第140章:朱鷺白だけの料理 - 暗黒大陸の記憶が味になった日
序章 - 自分だけのものを持つということ
技術は借りられる。
方法は真似られる。
しかし。
自分だけの何かは。
誰からも借りられない。
誰も真似られない。
それは。
自分が生きてきた時間の中にだけある。
痛みの中に。
孤独の中に。
誰にも見せなかった場所に。
静かに眠っている。
それを料理に込める時。
初めて。
自分だけの料理が生まれる。
朱鷺白が今日。
その扉を開けた。
第一章:三週間後の厨房
厨房 - 朝
三週間が経った。
朱鷺白は毎日来た。
一日も欠かさずに。
最初の一週間は。
にんじんを切り続けた。
毎朝。
一時間。
ただ切った。
二週目は。
火の加減を学んだ。
弱火。
中火。
強火。
それぞれの音の違いを。
体で覚えた。
三週目は。
組み合わせを学んだ。
何と何が合うか。
何と何が合わないか。
材料の性質を。
少しずつ理解した。
今日の朝。
アクアは朱鷺白の切ったにんじんを見た。
「上手くなりました。」
アクアは言った。
「まだ足りない。」
朱鷺白は言った。
「どこが足りないと思いますか。」
朱鷺白は包丁を置いた。
手を見た。
「技術は覚えた。」
朱鷺白は言った。
「お前が教えた通りに作れる。」
「切り方も。」
「火加減も。」
「順番も。」
「しかし?」
「自分の料理ではない。」
朱鷺白は言った。
「アクアの料理の写しだ。」
アクアは鍋を見た。
考えた。
「正直に言いました。」
アクアは言った。
「嘘をついても意味がない。」
朱鷺白は言った。
「その通りです。」
アクアは言った。
「では一つだけ変えてみてください。」
「何かを。」
「何でも。」
アクアは言った。
「私が教えていないことを。」
「あなたが知っているものを。」
「加えてみてください。」
「私が知っているものか。」
朱鷺白は言った。
「はい。」
アクアは言った。
「あなたは暗黒大陸にいました。」
「三万年以上。」
「その時間の中に。」
「私が知らないものがあるはずです。」
朱鷺白は少し黙った。
(暗黒大陸。)
朱鷺白は思った。
(あの場所に。)
(私だけが知っているものがあるか。)
記憶を探った。
長い封印の前を。
暗黒大陸にいた時代を。
一つのことが浮かんだ。
「...ある。」
朱鷺白は言った。
「何ですか。」
「見せる。」
朱鷺白は言った。
第二章:暗黒大陸の記憶
朱鷺白は荷物の中を探った。
来る時に持ってきたものの中に。
小さな袋があった。
「これだ。」
朱鷺白は言った。
袋を開けた。
香りが来た。
独特の香りが。
甘さとも言えなかった。
苦さとも言えなかった。
深い香りだった。
土の深いところから来るような。
時間の匂いのような。
アクアは袋を覗いた。
「これは。」
アクアは言った。
「知っているか。」
朱鷺白は聞いた。
「初めて見ます。」
アクアは言った。
「しかし。」
「良い香りです。」
「暗黒大陸の。」
朱鷺白は言った。
「最も深い森の奥にしか生えない草だ。」
「千年に一度しか花を咲かせない。」
「その花が散った後に。」
「根の部分を乾燥させると。」
「このような粉になる。」
「千年に一度。」
アクアは言った。
「私が封じられる前に。」
朱鷺白は言った。
「集めておいた。」
「何かに使えると思って。」
「しかし使う機会がなかった。」
「三万年以上。」
アクアは言った。
「持ち続けていたのですか。」
「そうだ。」
朱鷺白は言った。
「捨てることもできなかった。」
「何かに使えると思い続けた。」
「三万年。」
アクアは少し間を置いた。
「その草の名前はありますか。」
「名前はない。」
朱鷺白は言った。
「誰も気づいていなかったから。」
「私だけが知っていた草だ。」
「では名前を今日つけましょう。」
アクアは言った。
「料理ができた後でいい。」
朱鷺白は言った。
