150回 努力の果ての秀才と、自己嫌悪の果ての天才。
慌てて由利亜先輩の肩を持って引きはがす。キスの反動は心臓を跳ね上がらせ、唇に残る柔らかい感触が俺を苛む。
俺は驚きを隠せないまま彼女の目を見据え、前にも後ろにも道のないこの状況に思考を巡らせる余裕もない。
そんな俺の対応に、一番驚いていたのは目の前の、俺を慌てさせた張本人で、真っ赤にした目の印象が薄れるくらいに首から耳まで顔を真っ赤にし、恐る恐る自分の唇に手をやって体を震わせている。
俺が奪われた側なのに、今の状況を見られたら明らかに俺が奪ったと勘違いされそうな状況だった。
「ご……ごめんっ……」
俺の胸ぐらをつかむ手をパッと放すと、自室へと駆け込もうとして足を止めた。
「……わ……私は…………」
顔をこちらに見せることなく由利亜先輩がぼそりと何かを言った。
聞こえるような聞こえないような声の大きさに、俺はその声の意味を知るために由利亜先輩に無意識に近づいていた。
由利亜先輩の背中に腕一本分の距離まで近づくと、由利亜先輩がこちらを見た。振り向いた彼女の目には涙がたまっていて、その頬には幾筋もの線が通っていた。
「…………いま───」
俺はそんな小さな女の子の言葉を、確かに聞こうとしていた。
真摯に受け止める。そんな気概を持っていた。
「───いま、あなたの前にいる女の子は……世界で一番、あなたのことが好きな女の子です。…………それだけは……知っておいて、もらいたい、です……」
すごく、甘い言葉だった。
熱烈な愛の宣言で、いままでの人生でも、これからの未来でも絶対に体験しないような、かわいい女の子からの最高の告白。
そんな状況で、俺の頭は対極に作用し冷静さを取り戻していた。
恋。
そう、恋だ。
苦くて甘い。甘くて辛い。
そんなもの、俺は知らない。
知らなかった。
だからこれからも、このまま知らないままで良い。
だから─────
「ありがとうございます。俺も、由利亜先輩のこと好きですよ」
「太一くんのそういうところも好きだけど、でも、私は本気で愛して欲しい」
いつも通りの受け答えを、そんな風にとがめられながら。
「じゃあ、私寝る準備するね」
俺はただひたすらに、過去の自分から逃げ回る方を選んでいる。
* * *
人の繋がりに、感情が影響を与え始めるのはどれくらいのタイミングなんだろう。
好意、嫌悪はもちろんのこと、それ以外のそれ以上の感情の発生は、初対面でも、毎日のように会っている人間との普段とは違う出会い方の場面でも、多分印象という言葉を用いて感情は作用する。
見た目のいい人間に対して好感を持つように、見た目の悪い人間に嫌悪感を持つように、自分の好きなものを持っている人間を好くように、自分の持っていないものを持つ人間を妬むように、人は人に感情を揺らす。
でも、その感情すら人は簡単に覆すことが出来てしまう生き物なのだ。
それを、俺は余すところなく知っているのだ。
つい数秒前まで仲良く、屈託なく笑い合っていた友人同士が、殴り合いのけんかをするところを。
好き合っていたカップルが、簡単に破局するところを。
好きだと言ってくれていた後輩が、恐怖のまなざしを向けてくるところを、俺は確かに見てきたし、それは誰しもの経験にあることだろう。
人付き合いという行為において、感情は切っても切り離せない。
そしてその感情の根幹にあるのは、個人の感覚だ。
好きか嫌いか。
本当にただそれだけの、たったそれっぽっちの機微で、俺たちは互いに互いを牽制し合って生きている。
さも好きなように見せたり、褒めながら内心ほくそ笑んだり、応援しながら裏で何かを画策したり、表と裏などという浅はかな言葉に惑わされて、それが当然であるかのように正当化する。
表も裏もない。そこにいるのは一人の人間なのだから。
覆らない事実におびえて、俺はただただ逃げ惑って、そうしてこんなところまで来て、そして、また、逃げるのだ。
自分に愛をささやく先輩から。
自分に愛を捧げてくれる先輩から。
意地汚く逃げ回る俺を、それでもあの二人はそっと撫でるように見据えていて、優しさの中で俺は怯えていた。
* * *
眠れない夜の過ごし方を、俺はいつだか学んでいる。
その時は一センチも動けないという極限状態だったが、今回は意味もなくぼーっと過ごしていて、布団にはいるでもなく本を読むでもなく、ただダイニングのテーブルの前で空気をこねていた。
