ただ一言、お礼を言うだけのつもりだったのに。
朝の天気は変わり、帰り道では雨に遭い道が少しだけ混んだこともあり、弓削さんの家にたどり着くまでに時間がかかってしまった。
境内へ続く階段の前でタクシーから降りると、閉じられた扉越しにコンコンと窓が叩かれる。傘を差しているからはっきりと表情を伺うことは出来ないが、促されるままに窓を開けると少しの飛沫が入ってくる。
「さっきの「一緒に」とか、「好き」とか、あれは、そういうことじゃないから、里奈ちゃんとかに、い、言いふらしたりしないでね」
「いや、言わないよそんなこと。しかも今日のことは人には言えないでしょ」
忘れていたことを思い出したと言う風に目を見開き、「そっか」と息を吐く弓削さんに、俺も一つお願いをする。
「今日のあの、エレベーターでのことは、忘れてくれると助かります」
「それは無理。多分五六年後くらいまで覚えてる」
数字がやたらリアルだった。
「じゃあ、また明日ね、山野君」
「うん。あ、いや、先輩のことは片が付いたんだけど、まだ後何人か起こさなきゃいけない人がいるから、学校にはまだもう少しいけそうにないな」
「そっか。でも来ないと里奈ちゃんに怒られるんじゃないの?」
「やめて、板挟みにするのやめて」
彼女はあははと声を上げて笑うと、「じゃあね」といって車から三歩退いた。
女性ドライバーさんにお願いしますと声を掛けると、弓削さんに手を振り替えして窓を閉めた。
ワイパーの動きに目を奪われながら、しばらくぼけっとしていると、
「ダメだよ、女の子弄んじゃ」
「……はぁ」
言い返すのも面倒くさいほど、今の俺は疲れている。
「あんなに可愛い女の子にコスプレまでさせて」
「あれはあの人の職業です!」
謂われのない性癖には一家言あるぞ‼
九時を目前にした頃ようやくアパートにたどり着くと、傘のないまま料金を払い下車。
タクシーが去るのを見ることもなく急いで鍵を開けると部屋に入った。
手でパッパと水を払い、部屋の奥から聞こえてくる「おかえり~」に、「ただいまです」と返事をする。
どうやら風呂上がりらしい由利亜先輩は、ゴオゴオとドライヤーを唸らせ始めた。
一枚壁を隔てた部屋から聞こえてくる生活音をBGMに、ダイニングのテーブルに並んだ料理を見て腹の虫をならす。思い返してみれば、昼ご飯食べてないような気がする。
洗面所で手を洗い、うがいを済ませて椅子に座ると、由利亜先輩が風呂上がりのいろいろを終えてダイニングに現れた。
「太一くんお疲れ様」
何気ないねぎらいの言葉だが、今日は本当に疲れたので、
「もっといやしてくれても良いんですよ」
とか、適当なことを言う。
疲れって怖いわあ。
「まずはご飯にしようね。それからお風呂入って、明日に備えて一緒に寝ましょう?」
「そですね。明日もやることはあるだろうし、今日はそういうスケジュールで」
明日やること、そんな物まだなにも考えていないけれど。
「じゃ、いただきまーす」
「いただきまーす」
湯船につかっていると、
「湯加減どう、大丈夫?」
戸越にそんな声が。
普段通りの温度のお湯に大丈夫もなにも無いと思うのだが。
「はい、いつも通りですよ」
思った通りに言うと、
「背中、流そうか?」
「は? いや、いらないですけど…」
「今なら、その、私のむ、むね、で、」
「いや、いらないってば」
そんな感じで風呂を終え。
寝るときにはいつも通り由利亜先輩を腕枕した。普段通り。日常として。
「ねえ、太一くん」
腕の中でこちらを向いて丸くなっている由利亜先輩の声が耳に届く。
暗い部屋に二人。
密着と言って良いほどの距離に男女。
これも毎日の、ほんの一ページ。
「私は太一くんのことが好きだよ」
俺が、眠りにつく前のほんの数瞬の出来事。睡眠の闇に引きずり込まれる前の少しの間。
返事をすることを禁じられているかのようなその時間に、由利亜先輩は語る。
「始業式の日、体育館裏で言い寄られてる所を助けてくれたのは君だった。いつも一人でいるのが普通で、友達といる所なんて見たこともなかった君が、曰く付きの発掘部に入るって聴いて黙っていられなかった。その日のうちに家に押し入った私に、君がなんて言ったか覚えてる? 泊まっても良いし話くらい聞くって。本当に、意味が分からなかった。この人もやっぱり体目当てなのかなって最初は思ったけど、過ごしてみて、こんな風にしてくれる君のことを疑ってた自分が恥ずかしくなった」
暗闇の中で耳に入ってくる由利亜先輩の告白が、俺には眩しい。あの時無理やり唇を奪ったことを何も言わないのはなぜだろう。
「でもさ、太一くんてば何人も女の子と仲良くなるし、私はとっても複雑な気持ちだったよ。私とこんなことしてるくせに」
すねたような声。クスっと笑う。
「でも、そんな太一くんも好き。私の気持ちを知りながら、こうやっておもわせぶりなことしてくる所も、好きな先輩の為に震えて、涙を流す所も、私の為じゃなくっても、そういう君の全てが私は好き」
丸まっていた体が動くのが分かる。耳元に息がかかり、少しくすぐったい。
「―――――」
囁かれた言葉の切なさを覚えることもなく、俺は眠りに落ちた。
―――トントントンという軽快な音に意識を覚醒させる。
体を起こして扉の向こうを見ると、小さな体が楽しそうに動き、みそ汁のいい香りが漂ってくる。
時計は六時少し過ぎを示していて、窓の外はまだ少し暗い。
朝から軽快に動くすりガラス越しの影を眺めながら、もう一度寝てしまおうかと考える。
どうせ今日も行くのは病院だ。別に急ぐ理由もない。
自分を納得させるともう一度布団にもぐり、目を瞑った。
どうやら本当に昨日の出来事は俺に疲労感を与えていたようで、だからだろう、いつも俺が体を起こせばすぐにでもおはようと声をかけてきていた由利亜先輩の「おはよう」がなかったことに、違和感さえ感じなかったのは。