8-①
「あ」
と高階が声を上げたのは、由祈乃が歩いているのが見えたからだった。
「疲れてるねえ。はい、高階さんも。これお疲れ様」
「あ、どうも」
いつの間にか席の近くまで書類を持ってきていた小山田も、一緒になって執務室の外を歩いていく由祈乃の背中を見送る。手にはコンビニのレジ袋。髪はほつれて、肩は落ちて、後ろ姿だけでも体力を消耗しているのがわかる。
「久宗先輩って、疲れたりするんですねえ」
「そりゃあするでしょう。人間なんだから」
「いやでも、そういうところ見たことなかったじゃないですか」
「まあ、言っちゃなんだけど、うちとは負荷が違うからねえ。対策班の専任嘱託って言ったって、部長付きの秘書みたいなものでしょ。ほら、例のやつで今うち、国ともマスコミともバチバチだし。下手すると私より忙しいよ」
「それは私もそうですけど」
言うねえ高階さん、と小山田が言う。
言います高階さんは、と高階が言う。
「業者捕まんなかったって言って、若手は休日動員ですよ? 確かにこれだけ連続で来てて、それで防衛設備が破損してると怖い、ってうのはわかりますけど。でもいくらなんでも、一週間二週間では来ないですよ。あの部長、よっぽどせっかちなんですかね。おかげで私、今日全身湿布女ですよ」
「僕も今日、湿布三枚貼ってるよ。特に何もしてないんだけど」
「哀れな……」
昼下がり、何もない一日のこと。
由祈乃が部屋に入ったとき、灰賀丈の姿はなく、代わりに髪を結んだ男、恒住が来客用のソファの上に死んだように横たわっていた。その腹の上に、由祈乃はコンビニの袋を置く。んん、と悪夢でも見ていたかのように恒住は呻き、身じろぎしながら起きる。それから、袋のあたりを見ないまま、手で探って、
「……あ、悪い。行ってもらっちゃって」
「いいけど。私の好みで買っちゃったよ。隹親は?」
「……なんだっけ。あ、そうそう、あのへんの地区の商工会に避難計画変更の説明しに行くって言ってた。お、久宗さん趣味いいね。これカロリー爆弾なんだよ」
「どうも。で、恒住さんは見つかったの」
袋から取り出した惣菜パンを見ていた恒住は、ゆっくりとそれを脇の机に置いて、由祈乃の座った向かいのソファに背を向けるようにして寝返りを打ち、
「無理……。いや、無理って言っちゃいけないのはわかってるんだけど、正直かなり厳しい……。〈エフェクト〉の発生を止める方法なんて、わかったらそりゃいいけど……」
「別に止めてとは言ってないでしょ」
由祈乃は自分のパンの袋を開けながら、
「できるだけ遅らせてほしいって話で」
ぼそぼそと、恒住は何かを言った。なんて?と由祈乃が聞き返せば、なんでもありません、と返ってくる。
「久宗さんこそ大丈夫なの」
「何が?」
「〈共鳴〉現象。止めるって言ってたけど、その目処ちゃんと立ってるの」
「立ってるよ」
あまりにもさりげない言い方だったからだろう。恒住は一旦反応せず、はあそうですか、と気のない相槌を打った後、
「え、マジで」
がばりと起き上がって、そう聞いた。
「うん」
「うん、って。どう、それどういうやつなんすか。教えてよ。俺の方のヒントになるかも」
「毎回そう言って恒住さんつまんない顔するからなあ」
一瞬、恒住は戸惑った。毎回、という言葉の意味について考えて。
「……まさか、記憶消してる?」
「うん」
「俺って信頼されてない?」
「信用してるから毎回話してるんだけど」
ひくり、と恒住の顔がひきつった。
「また記憶消していいなら話すよ。どうする?」
「……お願いします」
「〈共鳴〉の原因、永ちゃん――細羽永だから。S値が発生圏内に入ったら、私があの子を連れて街の外に出る。それだけ」
「細羽永? 〈エフェクター〉は関係ないって確か、」
「あの子、〈エフェクター〉かというとちょっと微妙なラインだから……。自分で〈エフェクト〉を使ってるっていうか、〈エフェクト〉に反応させられてるんだよね」
ふうん、と頷いた恒住はつまらなそうな顔で、
「案外シンプルなんだな。アンプリファイアを除去するだけか」
またそれ、と由祈乃が言うのに被せるように、ばたん、と大きな音を立てて部屋のドアが開いた。
由祈乃も、恒住も咄嗟に身構える。が、入ってきたのは、
「なんだ、部長か」
肩から力を抜く恒住。びっくりさせないで、と言う由祈乃に構わず、灰賀丈はずんずんと部屋の奥まで進み、椅子にどっかりと腰を下ろし、眼鏡を外し、天を仰ぎ、盛大に溜息を吐く。
「……久宗、次は一緒に来てくれ」
「あんまりやり過ぎると、後腐れ残るよ」
「何も残らないよりはマシだろう。あの商店街は、頼りにならない役所の言うことを聞くくらいなら死を選ぶそうだ」
「あー……」
「どんな説得してきたんすか、部長」
