9-①
たぶん、誰も見なかったのだと思う。
それが生まれるところを。
けれど、それが育つところは、その街にいた多くの人間が目にした。もっとも近い場所にいた人間であれば、それが家屋の二階程度の高さであったところから、見つけていたかもしれない。
それは、巨人だった。そして、獣というよりも、大樹に似ていた。
地についた足、その根元にある腰、その上に乗る胴、肩、そこから生える首、腕、どれをとっても太く、生物的なやわらかさよりも、もっと固い、力強さで聳え立った。
それはぐんぐんと大きさを増していった。初めは三、四メートル程度であったはずのそれは、気付けばビル群のどれよりも高くなり、いずれは街の、すべての住人の目に見えるようになる。
祐弥の目にも、見えていた。
「なんだよ、あれ……」
〈エフェクト〉だ、と由祈乃は言って、席を立ち上がり、前の方に歩いていく。何事かを運転手と話している。祐弥は、大丈夫か、と言って永の手を握る。
その手の冷たさ。
驚いて祐弥は永の顔を見た。手指の感覚を麻痺させるような冷たさだった。普通の体温の範疇にない。どう考えたってこの体温の持ち主は体調を崩している。そう思って、祐弥は永の様子を窺った。
でも、永はもう、祐弥を見ていなかった。
「永――?」
虚ろな表情だった。目の焦点も合っていない。それに危うさを感じて、祐弥は思いきり、永の手首を握り込む。
そして、弾き飛ばされた。
「――――っ」
受け身なんて取ろうとすら思えなかった。何が起こったのかすらしばらくわからない。背中から床に落ちて、ついさっきまで握っていた永の手首は、もう手の中にない。視点の低さの理由が、倒れ込んでいるからだとわかるまでに時間がかかって、その間に由祈乃が事態に気が付いて、駆け寄ってくる。
どこかに歩き出そうとする永の小さな身体を、長身の由祈乃が抱きしめるようにして止める。体格差にもかかわらず、由祈乃は苦悶している様子で、
「祐弥ちゃん、手伝って!」
その言葉で、我に返った。床に手を突いて、靴底で床を踏み締めて、立ち上がる。どうなっているのかさっぱりわからないのに、とにかく永を抑え込まなくちゃいけないと、そう思って由祈乃と一緒になって抱きしめる。
永はまるで暴れたりなんてしていないのに、ひどく強い力が、その身体から溢れ出している。
「これ、どうなってんのっ!」
それでも離さないように全身を使いながら、祐弥は由祈乃に言う。
「〈共鳴〉を起こしてる……。永ちゃんが、あの〈エフェクト〉に引っ張られてる!」
「なんだよそれ! どうすればいいの!」
「今、どうにかして記憶を……」
言葉は続きを待たなかった。
バス中の窓という窓が、激しい音を立てて割れた。祐弥も由祈乃も、弾かれるようにして壁に叩きつけられて、一瞬、体勢を立て直すまでの間にドアまでひしゃげて、そこから永は降りて行ってしまう。
追いかけなきゃ。そう思って、もう一度動き出そうとした祐弥の身体が、止まる。
ものすごい音が、背後で響いた。ただの音では収まらない。振動そのもの。バスが揺れて、祐弥の足がもつれかけるくらいの激しさ。
咄嗟に後ろを見た。
シェルターが。
大樹のような巨人が、その背丈を増していくうちにシェルターの天井にまでその頭を至らせて、そこからさらに大きくなろうとして、ばきり、ばきききき、と。あまりにも取り返しのつかない歪みの音とともに、
壊れていく。
一瞬、呆然としかけた。
けれど、すぐに祐弥は自分を取り戻した。永だ。今はそれ以外考える必要なんてない。
迷うな。
そう思って踏み出したのに、
「ダメ!」
「な――、」
由祈乃が、その手を後ろから掴んだ。何すんだ、と叫び返そうとした途端に、バスの、昇降口の目の前、巨大なパネルが降ってくる。
地面がへこむような、重みと、速度で。
それを皮切りに、バスの天井から、どんどん鈍く、決定的な音が響いてくる。がん、がん、がん、と。金属と金属がぶつかり合う、その狭間に身体を置いたら、容易に突き抜けてしまいそうな、重たい音が響く。
バスが、ゆっくりと傾く。
じっとして、と由祈乃は言い、祐弥はその身体に抱き込まれるようにして、床に伏せられた。
「――ん、う……」
ここはどこだろう。
思いながら、目を開けようとして、頭が痛くて、もう少しだけ、ときつく閉じ直す。
声が聞こえる。
「……うん、うん。じゃあ、そっちの避難はいけそうなんだね。……もしかしたら、永ちゃんが抑え込んでくれてるのかもしれない。でも、絶対に辿り着かせないで。前の、三回目のときもその気があったから。あの子、〈エフェクト〉に引っ張られてる。たぶん記憶も、ほとんど戻っちゃってる。できるだけ入ってくる情報は消したけど、消しきれてない。あの〈エフェクト〉と接触したら、永ちゃんの意識が負ける――、祐弥ちゃん?」
