これはある意味非日常。
気まずい空気の中で、勉強会は始まった。
問題の当人たちの胸中などあずかり知らぬところなので、この空気のまずさは完全に俺と弓削さんにのみ適応されているものだと考えているが、問題の張本人たちが気まずくないわけもなく、該当者二人は、始まって三十分が経過する現在に至っても、一度として目を合わせるどころか会話すら交わしていない。
その行為が逆に俺ともう一人の参加者の想像を膨らませる結果となっており、あの後二人はどうしたのだろうという思考が頭の中を駆け巡る。
まず第一に、告白を受けたのか、断ったのか、そこも分からない。
あの場面を見られたから、気まずくて目を合わせないだけかもしれない。
付き合い始めたのなら、今この場に村田君がいるのもうなづける。
であれば、俺と弓削さんは二人の邪魔をしていることになるのだろうか?
早くこの二人帰らないかなあとか、思われているのだろうか?
「ねえ、山野君」
意識が考えるほうに向きすぎていて、突然の呼びかけにピクリと大げさに反応してしまう。
「ご、ごめん、考え事してた…?」
「いや、ううん、なんでもない…。で、何?」
申し訳なさそうに手を引っ込めようとする三好さんを、ムニャムニャと変わらないような回答で制して聞く。
なおも申し訳なさそうに教科書をこちらに向けて、問題を指差すと、
「ここがどうしても分からないんだけど……」
「ああ、えっとね、これは───」
「この公式を使って解くんだよ」
俺が説明しようと口を開くと、横から腕が伸びてきた。
「そしたらこっちの回答を持ってきて、平方根を消す」
村田君が全部説明していってくれる。そうそう、そうやって解くだけだよ。と、思って三好さんの顔を見るが、芳しい表情はしていない。求めていた答えと違ったのだろう。
よく見れば、そういえばこの問題は、前に一回解いたやつだと気づいた。
「あ、前に教えた式の簡略方法を忘れたってこと?」
「そう!!」
俺の問いかけに三好さんは大きくうなづいた。
「せっかく教えてもらったのに、全然思い出せなくて」
それであんな顔をしていたのか。
別に同じことを教えるくらい大した手間じゃないのに。
「それなら、もう一回やり直してみるか」
「式の簡略? なにそれ?」
対面に座る三好さんのノートに、三好さんに見やすいようにペンを走らせはじめると、村田君が聞いてきた。
「この公式を使う問題は、途中式を解かなくても回答が導けるっていう回答方法だよ」
ペンを走らせながら言う。
「は…?」
間抜けな声が聞こえるが、俺は教科書から目を離さずに問題を三好さんのノートに書き写し終えると、それに公式に当てはめたものと簡略したものを書き込み解を空白のまま三好さんに手のひらを向ける。
「いや、そんなのないはずなんだけど…?」
「そりゃまあ、俺がこの間思いついた方法だから…」
「はぁ……? そんなの、どうやって…?」
「どうって聞かれると答えづらいけど、二三度公式使って解いてみれば、案外思いつくもんだよ?」
「そんなわけ……あ……いや……、その簡略式、教えてもらえないかな?」
何かを思いついたといわんばかりのその表情に、若干不安になったが、まあ教えない理由もない。
「紙一枚もらうよ」
そういって村田君の机の上からルーズリーフを一枚取り、同じ問題を書き上げる。
出来上がったものを手渡すと、三好さん同様食い入るように集中を始めた。
「すごいね、山野君。公式一つ作り直しちゃうなんて」
ようやく気まずさを振り払ったのか、弓削さんが口を開いた。
「いやいや、別に俺が作ったわけじゃないから」
中学のときに、兄さんの机においてあったノートの中に、途中まで作られていたのだ。もう一歩のところで完成していなかったのを、なんとなくの閃きで完成させてしまっただけの代物だ。
「謙遜しなさんな~ そうだ、今日うちでご飯食べてってよ。お母さんが病院から帰ってくるから、ユウがごちそうにするっていってるんだ。山野君が来たら喜ぶと思うし」
「あー……、お誘いは嬉しいんだけど、うちでご飯を食べないとだから……」
そういえば、と、弓削さんの表情が一気に無になった。
「二年の鷲崎先輩が、山野君家の電話に出たのは、どういうこと?」
「あ、その件につきましては、まことに申し訳なく思っている所存でして」
「説明」
単語のみ。ビックリするぐらい冷たい声音だった。
「まえにいったでしょ? 一緒に住んでるのは親じゃない的なこと。で、まあ結論から言うと、一緒に住んでる、見たいな?」
「……」
わっおぉ、ゴミを見る目ですね……。
「もちろん、様々な事情があって、いろいろな理由が錯誤しての結果なんですがね」
目を逸らし、得意げに告げる。
まあ、たいていの人はそういう目で見るからね、もう気にしないよ、たとえ友達になれそうな人から蔑まれようとも……。
「理由かぁ……そういわれると責められないんだよなぁ……」
予想外な一言につい首を傾げてしまう。
「だって、山野君がお母さんを助けてくれたのも、ある意味色々な事情があったからで、それがなかったら今もまだお母さんは寝てるわけで。なんて言えばいいのか分からなくなる」
本当にお母さんのこと大好きなんだな。いい人と知り合えた。
そんな人になら、何を言われても友達になれる気がした。
「いいよ、思ったこと言ってくれて。もう色々言われるのは慣れたから」
「そ、そう? じゃあ、一言だけ言うね?」
縦にうなづいて、さあ、ドンと来い!
