135回 物足りなさで、満たされて。
前回尋ねたときとは別の部屋の戸を開くと、由利亜先輩はその場に固まった。うしろに立っていた俺の足も同時に止まったが、しかし前を行く少女の身長は俺のあごに頭頂部が届く程度の低さで、だから俺は部屋の中をのぞくことができた。
そして、そこには探していた少女、三好里奈の姿がしっかりと在った。
こちらを見てきょとん顔の三好さんをようやく見つけ出したという安堵があるのに、それなのに、喜ばしいことのはずなのに、異様な空気に包まれた由利亜先輩を前にしているからか、なぜか喜びの声も、ただのあいさつすらも出てこない。
俺は待つことしかできない。
この一人の女性が見つめる対象が、いったい誰なのかを知るまでは。
「あれ? 由利亜? おかえり、なさい?」
ダイニングの奥、キッチンでお茶の用意でもしていたのだろう女性がこちらを振り返って、戸口に立った人影に気づいて声をかけた。
疑問形の多用されたその言葉たちには、俺の存在を認知している文言は含まれていない。
「……なんで……なんで、いるの……?」
近くにいる俺以外には、絶対に聞き取れるはずのない声だった。優しくて、明るい、そんないつもの声とは明らかに違う。聞き覚えのない、不安定な音色の声。
「そんなとこいないで入っておいで。お茶入れてあげるから」
だからまあ、つぶやかれたそんな質問には答えが来るわけもない。
にもかかわらず、由利亜先輩はひとり呟く。
「どうして……この家に、いるの……?」
なんで、どうして、そう何度もつぶやきながら、何度も何度もつぶやいて、由利亜先輩は床に膝から崩れ落ちた。
あまりに突然のことに手を差し伸べることすらできず、頽れた由利亜先輩の肩に手を置くと震えていた。なんで、どうして、なんで、どうして、と、繰り返し、繰り返して。
「ゆ、由利亜? どうしたの、大丈夫?」
そんな明らかに異常な反応を示す由利亜先輩に、声をかけながら女性が駆け寄ってくる。
異常事態に異常事態が重なって、場の状況は俺にも全くよく分かっていないが、三好さんはなぜかいつも通りで、席を立って近寄ってくると由利亜先輩に声をかけた。
「どうかしたんですか?! たいち君に何かされたんですか!?」
見当外れもいいところな、そんな疑問にツッコミを入れることをためらうくらいには、俺の気も動転しているようだった。
女性は、駆け寄ってかがみこむと、俺の手を払うようにして由利亜先輩の両肩に手を置いて、
「どうかしたの? 熱は、ないみたいだけどすごい震えてるじゃない、何があったの?」
切迫したように問いかける。
母親のような態度を示す女性は、ようやく由利亜先輩の繰り返される問いを聴きとれたようで、意味が分からないという顔をして答えた。
「私の家なんだから帰ってくるに決まってるでしょ。離婚はしてないんだから」
この一言で、俺にもすべてが理解できた。一直線に納得した。
すべて、この人と御牧が仕組んだことなのだと。
金と性欲と、自己肯定欲求に飢えた獣のその企みの中で、由利亜先輩は、俺の恩人はもがいているのだと。
「あ……あなたの……」
ふざっけんじゃねえぞ!!!!!
そんな風に叫びかけて、由利亜先輩の消え入りそうな声が耳に届くと、喉のすんでのところで声は消えた。
「私の?」
首をかしげる女性の顔を見て、肩にかけられた手を荒くほどくと何も言わずに立ち上がった。
「里奈ちゃん、見つかったから帰るよ」
たぶん、俺への言葉だったと思う。
なにしろ俺は初めて、この人の感情のこもっていない言葉というものを聞いた気がした。
慌てて後を追いかけると、三好さんが「え、え?」と一人パ二クっていたので「いくよ」と声をかけた。
三好さんよりも動揺したのは女性のほうだったかもしれない。立ち尽くしながら追いかけられない背中を目で追っていた。
この家は、もう由利亜先輩が帰れる家ではなくなってしまったのかもしれない。そんな風に思いながら玄関口で靴を履き、三人とも家を出ようとしたその時だった。
「ただいま~」
ガラガラという扉の開く音と、調子のいい気楽な大人の声が家中に広がった。
「おかえりなさい」
女性が慌てて居住まいを正してそう答えると、入ってきた男は驚きの声を上げる。
「由利亜!!?」
ひっくり返った声に、由利亜先輩は何も返さない。
「おかえり」
その声は俺たちの後ろから聞こえた。
御牧のものだとすぐにわかった。だから俺たちは振り返らなかった。三好さんは最後しっかりと「お邪魔しました」と告げて家を出た。慌てていたので随分とわちゃわちゃしていたが。
そんな御牧の姿に驚いていたのは、本物の正造氏だった。「なんでお前が!!?」とそんな風に声を荒げていた。
「それで、山野君。君はあの中ならだれが一番由利亜ちゃんにふさわしいと思ったかな?」
最後に玄関をくぐろうとした俺は背後からの問いかけに立ち止まり、振り向くことなく「俺ですね」そう答えた。
「自意識過剰じゃないかな?」
大きな声で軽薄そうに笑いながら彼はいう。「ところで、どうしてここだと?」
「あの紙、あなたが入れたのでは?」
「紙?」
「わからないならいいんです。では、失礼します」
最後に最大の謎が生まれたが、今宵の事件はこれにて解決ということでいいのだろう。
「あの、たいち君?」
エレベーターを待つ間、三好さんが聞いてきた。
「どういう状況なの?」
「…………」
説明の要求水準は、かなり高めなような気がした。