大切で特別で代え難い。
熱々のコーヒーに口をつける。
ブラックのままなので苦みが強いが、ほのかな甘みがうっすらと口に広がる。
「これ、おいしいね」
カップを置いて、ほっと一息吐くと素直な感想を口にした。
微妙な顔でこちらを睨んでいる里奈さんはその言葉には反応を示すことなく、一人だけ頼んだホットケーキを口に運んだ。
さっきあれだけパンを食べたのに、まだケーキを食べれるのだからなぜ俺があんなに残り物を食べさせられたのかは理解できない。
「コーヒーもけっこうこだわってるんだよ」
里奈さんの食べ過ぎを心配している俺に、横からそんな風に話しかけてくるのは清楚なメイド服に着替えた由利亜先輩。
長袖ロングスカートというメイド然としたメイド服には、袖や裾にレースのフリルが主張しすぎない程度つけられており、断然さっきの物よりも俺好みだ。一部主張の強すぎる部分に関してはノーコメントとさせていただきたいが、一つ言えることは、やっぱデカい。
「豆選びからお湯の温度、注ぐ回数とかまでプロに教わりにいったんだから」
「へえ、そんなことしてたんですか。……あれ、でも由利亜先輩、ここ一ヶ月くらい修学旅行以外ずっとウチに居ませんでした?」
思い出すように問いかけるとスっと目をそらす由利亜先輩に、疑惑の目をむける俺。
「っこ、こだわったの、本当に…… でも、私はあんまり手伝ってない……。だっ…! だからこうしてメイド服着てお店に立ってるの!!」
必至に弁解しようとしているのか、わたわたと動く由利亜先輩。別に責めているわけではないのだけど、面白いし可愛いからもう少しこの視線を送っておこう。
そう思ってみていると、思いつく限りの言い訳を終えてしまったのかあうあう口を動かしながら目をあちこちに移動させて、ハッと何かをひらめいたようだ。
「このドレスは私が作ったんだよ!! あのチャイナもあのナース服もあのタキシードも私がデザインして形にしたんだから!! そ……その、そんな目で見ないで……?」
最初こそ勢いがあった言葉は尻すぼみになり、俺の目を見ていたはずの目は顔が下を向くのと同じに自分の足下に向いてしまう。流石にそろそろ可哀想なので、一息を吐いて笑って見せた。
「由利亜先輩。俺別に怒ってませんよ。なんならからかってただけです」
それを聞いた由利亜先輩は勢いよく顔をあげ俺の事をキッと睨み付けると、
「わかってたもん!!!」
ぽかぽかと俺の胸のあたりを叩きながら叫んだ。
その現場をひたすら冷ややかな目で睨み続けていた同級生の女の子の目線に、俺はひたすら気付かないふりを続けた。
ぱくぱくとホットケーキを口に運びながら、ちびちびとコーヒーを飲む里奈さんを待ちながら、絡んでくる由利亜先輩をいなす俺の姿を、二年四組に居る店員も客も見ている。
指を絡めて手を握ろうとしたり、右腕を絡め取って抱きしめたり、自由気ままに振る舞う少女に小動物を愛でるような視線を送る人物達から対照的に、殺意以上の害意のこもった視線を送られながら、俺はもう一杯コーヒーを注文して気を逸らす。
正直、気が気ではない。
なんでこんなことになっているのかと不安でしょうがないし、震えた手では、真面にカップを持っていることも難しい。なんで俺だけこんな目に。そう思いながら三十分が経とうとしていた。
里奈さんも残すところコーヒー一口という段になり、ここぞとばかりに俺も残っていたコーヒーを一息に呷ると、カップを机に置く。もはや右腕は俺の管理下になく、ただ柔らかさに包まれるだけの器官とかしていたが、それももうお役御免。俺の元に腕が返ってくる時も近い。
「クッキーと紅茶ください。紅茶はストレートで」
「えッ……?」
もうそろそろこの教室からでれる。そう思っていた俺の虚を完全について、里奈さんが追加で注文を入れた。