「山野君てかなり女たらしだよね」
普通に酷いのが来て涙が出た。
ノートにかじりついていた二人がやっとこちらの世界に戻ってきたので、食堂にある菓子が入った自販機におやつを買いに行くことになった。
小腹が減ったといったのは村田君。
買い物に来たのは俺と三好さんだった。
何故この組み合わせなのかといえば、じゃん負け。じゃんけんに負けたやつが買いに行くという、不公平極まりないあれのせいだ。
いや、三好さんと二人なのは別にいつもどおりな感じなのだけれど、そもそも俺は別にお腹すいてないのに買いに行かされると言うのが気に食わない。
弓削さんと村田君、二人を残してきたのも普通に心配だ。
「綾音、大丈夫かなぁ……」
どうやら三好さんも同意見らしかった。
「弓削さんと村田君て仲いいの?」
「話してるところ、見たことない、かな……」
神妙にいう三好さんに、俺は一つの答えを出した。
「……急いで買って帰りますか」
廊下は走りませんでしたが。
「さっきの教室でのことなんだけど──」自販機を後にして、早足で教室を目指していると、三好さんが突然そう切り出した。
「村田君の、あの、こ、告白……、断ったから……」
「……そう、なんだ」
俺は相槌とも返答とも取れない言葉を吐き出して、ほっと胸を撫で下ろした。
ともかく、三好さん的には、俺と弓削さんは邪魔になっていなかったわけだ。それだけ聞ければ満足。
「じゃあ村田君は三好さんにフラれてもなお、その場に居座ることの出来る心の強い人なんだね」
何気なく思ったことを口にすると、三好さんは「あ、あはは……」と力なく笑った。
そんな話をしていると、教室にたどり着いた。
躊躇なく横開きの扉に手をかけると、中から何の物音もしないことに気づく。
一考の余地もなしと思い、扉を開けると、思った通り二人とも教科書に額をくっつける勢いでうつむいていた。
友達の友達、どころか、ほぼ真っ赤な他人。ただのクラスメイトと突然二人きりになれば、無言にもなろう。しかも、村田君にしてみれば自分の告白を目撃した女の子であり、さらに言えば、弓削さんはめっちゃ可愛い女の子だ。普段の生活で話すこともなければ、二人きりになったところで喋れる相手でもないのだろう。
俺だって、普通に知り合ってたら弓削さんとは喋れなかっただろうし。
そんな無言の空間を壊したのは、同姓である村田君に勝手に共感している俺ではなく、友人を心配していた女の子だった。
「綾音、何の問題解いてるの?」
扉が開いた音にこちらを振り向いた弓削さんに、三好さんは近寄っていき声を掛けた。
真っ白だった弓削さんの顔に生気が宿っていくように見えた。
本当に人見知りだったんだなぁと、弓削さん顔を横目で見ながら、机に買ってきたものを置き椅子に座る。
早めに戻ってきたのは正解だったようで何より。
必至に教科書に食い入っていた村田君も顔を上げ、「ありがとう」と言ってチョコレート菓子を一つ取り封を切る。
いや、ありがとうじゃないわ。
お前がいなくなればこの場のなにもかも全て解決するんだよ。
と、思わなくはないが、俺も俺で、この美少女と言っても過言ではない二人と一所にいるというのは普通に息が詰まるし、なんなら訳わかんなくなるから、もういっそ俺が帰りたい。