「名前は結果を見てからつける。」
「わかりました。」
アクアは言った。
「では使ってみてください。」
「どれくらい入れる。」
朱鷺白は聞いた。
「わかりません。」
アクアは言った。
「私も知らない食材です。」
「あなたが決めてください。」
「私が決める。」
「あなたの料理です。」
アクアは言った。
「私が教えることはできません。」
「あなたが知っている食材を。」
「どう使うかは。」
「あなただけが知っています。」
朱鷺白は袋を持った。
香りを嗅いだ。
(この香りは。)
朱鷺白は思った。
(暗黒大陸の奥の香りだ。)
(誰もいない森の香りだ。)
(一人でいた時の香りだ。)
(一人だった時間が。)
(今ここにある。)
「少量だ。」
朱鷺白は言った。
「最初は少量から。」
「そうします。」
指先で一つまみ取った。
鍋に入れた。
香りが広がった。
厨房全体に。
「...。」
アクアは動かなかった。
ただ香りを感じた。
「良い香りです。」
アクアは言った。
「深い。」
朱鷺白は言った。
「暗黒大陸はこういう香りがした。」
「怖い場所でしたか。」
アクアは聞いた。
「怖くはなかった。」
朱鷺白は言った。
「私の場所だったから。」
「しかし。」
「孤独だった。」
「この香りが孤独の香りですか。」
朱鷺白は少し考えた。
「孤独だったが。」
朱鷺白は言った。
「この草を見つけた日は違った。」
「この草の花が咲いた朝に。」
「太陽が同時に昇った。」
「暗黒大陸に太陽の光が届く瞬間は短い。」
「しかしその一瞬に。」
「この草の花が光った。」
「それを一人で見ていた。」
「一人だったが。」
アクアは言った。
「美しかった。」
朱鷺白は言った。
「孤独だったが。」
「その瞬間だけは。」
「孤独を感じなかった。」
アクアは料理を見た。
鍋の中を。
「その記憶が。」
アクアは言った。
「今この料理に入りました。」
「入ったか。」
「香りで感じます。」
アクアは言った。
「美しい香りです。」
「孤独だけではない香りです。」
朱鷺白は鍋を見た。
混ぜた。
静かに。
今日の料理が。
完成に向かっていた。
第三章:食堂 - 昼食
食堂 - 昼
全員が揃った。
今日の料理が出た。
香りが先に来た。
食堂に広がった。
「...今日は違う。」
深水が言った。
最初に気づいた。
「香りが違う。」
陽向も言った。
「何が入っていますか。」
雪見は聞いた。
全員がアクアを見た。
「朱鷺白様に聞いてください。」
アクアは言った。
全員が朱鷺白を見た。
「暗黒大陸の草だ。」
朱鷺白は言った。
「千年に一度しか花を咲かせない。」
「その根の粉を入れた。」
「千年に一度。」
神珠尾が言った。
「私もそれを知らなかった。」
「私が見つけた。」
朱鷺白は言った。
「誰も知らなかった。」
「では朱鷺白だけの材料だ。」
神珠尾は言った。
「そうだ。」
雷光が食べた。
一口。
止まった。
「...違う。」
雷光は言った。
「どう違う。」
ハナが聞いた。
「アクアの料理ではない。」
雷光は言った。
「朱鷺白の料理だ。」
「昨日も朱鷺白の料理でしたよね。」
ハナは言った。
「違う。」
雷光は言った。
「昨日は朱鷺白が作ったアクアの料理だった。」
「今日は朱鷺白だけの料理だ。」
「どう違うのですか。」
陽向は聞いた。
「言葉では言えない。」
雷光は言った。
「食べればわかる。」
全員が食べた。
食堂が静かになった。
誰も言わなかった。
しばらく。
それは料理を口に入れてから。
何かを受け取る時間だった。
紅夜叉が言った。
「遠い場所の香りだ。」
「そうです。」
朱鷺白は言った。
「どこか遠い場所の。」
紅夜叉は続けた。
「しかし。」
「温かい。」
「遠くて孤独な場所のはずなのに。」
「温かい。」
「なぜそう思うか。」
朱鷺白は聞いた。
「わからない。」
紅夜叉は言った。
