巻き込まれたところで結果は同じになっていただろうし、それこそ、俺はただ誘惑に負けただけなのだ。

 濁った水が、水蒸気になることで雲になれるように。俺にもいつか、俺だっていつか、もっと違う何かになれるんじゃないかって、そんな風に思ってしまっていただけなのだ。

「……ふっ………… 時間の無駄、のようですね」

 口を開かない俺に、斉藤さんそう告げた。口調がいつも通りに戻っていた。

 音もなく刃を正すと、俺と斉藤さんはハッキリと相対した。

 部屋の中で振るうには明らかに長すぎる得物だ。しかし、なぜか彼女の立ち姿からはその無駄がそがれているように見えた。

「動くと狙いがずれて痛い思いをすることになるかもしれません」

 それは忠告か、はたまた挑発なのかもしれない。

「俺が死ぬと、斉藤さんに何かいいことがあるんですか?」

 俺の問いを、斉藤さんは俺をにらみつけることで黙殺した。

 そう、意味なんてないのだ。無駄だと、暇はないのだとさっきそう言っていた。

 では仕方ない。

 俺はただ諦めて、いつも通りに諦めて、ただ今の状況を受け入れよう。

「あんまり、痛くしないでくださいね」

 苦笑いで、どうにか絞り出した答えはこれだった。

 すっと踏み込みが入ったとき、俺の目は斉藤さんが突きの構えであることを見切っていた。

 静寂と走馬灯さえ見せてくれないゆったりとした時間の感覚。

 流麗な技で俺を殺そうとする目の前の秘書が宙を舞ったのは、俺の胸にその鋒が届くまで数ミリの、その時だった。



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