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8-②



 そっか、と由祈乃は言った。

 うん、祐弥は頷いた。

 夜。木造の、がたついた家の中で吐く息は白い。物のない部屋は冷たい風もよく吹き通るから、なおさらのこと。

 テーブルを囲んで、ふたりは座っている。時計は十時三十分を指している。

「正直言うとね、安心した」

それだけを、由祈乃は言った。祐弥はもう一度、小さく頷いて、それだけだった。

少しだけ、由祈乃は笑う。祐弥はどんな顔をしたらいいのかわからなくて、どんな顔もしなかった。

「あのさ、今、思い出しかけてる部分って、やっぱ消すの」

「消す。このままにしておくと、そのうち完全に戻っちゃうから。でも、ちょっとだけそれ、待ってもらってもいい?」

祐弥は首を傾げて、

「いいけど……なんで?」

「近いうちに、またこの街で〈エフェクト〉が起きるから」

は、と息が抜けた。

「何、なんで、」

「……色々と、複雑な事情があって」

「複雑な、って。なんだよそれ。納得できないよ。ちゃんと……!」

そこで、祐弥は言葉を止めた。由祈乃が悲しい顔をしていたから、そこで止まらなければならなかった。

ちゃんと説明してほしいなんて、どの口で言おうとしたのだろう。

「全部を話したいけど……、ごめんね。たぶん、今の状態で〈エフェクト〉に関する知識を入れすぎちゃうと、それを切っ掛けに記憶の回復が早まっちゃうから……」

「……うん。……ごめん」

「ううん。こっちこそ、ちゃんと話してあげられなくてごめんね。急な話になっちゃうんだけど、明日の朝、この街を出たいと思ってるの」

 祐弥は、特にそれに反論することもなかった。もう自分では、何も言っていいことはないと、そう思っていた。

「永ちゃんも連れて、しばらくの間、この街から出る。本当は今この時点で記憶を消した方が安全なんだけど、きっと今消すと、どうしてここから離れなくちゃいけないのか、そういうところがわからなくなっちゃうから……

ここに戻ってこれるかどうかもわからないし。とにかく〈エフェクト〉から逃げることだけはちゃんとしておかなくちゃいけないから。それからのことは……、頼りなくてごめんね。色々終わってから考えることになると思う」

 ううん、と祐弥は首を振った。

「そんなことないよ。由祈乃さん、すごく、あたしたちのこと考えてくれてるってわかるし。こっちこそ、弱くてごめん。ちゃんとしてなくて、子どもで……」

 ううん、と由祈乃も言った。その顔を、祐弥は見ることができなかった。自分の膝のあたりに視線を落として、そこから上げられない。視界の端に、金色の髪先が映って、それを払いのけることもできない。

 いいんだよ、子どもで。そう、由祈乃は言った。

 そんな言葉は、聞きたくなかったけれど。



 次の朝は、まだ暗いうちから出ることになった。

 キャリーバッグを片手に、祐弥は空を見る。午前六時だというのに、まだ月が出ていて、夜のように見える。頬が熱くなるような、冷たい空気。それでも、朝だろうと夜だろうと関係なく、この街を、朔山市を、透明なシェルターは覆っていた。

 かちゃり、と音が聞こえて振り向くと、由祈乃は小さな鍵をポケットにしまい込んでいる。

「バスって何分だっけ」

「十七分」

 祐弥は携帯を見る。まだ十分近く時間はある。近くのバス停まで、五分もかからない。

 行こう、と言う由祈乃について、歩き出す。

「昨日も言ったけど、永ちゃんのところに迎えに行くから、一旦途中で降りるよ」

「ああ、うん」

 バッグの中には、ほとんどすべて、ここに来たときに持ってきたものが入っている。仮住まいの生活なら、これで済んでしまう程度の必需品と、持ち歩いておきたい、手放したくないものの一式。