「……これでも本省にいる頃は、クレーム対応に自信があったんだがな」
「仕方ないよ」
と由祈乃は言う。
「あのあたりの人たちは、外から来た人ばかりだから。長くいる人なら、〈エフェクト〉を引き合いに出せば大抵のことは協力してくれるけど、そういう感覚ないし。どうしてもって言うなら印鑑無理やり押させて記憶消して、ってやるけど。商工会連合の方の会長さんに根回しして説得してもらった方が正攻法だと思うよ」
「その余裕があれば、な」
もう一度灰賀丈は溜息を吐いて、顔を正面に戻す。眼鏡をかけて、机の上のカレンダーを手に取る。
「あれから二週間……。S値も上昇著しい。今週いっぱいが限度だろうな」
ですね、と恒住は言う。うん、と由祈乃は頷く。
灰賀丈は、ふたりを見る。
「……お前ら、なんだその不健康な飯は」
水の中で、小さくカメは手足を動かして、翻る。サメはその下、土に身体をべったりとつけて、動かない。祐弥は、薄青い暗がりで、ぼんやりとそれを眺めていた。
小さく、足音が聞こえる。祐弥は、その方向を見ないまま、
「退院、おめでと」
ありがとうございます、と声は近寄ってきて、祐弥の隣に座り込んだ。
「父と母から聞きました。毎日、お見舞いに来ていただいていたそうで……」
「うん。気にすんなよ。あたしもなんか、永のお父さんとお母さんから、永用のお見舞いとか分けて貰っちゃったし。かえってごめんな」
「いえ。うち、たくさん食べる人がいないので……」
そうなんだ、と祐弥は言う。はい、と永は答える。
「……ありがとうございました。うれしかったです」
「あたしもたぶん、永の立場だったら、来てくれたらうれしいだろうなって。そう思っただけだから」
ゆっくりと、永は目を閉じた。
「……聞きました。祐弥さんも、由祈乃さんに記憶を消してもらっているって」
祐弥は、静かに頷く。自分だって、永のことを教えてもらったのだから、永が自分のことを知らない道理はない。
「今日が、期限と聞きました。戻すか、戻さないか……」
「永は、どうすんの」
「私は、ダメです。戻さないと、初めから由祈乃さんに言われていますから」
「え――」
そこで初めて、祐弥は永を見た。薄く、青く、照らされた顔。滑らかな頬の上で、水の光が揺れていた。
「耐えきれないそうです。過去を受け入れるとか、そういう話ではなく。単に、可能、不可能の問題として。由祈乃さんが消してくれたものは、人が受け入れられる量のものではないと、そう言われました」
「でも、それって由祈乃さんが決めることじゃ――、」
「私は、それでいいと思います」
遮るように、永は言った。
声の大きさでいえば、祐弥の方がずっと大きいというのに。その言葉の方が、ずっと重く聞こえた。
「すでにあったことは変えられません。でも、由祈乃さんはそのことを忘れさせてくれた。一度なくなった記憶は、もう過去のことではないと、私はそう思います。
失ったものを取り戻すかは――、もう、過去のことではなく、未来の選択だと、そう思います。私はあの方が、由祈乃さんが、単に悪意で私たちの記憶を奪ったとは思えません。私たちを守ろうとして、助けようとして、記憶を消してくれたのなら、私は――、」
ゆっくりと、永の手が動く。それは、ゆるやかに弧を描くように持ち上げられて、祐弥の手首に、そっと触れた。
「傷つくためだけに前に進む必要は、ないと。そう、思います」
祐弥はその言葉を、ゆっくりと飲みこんだ。そして、泣きそうになるのを堪えた。
いいのだろうか、と思う。
自分は何か、大切なものを忘れている。それを忘れたままでいていいのだろうか。それはきっと、家族のことだ。自分はそれを大切に思っていて、それは間違いなくて、なのに、ただ自分が傷つくのを恐れて、それを誰かに甘えて、忘れたままでいていいんだろうか。
いいはずがないと、そう思うのに。
「あ、あたし――、」
もう、堪えきれない。
「怖いんだ……。少しずつ、あの日から思い出してきてる。ものすごく悲しかったこと。今までの自分から想像できないくらい、毎日つらかったこと。見るものぜんぶ暗くて、自分がすごく嫌なものに思えて、死ぬことばかり考えてたこと。ぼんやりとだけど、少しずつ、実感が湧いてきてる。思い出したくないのに、でも、このままでいたら、いつまで経っても、父さんも、母さんも浮かばれないんじゃないかって」
「祐弥さんの、お父さんも、お母さんも」
永は言う。
「祐弥さんに傷ついてほしいなんて、思ってないと思います」
そのことを、祐弥は知っていた。
誰より自分が、自分の家族のことをよく知っているのだから。たとえどんな死に方をしたとしても、自分の両親が、自分に傷ついてほしいだなんて思わないことを、ちゃんとわかっていた。
でも、誰かにそれを、言ってほしかったのだ。




