見違えた姿に目を見張る。
終わってしまえば、全ての事をたいしたことが無かったと表現するのは俺の悪い癖だと、中学の頃、数少ない友人に言われた。
悪い癖という物はそうそう直るものではないし、何あろう、俺はその悪癖を一切直そうと考えてすら居ないので、ある意味においては癖と言うよりも個性に近い物になってきていると言えなくもないのだが。
その個性をフルに活動させて、今回の事も終わった段階からの一言を言わせて貰うとするならば、やはり、「たいしたことない、何のこともない、どうって事ない事件だった」。
何しろ、三好さんは別に誘拐されたわけではなかったし、更に言ってしまえば、最初から素直に助言に従っていれば全てが転々とすることなく収束するようになっていたのだから。
御牧総合株式会社を出た俺と由利亜先輩が次に向かったのは、住宅街に聳え立つ高層マンション、ではなく、果てしない階段の上に鎮座し、町を見下ろす社。
水守神社。
なんのあても無くした俺が、結果的に頼ったのは神を身体に堕ろす女の子。弓削綾音だった。
時間も時間だし、女子の家に男一人で訪問するというのは流石に憚られたが、今はみんなのアイドル由利亜先輩と一緒なので、大抵のことは許されるだろうと、そんな適当な感じで訪れると、玄関を開けたのは見慣れない大人の女性だった。
驚いた顔をしたすぐ後、何かを察したかのように頷いて笑顔を見せると、女性は俺たちを家に招き入れた。
いつもの広間に通されて座布団に座ると、「あれ、俺ここに何しに来たんだっけ?」そんな風に思考が止まってしまう。
「綾音ちゃん、呼んで貰わなきゃ」
「あ、そうでした」
お茶入れてくるわねと出て行った女性に、お願いせねばと廊下に出ようとして、外からトタトタと足音がした。襖の取っ手にかけた手が不自然に止まる。
嫌な予感、と言うのだろうか。
そう、このまま目的を果たそうとすると必ず何か弊害が生じるような、そんな感覚。
初めて感覚に体が凍り、戸の前で体を硬直させている俺に、由利亜先輩が立ち上がって声をかけてくる。
「どうしたの?」
「なんか……。ちょっと、外、見て貰って良いですか?」
「い、いいけど……」
強ばった俺の表情に呼応して、由利亜先輩の顔も強ばったが、俺の事を信じていると言った手前、不承不承といった感じで襖を開けて外に首を出すと━━━
すぐさま首を引っ込め、俺の腰にタックルをかましてきた。
「絶対!! 絶対に今外を見ちゃダメ!!!」
やっぱなにかあったのか。
「えっと、一体何があるんですか?」
「とっても刺激の強い物だよ!!」
いや、その言い方だとより気になるんですが。
とはいえ気になったからと言ってここで襖の隙間から首を出すと、由利亜先輩に外の様子を見て貰った意味が無くなるので流石に出来ない。
しかも絶対にダメと言われているのにまさかここで覗こう物なら、そこにある物によっては、殺されるかも知れない……。
「綾音、あなたそんな格好で何してるの!! お客様がいるんだから服着なさい!!!」
さっきの女性の声が襖越しの廊下に響いた。
「おっ!? お客さん居るの!!? そういうこと言っといてよ!!!」
珍しく弓削さんの大きな声が聞こえたと思ったら、今度はどたどたと騒がしく足音が去って行く。
「まさかとは思うんですけど、その、なんていうか………」
「綾音ちゃんがヌードショーしてました」
「デスよね」
まあ、女系家族で家の中だし、裸で歩き回っても変ではないか。うんうん。
弓削さんの緩い一面になんとか自分なりの着地点をつけていると、由利亜先輩が細めた目で俺を見ていた。
さっと音がして襖が開くと、女性がお盆に茶具を乗せて入ってきた。抱き合った姿勢のままの俺たちを見て、それはそれはなんとも言えない目の色になると、口元の笑みが消える。
「あ……いや…これは違うんです……さっきの廊下のやつを見ないようにって羽交い締めにされてるだけで、深い意味はないんです……」
「そうですか」
女性は腰を下ろすと俺たちから目を外し、お茶の用意を始めた。
体を離すと元いた位置に座り直し、俯いて机の木目を見つめた。
これ以上、悪印象を与えてはならないと思ったから。
「どうぞ」
差し出された湯飲みを見て、ハッと顔を上げる。
緑を貴重とした厚めの湯飲み。いつもユウちゃんが出してくれた湯飲みだ。
「まず、何よりも先にお礼を言わせてください」
そう言うと女性は座布団を取り、畳に直に正座すると、居住まいを正す。
視界の隅で由利亜先輩が不思議を見る顔をしているのが察せられたが、それに答える余裕は俺にはない。
「助けてくれて、ありがとうございました。それと、娘達の事、面倒見て貰っていたようで、感謝いたします」
綺麗な所作の深い深いお辞儀。端的に言えば、綺麗過ぎる土下座。
今日はよくよく頭を下げられる日だなぁとか、適当な事を思う。
「どうお伝えしたら良い物か迷っていたのです。すぐにでも、お礼を述べに伺わなければならない所、そちらの御用向きでの訪問に合わせてのこんな形で、本当に礼を失しているとは存じております。ですが、これ以上引き延ばすことも出来ないと考えて、この場をお借りしております。気持ちはまた別の形でお渡しさせていただくとしても、言葉だけでも……」
途中から、言葉が喉に突っかかって出てこないような、そんな語りだった。
この人は、もう何年も寝ていたのだ。
起きたのはつい先日の事で、それはもう本当に奇跡みたいな出来事だったはずだ。
俺はその奇跡を目の当たりにはしなかったけれど、それでも、ミナちゃんやユウちゃんが喜んでくれているなら嬉しいと、そう思っていた。
だが、俺が思っていたのはその程度だ。
依頼だったし、兄の尻ぬぐいという面が大きかった。
だから別に、俺にお礼はいらないのだ。
感謝など、されるだけ無駄。
そんな物よりも、今はただ情報が欲しい。
「あ、別にお礼とかはいいので━━━」
俺の言葉を遮るように襖が開いて、ドタドタと小さな女の子が入ってきた。ミナちゃんとユウちゃんだ。
「お兄さん来てたんですね!! 今日は鳩サブレがおやつだったんです!!」
母親が一人深く頭を下げている現場に飛び込んできた二人の内、料理が出来る方のユウちゃんが第一声そう言った。
「お母さん、何してるの?」
ミナちゃんの方はお母さんの土下座を怪訝そうに見るが、興味はなさそうだった。
「鳩サブレは、買った奴だよね」
「そう! お土産にもらったやつ!」
まさか作ってないよなという疑念からの質問だった。
「そっか。いいな、俺も好きだよ、鳩サブレ」
「そう言うと思って持ってきました!」
パタパタと寄ってきたユウちゃんが背中に隠した手を差し出す。
見紛うことなく鳩サブレだった。
「あ、ありがとう。お茶請けにするね」
「うん!」
はつらつとした女の子達に、元々この場に居た全員が面食らい、雰囲気とかもう何もかもぐちゃぐちゃになって、由利亜先輩が少し笑って、弓削さんのお母さんも笑った。
改めて、対面に座す女性が自己紹介をした。由利亜先輩にとっては、これがはじめて聞く名前を。
「弓削司と申します。これからも、娘達と仲良くしてあげてくださいね」
今度は笑顔で、はっきりと。
母親の顔は、しっかりと生きていた。