その行為にあまりに驚きすぎて、声が漏れてしまった。
「ん?」
そんな俺の心中を、察しているのかいないのか、仮にしているとしたら一体何を考えているのか、里奈さんは可愛く小首を傾げて不思議そうな顔をする。
「あ、いや、よく食べるなって思って」
里奈さんの反応があまりにも自然で、苦し紛れに言葉を漏らす。
「だってめっちゃおいしいし!!」
だそうだ。
「たいち君も何か食べたら? クッキー一つわける?」
「あ、うん、ありがと……。……由利亜先輩、コーヒー入れて貰っても良いですか……?」
これもまた苦し紛れだった。
身長の関係上、腕を取られている方向に引っ張られるのは必然で、ずっと体が傾いているのが地味につらくて、もう何でも良いから少し姿勢を整えたかったというそんな感じ。それが、どうも由利亜先輩の琴線に触れたようで、なんでか少し嬉しそうに腕から手を解いて立ち上がると、
「しかたないなぁ、ちょっと待っててね」
言って、弾むように歩く後ろ姿に視線を送っていると、里奈さんがつま先をタンタンと叩いてきた。
「たいち君てさ、本当にユリア先輩と付き合ってないの?」
「…………はッ……?」
サッと背中に一筋の冷や汗が伝い、ゾワゾワと身震いが起こる。
「いや、いやいや……?」
何を言ってるんだこの人は?
こんなところでそんなボリュームで?
馬鹿なのか? アホなのか?
俺を殺したいのか? ここに居る人たちがさっきから俺をどんな目で見てるか分かってないのか?
心の中をぐるぐるかき回しながら、どうにかこうにか里奈さんの質問の意図を探ろうとするが、もう本当に意味が分からなくてああ俺はここで死ぬのかなあと自暴自棄を抑えきれない。
「いやさ、付き合ってないならないで、さっきみたいなことは控えた方が良いんじゃないかなって思うんだよ。だって、ユリア先輩を好きな人が沢山居るのと同じくらいに、たいち君を好きな女の子もいるんだから、そう言う子のことも考えてもっと主体性を持って振る舞うべきなんじゃないかな?」
えー、なんの話?
俺を好きな子が由利亜先輩を好きな人と同じくらい居る? いや無いでしょ。ないない。
主体性? あるよ? ちょっと薄いだけで!
ていうか今俺の周りに居る人が濃すぎるだけな気もするけどね!
「で、どうなの? 付き合ってるの? 無いの?」
焦る俺の心情とは裏腹に、俺の目を見てはっきりと問いかけてくる彼女の声音には問い詰めるというような印象はなく、どちらかと言えばただの確認、もっと端的に言えば、そう、告白前に付き合っている人が居るかどうかを聞きに行く、そんな雰囲気にも見えて、俺は声を詰まらせる。
「え、あ、っと……」
じっと見つめる里奈さんの目に、答えるように。
落ち着け、俺。
ふぅと息を吐き、冷静さを取り戻すと、どうにか普段通りの口調で言った。
「付き合って無いよ。前からそう言ってたじゃん」
里奈さんに向けた言葉。問いへの解答のつもりだった。
だが、その瞬間教室全体に一瞬だけ暗雲が立ちこめた気がした。
ツカツカと誰かが俺の隣に立って、そんなの由利亜先輩しかいないだろうと振り返ると予想よりもずっと高い位置に顔があった。眉間に皺を寄せ、歯ぎしりしそうな程食いしばり、肩をふるわせる女の子だった。ウェイトレス姿を見る限り、ここの生徒で、つまり年上と言うことになる。
頼んだ物を持ってきてくれたのだと思って、しかしその手にはお盆すら握られていない。
その手が振り上げられ、
「 パァッン!!! 」
空を切り、俺の頬を叩く。
そう思って身構えていた俺の頬に音と同時にやってくるはずの痛みは来なかった。
目の前で、俺と女子生徒の間に割って入った由利亜先輩が叩かれる姿をただ、呆然と見ることしか出来ずに。