「しかし温かい。」
朱鷺白は少し間を置いた。
「私もあの日。」
朱鷺白は言った。
「温かかった。」
「花が光った朝。」
「孤独だったが温かかった。」
「伝わりました。」
紅夜叉は言った。
「その日の温かさが。」
深水が言った。
「水のような料理ではない。」
深水は言った。
「どういう意味ですか。」
陽向は聞いた。
「以前の朱鷺白の料理は素直だった。」
深水は言った。
「水のように透明だった。」
「今日は違う。」
「深い。」
「水でも海の浅い場所ではなく。」
「深海の水だ。」
「光が届かない深さの水だ。」
「しかしそこにも何かがいる。」
朱鷺白は。
深水を見た。
「深海の水か。」
「暗黒大陸の奥はそういう場所でしたか。」
深水は聞いた。
「そういう場所だった。」
朱鷺白は言った。
「光が届かない。」
「しかし確かに何かが生きていた。」
「その草もそこに生えていた。」
「その草が。」
深水は言った。
「今日ここに来た。」
「来た。」
朱鷺白は言った。
神珠尾が食べながら言った。
「朱鷺白。」
「何だ。」
「私はあの大陸に長くいた。」
神珠尾は言った。
「しかしこの香りは知らなかった。」
「同じ大陸にいたのに。」
「私が見つけた場所に。」
朱鷺白は言った。
「誰も来なかったから。」
「どんな場所でしたか。」
「断崖の下。」
朱鷺白は言った。
「光が届かない断崖の底に。」
「その草は生えていた。」
「誰も行こうとしない場所だ。」
「なぜあなたは行ったのですか。」
朱鷺白は少し考えた。
「行く理由がなかったからだ。」
朱鷺白は言った。
「理由がないから行ったのですか。」
「理由があれば行かなかった。」
朱鷺白は言った。
「理由のない場所に行く時。」
「意外なものが見つかる。」
神珠尾は頷いた。
「あの大陸はそういう場所でした。」
神珠尾は言った。
「意味を探すより。」
「意味のない方向に歩いた時に。」
「意味があるものに出会った。」
「そうだ。」
朱鷺白は言った。
食堂に静かな時間が来た。
全員が食べていた。
話しながら。
時々黙りながら。
朱鷺白は食堂を見た。
全員の顔を。
(見る。)
朱鷺白は思った。
(マスターが言っていた。)
(全員の顔が変わる瞬間を見ろと。)
(だから今日は見る。)
見た。
神珠尾が食べながら。
少し目を閉じた。
何かを感じているようだった。
深水が二口目を取った。
三口目も取った。
止まらなかった。
紅夜叉が。
珍しく。
ゆっくり食べていた。
急がずに。
陽向が窓の外を見た。
光を見ながら食べていた。
輝夜が月の方向を見た。
昼だったが。
月の方向を感じながら。
白龍は。
無言で。
しかし皿を綺麗にした。
雪見は。
一口食べるたびに。
少し目が細くなった。
宵紫は。
料理の中に影が見えるかのように。
じっと見ていた。
雷光は。
また最初に言っていた。
「美味い。」
ハナは飛び跳ねながら食べていた。
翅が少し速く動いていた。
そして。
私が。
静かに食べながら。
時々朱鷺白を見ていた。
朱鷺白は気づいた。
私が見ていることに。
目が合った。
私は頷いた。
一度だけ。
朱鷺白は。
また食堂を見た。
全員を見た。
(届いた。)
朱鷺白は思った。
(私の記憶が。)
(私が一人で見ていたものが。)
(今ここにいる全員に届いた。)
「...届いた。」
朱鷺白は言った。
声に出した。
周りの者たちが聞こえた。
「届きました。」
アクアが静かに言った。
「朱鷺白様の記憶が。」
「朱鷺白。」
神珠尾は言った。
「何だ。」
「その料理に名前をつけたか。」
「その草の名前もまだない。」
朱鷺白は言った。
「今日つけましょう。」
アクアが言った。
「朱鷺白様が。」
「私がつけるのか。」
「あなたの草です。」
アクアは言った。
「あなたの料理です。」
「あなたがつけてください。」
朱鷺白は少し考えた。