いつもなら滲み出る胡散臭さに自分でも引くシチュエーションなのだけれど、今は全く気にすることもなく斜め上に目線を向けながら丸い蛍光灯を見つめてため息を吐く。
午前五時を少し過ぎて、椅子に座り始めてから三時間が経過した。
正直自分がなぜこんなにも眠れないのかもわからないまま、なにかを祈るようにしているのが馬鹿らしく感じてきたころ背後の固定電話が着信を知らせてきた。
着信音に振り向くと、ガタガタと由利亜先輩が起きる音が聞こえる。
今日、半年続けた腕枕の職を下ろされ、晴れて夜の自由を手に入れた俺とは引き換えに、安眠を手放す形となった由利亜先輩は、少しくらいは眠れただろうか。
だから、寝ていないことがばれるとかそういうことをは一切考えることなく、俺は右手に受話器を持った。
「もしもし」
耳に当てると一言そういう。こんな時間にかけてくる相手など、時差のことを忘れた母親か、あるいは─────
『一樹君の容態が悪化した。今すぐこれるかね?』
俺のことを過剰に評価しているあの医師しかいない。
焦った様子もなく、ただ淡々とそう訊ねてくる杉田医師の様子からは、こうなることがわかっていたのがありありと感じられた。
そして俺も、こうなることは予想できていた。
だから全く驚かなかったし、何の動揺もなく、淡々と答えることが出来た。
「わかりました。タクシー呼んでからになるので四十分後にはつけると思います。両親には俺から連絡しておきます」
電話口で息が漏れる音がする。
『太一君、君は大丈夫かね?』
「俺は事前に知らされてましたからね。むしろこのままだと世間が大騒ぎでしょうね。あの両親も、さすがに驚きはすると思いますよ」
『私は君たちの両親を知らないけれどね、この大病を死の間際に知らされるというのは恐ろしいことだと思うんだね』
「その辺は本人の意向なので。じゃあそろそろ用意するので」
『よろしく、頼むね』
何をと聞かず受話器を置いた。
やっかいなのは、いつもこういう期待の対象になるときだ。ただ天才の弟に産まれただけで、俺の価値は平凡だというのに。
「タクシー、すぐ来るって」
後ろから声がした。由利亜先輩が電話の内容を聞いて手配してくれていたらしい。
「ありがとうございます。じゃあ俺、準備するんで───」
感謝の言葉を告げて、そのまま制服に着替えて外に出よう、そんな段取りを立てながら不意に目に入った彼女は、すでに制服姿で鞄を持ってたっていた。
「私も、行く」
うつむきながら、それでも強い意志を感じて、これは何を言っても無駄なやつだなぁとすぐに諦めた。
「わかりました、すぐ準備するんで待っててください。あ、それから、うちの親には連絡しなくていいですからね」
部屋に入る間際、追加で付け加えたのはスマホを持った由利亜先輩の指が動いているのが見えたからだった。
「え……? 言わなくていいの……?」
問いかけてくる声を扉越しに聞き答える。
「多分母親は今北海道で仕事で、父は母についていって母の世話を焼いてるのでそっちも北海道。そんな人とたちを呼び出すのは非効率です」
「こう言うのって効率は問題じゃないと思うんだけど」
「まあ普通ならそうだと思うんですけど、あの兄に限って言えばそっちは選ばないと思うんで」
普通とか、平凡とか、一般的とか亜流とか、そういう個人の努力の付属しないものを好む男ではないのだ。だから奇妙な職に手を染めて死にかけているのだ。
そんな人間に、「誰かに見送られる幸せな最期」など来てはならない。
そう思っている。はずだ。ただこの思想も、結婚などと言うものに身を染めた今、どこまで貫いているかわかったものではないが。
「で、でも……」
「まあまあ、まだどうなるかなんてわからないですから」
「わ、わかった……」
着替えを終えて、制服になった俺は鞄を持って玄関口に立つ。
昨日の今日だ。由利亜先輩との間の微妙な空気は仕方ない。
せめて、タクシーの運ちゃんがおしゃべりな人でありますように。
そしたら気が紛れるから!!
玄関を出て階段を下りた先に止まっていた一台のタクシーには、昨日の夜、俺を送ってくれたのと同じ人が乗っていた。
「お? お兄ちゃんまた会ったね!」
元気のいいそのおじさんは、乗り込んだ俺たちに昨日の戸はまた違う雑談を延々と垂れ流した。
いや、勤務時間どうなってんだよ…………。