名前を呼ばれて、目を開けて、ぼんやりした頭で祐弥はあたりを見渡す。
瓦礫の山だった。いつの間にか自分はベンチの上に横たえられていて、近くにはひしゃげた形の、横転したバスがあって、あたり一面に、ガラスのような透明の物体が散乱している。
そのまま視線を上げると、巨人が佇んでいた。
「うん。目を覚ましたみたいだから、私も動けそう。とにかく、どうやってもいいから永ちゃんを足止めして。〈エフェクト〉が消えるまで粘れば、それまで永ちゃんの精神力が持ってくれれば――、何とかなるはずだから。ううん、人じゃ無理。バリケードでも何でも。このままだと大量の死者が出る」
びくり、と身体が震えた。
「大丈夫。この街には、私たちみたいな人、たくさんいるから。……うん。そのために、ここに来たんでしょ、隹親は。お願い。私もすぐ行く」
それを最後に、由祈乃は振り向いた。そして近付いてきて、傍に屈み込んで、
「祐弥ちゃん、起きてる?」
「……うん」
「たぶん、どこも打ってないと思うんだけど、どう? 痛いところとか、ない?」
言われて、自分の身体を探る。鈍い感触だけがして、よくわからなかった。
「ない、と思う」
「よかった」
由祈乃は微笑んで、
「そうしたら、ごめんね。私もう、行かなくちゃ」
「永の、とこ?」
「そう。あの子を止めないと」
「あいつを、永を止めないと、どうなるの」
由祈乃は、少しだけ言い淀んで、
「……この街がきっと、丸ごと滅びる」
「そうじゃなくて、」
意識がはっきりしない。本当にどこも打っていないのか、と祐弥は思う。どこか、致命的なところを怪我しているような気もする。
だけど、
「永は、どうなるの」
その不安を押し込めて、身体を起こす。そうしてようやくわかるようになる。顔は熱っぽいし、頭はぐらぐらする。ものすごい高熱を出したときなんかに、こういう風になったことがある。そういう記憶は残っている。
「――あいつ、死ぬの?」
そしてたぶん、本当に、熱が出ている。
はっきりと口にしたその言葉に、由祈乃は言い淀んだ。その後に、そうかもしれないとか、そうしないように自分が何とかするとか、だからここで休んでいてとか、そういうことを言ったような気がするが、もう関係ない。
「――ふざけんなよ」
もう、それだけで十分だったのだ。
口を開くと、冷たい外気に触れて、自分自身の体温が舌先でちろちろと、火のようにゆれるのがわかる。肺の奥底から、心臓の熱を貰ってきた空気が、声になって灼けて漏れ出してくる。
「あいつが、何したんだよ。普通に生きて、普通に過ごしてるだけの、普通のやつだろ。いちいち死ぬとか、〈エフェクト〉だとか、なんなんだよ。関係ないだろ。ちょっとしか一緒にいなかったけど、それでもわかるよ。永は優しいよ。いいやつだよ。父さんだって、母さんだって――」
瞳から。
滴は、雪にならずに零れ落ちる。
「あたしだって! こんな風にされる理由、一個もない!」
軋む身体を、無理矢理動かす。屈み込んでいた由祈乃を、思い切り上から見下ろす。そして、祐弥はきっぱりと言う。
「記憶、返して」
「――――でも、今は、」
「今ほしい。今、要るから」
知るかよ、と祐弥は思うのだ。〈エフェクト〉だとか、〈エフェクター〉だとか、それがなんだ。
両親が死んだ。悲しみに耐えられなかった。親切な大人がその記憶を消してくれた。取り戻すとまた心が耐えられないかもしれない。それがどうしたというのだ。
一生怯えて生きていく気なのか。〈エフェクト〉があるから。〈エフェクター〉として生まれたから。一度傷がついたから。その古傷が開かないように、びくびくと、怖がりながら生きていくしかないのか。誰かに守ってもらいながら、大切にされながら、決してもう傷つくことがないようにと、何もしないで眠っているしかないのか。
友達が死のうとしているときに、誰かの陰に隠れていなければならないのか。
そんなわけないだろ。
「大人だとか、子どもだとか、そんなの関係ない。父さんのことも、母さんのことも、今だけは関係ない。あたしは、こんなとこで泣いてるために生まれたんじゃない。見捨てるために友達になったんじゃない。やりたいこともあって、やる力だってあるのに、震えてる場合じゃない」
一つ一つの動作に、異様に力が入る。握りしめた拳は、血が滲みそうなくらいに固くなっているし、立ち上がった足は、膝の関節を逆に曲げそうなほどぴんと張り詰めている。
どうして自分がそうしているのか、祐弥は知らなかったけれど、
「だから、あたしの記憶、返して。あたしはあたしの全部で、あいつをぶん殴ってやりたい」
それは、怒りと呼んでよかった。