10
その朝、珍しく祐弥は、すんなり起きた。
まだ寒い。布団を頭まで被り直して、枕元の携帯を手に取る。
朝七時。
二度寝しようかな、と思う。その数秒後、自分の考えていることの不思議に気が付いた。
眠るのが、嫌じゃない。
嫌な夢を、見ていない。
それが許され始めた証だとは、言い切れなかったけれど。
たぶん、許し始めた証ではあるのだと、祐弥は思った。
それからのことについては、やっぱりそれほどはっきりと覚えているわけじゃない。
また記憶を消されたというわけではない。目まぐるしくて、覚えきれなかっただけだ。
巨人を真っ黒な柱になるまで燃やし尽くした後は、消防車と救急車とパトカーが大量に押し寄せてきた。ものすごい剣幕で取り囲まれて、どうしたものかと困り果てていたところに、ようやく息も切れ切れに由祈乃が追い付いてきて、その場にいた全員の記憶を、躊躇なく、跡形もなく消した。
そのままわけもわからないうちに市役所に連れていかれた。やたらに大きなソファのある部屋に問答無用で押し込められた。意識を取り戻したばかりの永も、何が何やらで目を白黒させていて、祐弥は祐弥で色々説明できるほどの知識もないものだから、携帯でニュース速報ばかりを見て時間を過ごした。
夕方になると、以前に病院で会った、研究者の男、恒住がその部屋に入ってきた。温め終えたコンビニ弁当をかき込んでいるところに質問を浴びせれば、いくらかは答えてくれた。そのいくらかすらも祐弥にはよくは理解できなかったけれど。内閣府の人間がどうとか、IEOがどうとか。うっすらとした部分だけを聞き取って、何かしら揉め事を続けているらしいということだけを感じ取るのがせいぜいだった。
次の日の朝に、永の両親が来て、由祈乃に頼まれたからという理由を述べて、祐弥ごと永の家に戻ることになった。
数日、そこで歓迎に歓迎を重ねられて、食べて寝て、後の時間は永とニュースを見たりしながら過ごした。IEOとE研の暴走と黒い関係だの、内閣府と総務省の仁義なき戦いだの、そんなことばかりを、ふたりでぼうっと眺めていた。
そして、何の脈絡もなく由祈乃は再び現れ、ふたりに引っ越しを告げた。
由祈乃は言った。しばらく放っておくような形になっちゃってごめんなさい。しばらく色々と、今回の事件の後処理をしてたの。というか、今もそうしてる最中で――、ううん、その話をしに来たんじゃないんだ。とにかく、ふたりにはここは危険だから引っ越してほしいの。この街は〈エフェクト〉が発生しやすくて、永ちゃんがいるとその〈エフェクト〉が強くなりやすくて、シェルターが壊れちゃった今、たぶん世界で一番危ない場所だから。
永は答えた。嫌です。逃げません。
祐弥も答えた。じゃあ、あたしも。
そういう話ではない、と由祈乃は何度も言った。でも、そういう話なのだ、とふたりで何度も答えた。議論は平行線になり、結局、由祈乃の忙しさにつけこむような形で、ふたりは今でもこの街に、朔山市に居座っている。
「おはよ」
「おはようございます」
朝ごはんを食べにリビングに下りても、誰もいなかった。だから、少なくとも永はそのへんにいるだろうな、と外に出て行ったら、やっぱりいた。
永の家は、祐弥の家に輪をかけて、街の外れも外れ。シェルターの外縁部に位置していた。だから、少し歩いただけで、もうすっかり砕け散った、境界線の跡地に立つことができる。
永は、和服で、マフラーを巻いて、ぼんやりと白い息を吐いていた。
「今日はなんだか、顔色がいいですね」
「ああ、うん。今日は何か……、すっきり起きられた」
「そうですか。……何よりです」
顔を綻ばす姿を見ると、妙にからかいたくなってしまって、さんきゅ、と言いながら、祐弥は永の頬にぐりぐりと指を立てる。何ですか、と永が言うのに笑ってしまえば、寒さに強張った表情がほぐれて、開いた口から、温い吐息が漏れる。
「昨日さ、由祈乃さんからまたすっごい連絡来てたんだよ」
「あ、私もです」
「マジ? 由祈乃さんってなんか、そういうとこパワフルだよな」
「私はうれしいです。心配してもらってる感じがして……」
「まあ、うん。あたしもそれはそうなんだけど……」
永がふらふらと歩き出すので、祐弥も並んで歩き出す。街の外側に向かって。
少し前までだったら、きちんとした意味があっただろうその行為は、今はもう、何も違いをもたらさない。すでに中と外を分けるだけのパネルは、なくなってしまったから。
「――で、実際どうなの。永。記憶戻しっぱで、平気なの」
祐弥が聞くと、永は口元を押さえて、珍しくちょっと、悪い感じの笑い方をした。
「何」
「いえ、あの……。そういうところ、似てますね。祐弥さんと、由祈乃さん。ふふ」
あはは、と永は笑う。馬鹿にされているわけじゃないだけに、何を言い返すこともできなくて、祐弥は唇を尖らす。
「何だよ、悪いかよ。仕方ないだろ」
「いえ、嬉しいです。ふたりに心配してもらえて。――平気ですよ。それこそ、憑き物が落ちたみたいに」
「……そか」
永は、外へ外へと歩いていく。祐弥も、それに合わせて、外へ外へと歩いていく。
「たぶん、ようやく上手く付き合うことができるようになったんだと思います。自分の中の悲しみとか、そういうものと」
「うん」
永は、顔を小さく上げている。空に向かって。冬晴れの、シェルターを通さない、そのままの白い空。
「それはきっと、由祈乃さんが私に、悲しみを受け止めるための時間をくれたおかげで――、そして祐弥さんが、私を繋ぎ止めて、悲しむだけじゃないということを教えてくれたおかげなんだと、そう思います」
ありがとう、と永は言った。
「ううん、あたしもだよ」
ありがとう、と祐弥は言った。
お互いに顔を見合わせる。
それから、表情を崩して、笑いあった。
冬の朝。街の外れ。そこには誰もいない。車だってひとつも通っていない。
冬枯れの田園と、撓んだ道路だけがある。風が吹いて、永のマフラーと、祐弥の前髪の先が揺れる。
「寒いし、帰ろっか」
祐弥は言って、息を吐く。少しだけ、白く曇る。
「はい。帰りましょう」
永は言って、息を吐く。二人分、白く曇る。
そうして二人は、また歩き出す。何も持たないまま、並んで歩く。
誰かに呼ばれた気がして、祐弥は永に聞いた。
「今、呼んだ?」
いいえ、と永が言うので、そっか、と頷いて、歩き続けた。
目指す先に、透明なドームはもうない。
代わりに、どちらからともなく、手を繋いだ。