「光明草。」
朱鷺白は言った。
「光明草。」
神珠尾は繰り返した。
「光のない場所で。」
朱鷺白は言った。
「光ったから。」
「光明草だ。」
「良い名前です。」
アクアは言った。
「では料理の名前は。」
ハナは聞いた。
「光明草の届いた昼食。」
朱鷺白は言った。
「届いたという言葉を使ったのですか。」
アクアは言った。
「お前から学んだ。」
朱鷺白は言った。
「届いたということが。」
「料理の名前になると知った。」
アクアは頷いた。
「良い名前です。」
食堂が温かくなった。
第四章:食後の厨房
厨房 - 昼食後
片付けをしながら。
二人は話した。
「どうでしたか。」
アクアは聞いた。
「全員の顔を見た。」
朱鷺白は言った。
「どうでしたか。」
「変わった。」
朱鷺白は言った。
「マスターが言った通り。」
「全員の顔が変わった。」
「何を感じましたか。」
「届いたということを感じた。」
朱鷺白は言った。
「私が一人で持っていたものが。」
「今日全員に届いた。」
「それが料理の理由ですか。」
アクアは聞いた。
朱鷺白は少し考えた。
「一部だ。」
朱鷺白は言った。
「一部?」
「届けることが理由の一つだ。」
朱鷺白は言った。
「しかしもう一つある。」
「何ですか。」
「一人で持っていたものを。」
朱鷺白は言った。
「料理にすることで。」
「解放できる。」
「解放。」
「一人で持っていた記憶は。」
朱鷺白は言った。
「私の中にだけあった。」
「誰も知らなかった。」
「しかし今日。」
「全員が知った。」
「全員がその記憶の一部を受け取った。」
「それで。」
「軽くなった気がする。」
「軽くなった。」
アクアは繰り返した。
「私も同じです。」
アクアは言った。
「お前も封じられていたからか。」
「封じられていた時間だけではありません。」
アクアは言った。
「三万年の間。」
「一人で持っていたものが多かった。」
「料理を始めてから。」
「少しずつ渡せるようになりました。」
「渡すたびに軽くなります。」
「だから続けているのか。」
「それも理由の一つです。」
アクアは言った。
「料理には。」
朱鷺白は言った。
「様々な理由がある。」
「はい。」
アクアは言った。
「誰かのため。」
「自分のため。」
「届けるため。」
「解放するため。」
「全部が理由になります。」
「私の理由は全部あるかもしれない。」
朱鷺白は言った。
「そうだと思います。」
アクアは言った。
片付けが終わった。
「明日は何を作りますか。」
アクアは聞いた。
「わからない。」
朱鷺白は言った。
「材料を見てから決める。」
「それが良いです。」
アクアは言った。
「材料が決めることがあります。」
「お前がよく言うことだ。」
朱鷺白は言った。
「よく言いますか。」
「料理は材料が決める。」
朱鷺白は言った。
「作る者は聞くだけだ。」
「そういう意味だと私は理解している。」
「...正確に理解しています。」
アクアは言った。
「三週間で。」
朱鷺白は言った。
「わかることが増えた。」
「これからも増えます。」
アクアは言った。
「どのくらいかかる。」
「三万年では足りないかもしれません。」
アクアは言った。
「三万年でも。」
朱鷺白は言った。
「足りないことがあります。」
アクアは言った。
「だから続けます。」
「そうか。」
朱鷺白は言った。
「では私も続ける。」
「はい。」
二人は厨房を出た。
第五章:夕方の書斎
書斎 - 夕方
ノック音が来た。
「どうぞ。」
朱鷺白が入ってきた。
「マスター。」
「ああ。」
私は書類から顔を上げた。
「今日の昼食はどうだったか。」
朱鷺白は聞いた。
「報告しに来たのか。」
「いや。」
朱鷺白は言った。
「確認しに来た。」
「何を確認する。」
「マスターが食べながら。」
朱鷺白は言った。
「私を見ていた。」
「何か言いたかったのか。」