 もう戻らないかもしれない、とは由祈乃が言ったのだ。

 前を歩いていく由祈乃の背を見ながら、祐弥は思う。言いかける。いいの、と。由祈乃さん、ここでの生活とか、仕事とか、あったんじゃないの。そんな風に捨てちゃっていいの。これからどうするの。

 言えるわけもなくて、思うだけでも、申し訳なかった。

 口の中でだけ、ごめん、と呟く。由祈乃は振り向かない。聞こえなかっただけなのか、聞こえていて、聞こえていないふりをしたのかはわからない。

 バスは時刻表より少し早く来て、中には誰もいなかった。祐弥と由祈乃は、入り口からいちばん近い席に、並んで座る。誰も乗り込んでこないまま、由祈乃が次だよ、と言って、祐弥が降車のボタンを押した。

 永の家に向かうのは初めてのことで、一体どんな家なんだろう、と少しくらいは思ったりしたけれど、結局、その家を目で見ることはなかった。

 道の途中に、永が立っていた。横には中年の男女が一組。片方が痩せていて、片方が小柄で、何となく、ふたりとも面影があった。

 由祈乃が二人と話した。先生、よろしくお願いします、だとか。お預かりします、だとか、そういうこと。話している間に、永は祐弥の方に歩いてきている。

 そして、よかった、と言った。

 何が、と聞けば、

「少し、不安だったんです。祐弥さんがいて、よかった」

 そんな風に、あまりにも素直に言うものだから、

「……あたしも」

 少しだけ、祐弥も笑えた。

「それじゃふたりとも、行こうか」

 話を終えたらしい由祈乃が声をかけて、歩き始める。ふたりはその後を、並んで歩きながら追いかける。気を付けろよ、と後ろから声が聞こえる。永が振り向いて手を振る。由祈乃さん歩くの速いよ、と祐弥は言う。ごめんね、と言って歩幅が小さくなる。

 バス停についてからも、まだ時間はあった。

「あのさ、聞いてなかったけど。この街から逃げるって、どこまで行くの」

「実家かな。あ、祐弥ちゃんも来たことあると思うよ。おじいちゃんとおばあちゃんの住んでた家……。って、それじゃ永ちゃんがわかんないよね」

 由祈乃が話して、永が相槌を打つ。祐弥は祖父母の住んでいた実家というのがどこにあったかは覚えていて、早々に話を聞く必要がなくなってしまったものだから、ひとりでバスの来る方向を見たりしていた。

 車なんて一台も通らなかったのに、バスだけはちゃんと来た。

 バスに乗り込む順番は、祐弥がいちばん最初で、次が永で、最後に由祈乃。祐弥と永が並んで座って、由祈乃がその前の席に座った。

 バスはゆっくりと動き出す。

 その音に紛れて、祐弥は言う。

「……ありがとな」

 上手く聞こえたようで、永は、小さく頷いた。

「話、聞いてくれて。それからアドバイスまでくれて」

 いいんです、と永は言う。

「最後に、祐弥さんの助けになれてよかった」



 そのとき、恒住はまだ部長室にいた。

 ソファの上で死んだように眠っている灰賀丈を尻目に、カップ麺を啜りながら、モニタをじっと眺めていた。

〈エフェクト〉は、空から降ってくるという。恒住はそう言われる理由を、何となくわかっている。雪が、〈兆候〉と呼ばれるその降雪が、溜め込んだS値が燃料として消費され、V量を生み出すための触媒として働いているからだ。

 雪は、〈エフェクト〉は、空から降ってくると言われている。

 だから、気が付くのが遅れた。

「――――は?」

 カップ麺の容器を置いた。箸も置いた。椅子から半ば立ち上がり、顔を寄せて、必死になって確かめた。

「嘘だろ」

 何度見ても変わらない。もう一回だけ、瞬きをして、もう一度だけ、それを確認して。

「起きてくれ! 部長!」

 叫んだ。

「あいつら、街中でぶっぱなしやがった!」



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