「気づいていたか。」
私は言った。
「はい。」
「良かった。」
私は言った。
「昨日も言っていた。」
朱鷺白は言った。
「昨日より良かった。」
私は言った。
「何が違った。」
「昨日は上手くなった料理だった。」
私は言った。
「今日は朱鷺白の料理だった。」
「雷光も同じことを言っていた。」
朱鷺白は言った。
「そうか。」
私は言った。
「上手くなった料理と。」
朱鷺白は言った。
「自分の料理の違いは。」
「どこにある。」
「上手くなった料理は。」
私は言った。
「誰でも作れる。」
「技術を覚えれば誰でも同じものが作れる。」
「しかし自分の料理は。」
「その者にしか作れない。」
「私にしか作れないか。」
「光明草を持っているのはお前だけだ。」
私は言った。
「その草が光った朝を見たのもお前だけだ。」
「だからあの料理はお前にしか作れない。」
「光明草か。」
朱鷺白は言った。
「名前をつけた。」
「良い名前だ。」
私は言った。
「光のない場所で光ったから。」
朱鷺白は言った。
「お前も同じだな。」
私は言った。
「私が?」
「封じられていた場所から。」
私は言った。
「出てきた。」
「暗いところから光を持ってきた。」
「光明草と同じだ。」
朱鷺白は少し黙った。
「...大げさだ。」
朱鷺白は言った。
「そうでもない。」
私は言った。
「マスターは。」
朱鷺白は言った。
「こういうことを言うのか。」
「時々。」
私は言った。
「知らなかった。」
朱鷺白は言った。
「来る前からいれば知っていた。」
私は言った。
「来る前から?」
「この王国を作る前から。」
私は言った。
「長いのか。」
「そうだな。」
私は言った。
「いつか聞かせてもらえますか。」
朱鷺白は言った。
「機会があれば。」
私は言った。
「機会を作ります。」
朱鷺白は言った。
「どうやって。」
「料理を作ります。」
朱鷺白は言った。
「マスターが来た時に。」
「食べながら聞きます。」
「料理を口実に使うのか。」
私は言った。
「アクアから学んだ。」
朱鷺白は言った。
「アクアが教えたか。」
「直接ではない。」
朱鷺白は言った。
「アクアが料理でマスターを引き止めるのを見た。」
「食べている間は話せる。」
「それを学んだ。」
「...観察が鋭いな。」
私は言った。
「封じられていた間。」
朱鷺白は言った。
「観察だけができた。」
「だから鋭くなった。」
「封じられていた時間が。」
私は言った。
「今役立っているか。」
「そうかもしれない。」
朱鷺白は言った。
「無駄ではなかったということか。」
「無駄な時間はない。」
私は言った。
「マスターはよくそういうことを言う。」
朱鷺白は言った。
「そうか。」
「アクアも言っていた。」
朱鷺白は言った。
「三万年は無駄ではなかったと。」
「アクアが言ったか。」
「いや。」
朱鷺白は言った。
「アクアの行動を見ればわかる。」
「三万年の記憶を使って料理している。」
「あの草のことも知っていた。」
「一万八千年前に同じ病気を見たと言っていた。」
「三万年が全部料理に入っている。」
「それを見れば。」
「無駄ではなかったとわかる。」
「アクアのことをよく見ているな。」
私は言った。
「師匠だから。」
朱鷺白は言った。
「師匠か。」
私は言った。
「料理の師匠だ。」
朱鷺白は言った。
「他のことは師匠ではない。」
「料理だけだ。」
「それで十分だ。」
私は言った。
「師匠はどんな関係ですか。」
朱鷺白は聞いた。
「教えてくれる者だ。」
私は言った。
「それだけですか。」
「それが全てだ。」
私は言った。
「教えてもらうということは。」
「その者が自分の時間を渡してくれるということだ。」
「その時間の重さを知ることが大切だ。」
「アクアの三万年を渡してもらっている。」
朱鷺白は言った。
「三万年分の時間の重さがある。」
私は言った。
「重い。」
朱鷺白は言った。
「しかし良い重さだ。」
「そうだな。」
私は言った。
「明日も厨房へ行く。」
朱鷺白は言った。
「良い。」
「報告は以上だ。」
朱鷺白は言った。
「また報告か。」
私は言った。
「...今日も少し。」
朱鷺白は言った。
「聞いてほしかった。」
「聞いた。」
私は言った。
「ありがとう。」
朱鷺白は言った。
「また来い。」
私は言った。
「料理ができた時に。」
「来ます。」
朱鷺白は言った。
扉が閉まった。
書斎が静かになった。
私は書類を見た。
しかしすぐには見なかった。
「光明草か。」
私は言った。
「光のない場所で光ったもの。」
「良い名前だ。」
エピローグ - 夜の厨房
厨房 - 夜
アクアが仕込みをしていた。
明日の朝食の準備を。
扉が開いた。
朱鷺白が入ってきた。
「また来たか。」
アクアは言った。
「一つだけ聞きたい。」
朱鷺白は言った。
「どうぞ。」
「光明草をあと何日分持っている。」
朱鷺白は言った。
「どのくらい使いましたか。」
アクアは聞いた。
「少量だ。」
朱鷺白は言った。
「まだかなり残っている。」
「では当分は使えます。」
アクアは言った。
「なくなったらどうする。」
「その時はその時です。」
アクアは言った。
「...そうか。」
朱鷺白は言った。
「しかし。」
朱鷺白は続けた。
「しかし?」
「暗黒大陸に生えているものだから。」
朱鷺白は言った。
「この王国では育たないかもしれない。」
「試してみましょう。」
アクアは言った。
「試す?」
「光明草の根が少し残っていますか。」
アクアは言った。
「粉にする前の状態の根が。」
「少し残っている。」
「では植えてみましょう。」
アクアは言った。
「この王国の土に。」
「暗黒大陸の草が。」
朱鷺白は言った。
「この土で育つか。」
「わかりません。」
アクアは言った。
「しかし試してみなければわかりません。」
「三万年の観察では。」
朱鷺白は言った。
「観察はしていません。」
アクアは言った。
「試したことがないものは。」
「試してみるしかない。」
朱鷺白は少し考えた。
「明日植えよう。」
朱鷺白は言った。
「はい。」
アクアは言った。
「庭の一角を使いましょう。」
「陽向様に光を当ててもらえるかもしれません。」
「陽向に頼むか。」
「陽向様は光の精霊です。」
アクアは言った。
「光のない場所で育った草でも。」
「光があれば育つかもしれません。」
「または光があっては育たないかもしれません。」
「どちらかは試してみなければわかりません。」
「面白いことを言う。」
朱鷺白は言った。
「料理と同じです。」
アクアは言った。
「試してみなければわかりません。」
朱鷺白は少し笑った。
今夜は見える笑いだった。
音があった。
小さな笑い声が。
アクアは気づいた。
何も言わなかった。
ただ料理を続けた。
「おやすみ。」
朱鷺白は言った。
「おやすみなさい。」
アクアは言った。
「明日また来る。」
「待っています。」
朱鷺白は出ていった。
厨房に静けさが戻った。
アクアは包丁を動かしながら思った。
(朱鷺白が笑った。)
(音があった。)
(それが今日最も良いことだった。)
(料理より。)
(光明草より。)
(笑い声の方が。)
(今日最も大切なことだった。)
明日。
光明草を植える。
育つかどうかはわからない。
しかし。
植えてみる。
それが今日決まった。
王国の庭に。
暗黒大陸の草が来るかもしれない。
光のない場所で育った草が。
光の満ちた場所で。
どう変わるか。
それはまだ誰も知らなかった。
しかし。
試してみる理由は十分あった。
朱鷺白がここに来た。
それだけで十分だった。
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