6-②
「結構、古い家なんだよな」
玄関に鍵を差し込みながら、祐弥は言う。
「いえ、そんなことは。ここもシェルターの縁のあたりは、大体こんな家ばかりだと思います」
そう?となんでもない相槌を打ちながら、祐弥は戸を開く。閉めるときだけじゃなく、開けるときにもコツがいる、随分がたついたものなのだけれど、それでも一月が経った。手間取ることもない。中に入って、バリアフリーのことなんてまるで考えてないようなやたらに背の高い上がり框に腰かけて、靴を脱ぐ。
「永?」
すると、中に入ってきていないことに気が付いた。
永は玄関の前で立ち止まって、どこか不思議そうな顔でこの家を見上げている。
「どうかしたか?」
「いえ。ただ……どこかで見覚えがある気がして」
その言葉に、祐弥は引っ掛かりを覚える。永を家に呼んだことはない。もし本当にこの家に見覚えがあるとしたら自分とは関わりのない場面のはずで、そしてこの家に関わりのある人間は、自分のほかには由祈乃しかいない。
やっぱりどこかで、永と由祈乃は繋がりがあるのかもしれない。永が忘れているだけで。
考えていると、じっと見つめているような格好になった。その視線の意味を深読みしたのか、永は早足で、慌てたように中に入ってくる。
「すみません、たぶん気のせいだと思います。似たような家が多いので……、あれ、」
そして、戸を閉められずに困った様子で、何度も引っ張る。
ああ、と祐弥は笑う。自分もここに来たとき、同じことをした。もう一度靴を履いて、細い腕を突っ張ってぎゅうぎゅう力を込める永の後ろから、手を伸ばして、
「よっと」
ぴっしゃん、と。
雷でも鳴ったみたいな音を立てて、戸を閉める。永はリスのように目を丸くして、行き場をなくした両手を、小さく胸の前に上げている。
「建付け悪いんだよ、ここ。悪いな」
「はあ……」
ようやく二人は家の中に上がっていく。リビングを通って、その先の廊下。いくらかある和室の傍を通り過ぎて、由祈乃の部屋。
今度はぴたり、と閉められている。
がらり、と開ける。
「いいんでしょうか、こんなことをして……」
よくはない。祐弥は思ったが、口には出さなかった。
同居している保護者の部屋に勝手に入って家探しをする。いいわけがない。けれど、そうして正直に自分の考えをそのまま伝えてしまえば永が委縮することはわかっていたので、
「大丈夫、大丈夫。由祈乃さん優しいから。全然あたしの勘違いだったとしても、謝れば許してくれるよ」
そんな言葉で誤魔化すことにする。
実際、由祈乃は優しい。この一ヶ月の同居生活の間で怒られたり、衝突したりしたことは一度もなかったし、こちらから何かを言う前に、大抵のことには気を回してくれていた。
けれど、同時に怪しくもある。
きっかけこそ、単に永の似顔絵が部屋の中に置いてあった、という些細なものだったけれども、考えれば考えるほど違和感があるのだ。
三度、記憶をなくした。
一度目は両親の死に纏わるだろう時期の記憶。二度目は永と一緒に〈エフェクト〉に遭遇したときの記憶。三度目は、昨日。ニュースが言うには、朔山市に訪れた三度目の〈エフェクト〉災害の日。
三度とも、〈エフェクト〉に関わる記憶喪失なのだ。
たぶん、何かがある。何かの関係がある。けれど、由祈乃は何も言わない。大変だったね、なんて言って終わり。きっと何か、そこには理由だとか、事件だとか、そういうものがあるはずなのに、何も言わない。
知らないだけならいい。
知っていることを、隠しているのだったら?
「あたし、机の中調べてみるよ。永は押し入れ見てもらっていい?」
はい、という声を背後で聞いて、祐弥は手がかりを探し始める。
由祈乃の部屋は、汚くはない。けれど、片付いてもいない。単に物がないから、整って見える。以前に訪れたときは気にも留めなかったけれど、今となってはその些細な違和感すらも引っかかる。ひょっとすると、ここに来てまだ一月の自分の部屋よりも、殺風景に覚える。
机の、一番上の引き出しを開ける。通帳が見えた。閉めた。
二番目の引き出しを開ける。紙束が入っている。一番上には白紙が乗っていたけれど、それをめくれば、絵が出てくる。かなりの量で、手を目いっぱいに広げても一度にすべてを引き抜くことはできない。一度半分くらいを見積もって机の上に出したけれど、それだけで引き出しの傾いていたのが正しい形に戻ったような、軋みがあった。
紙束を捲る。風景、風景、風景、祐弥の顔、風景、風景、風景、永の顔、風景、風景、風景、風景、知らない人の顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、風景、顔、顔、顔、顔、
「誰だ? この人……」
知らない人物だった。年のくらいは自分より少し上くらいに見える。柔らかいタッチで、どれも微笑んで、少し現実離れして見えるくらいに綺麗に描かれている。改めてこうして見てみれば、由祈乃の絵がものすごく上手いこともわかったが、それにしても同じ人物らしき顔ばかり描かれていて、その意図をつかみかねる。
結局、それ以上の発見はなかった。祐弥は元あったように、丁寧に紙束を重ねて、引き出しに戻す。三番目を開く。雑貨ばかりが入っていて、しかも埃を被っていて、使われている形跡はほとんどない。一応中を確認した方がいいのかな、と悩んでいると、
「あ」
と永が声を上げた。
「なんかあった?」
「アルバムが……」
畳の上に綺麗に正座しながら、押し入れの下の段を探していたらしい永が、奥の方から白色の冊子を取り出す。飾り気のないもので、おそらく売り場にあったときからだろう、バーコードのシールがついたままになっている。
祐弥は机を漁っていた手を止めて、永の隣に胡坐で座り込む。その間にもう数冊あったらしく、同じデザインのものを永が引っ張り出してくる。
「勝手に見て、いいんでしょうか」
よくはないが、うん、と頷いて祐弥はそのアルバムを捲り始めた。一冊目。
「あ、この人、さっき見た。絵で」
どの人ですか、と永は聞いたが、強いて説明する必要もなかった。そこには二人の人物しか写っていなかったから。そしてそのうちの片方は、永も知っている顔だったから。
由祈乃と、それからもう一人、ついさっき絵で見た顔が写っている。由祈乃は若く、制服を着ているのもあるから高校時代なのだろう。写真の脇には綺麗な字で、日付と説明書きが添えられている。
『2020.5.30 鹿波と文化祭』
日付は十年以上前。鹿波、というのがこの人の名前だろうと、祐弥は当たりをつける。
「随分、仲が良いんですね」
捲りながら、永が言った。
写真はほとんどがツーショットだった。文化祭から始まって、夏の旅行先、秋の教室、冬の卒業式、春の入学式――、そのほとんどが二人きり。背の高い由祈乃が穏やかに笑って、その横で少し小柄な、鹿波というらしい女の子が明るく笑っている。時々、黒縁の眼鏡をかけた、由祈乃よりも背の高い男が困った顔で一緒に写っていたりするけれど、そのくらい。添えてある文字を見れば、その男は隹親という名前をしている。
「あんまり関係ないのかもな」
言って、祐弥はそれをぱらぱらと、流し見るようにして軽く捲っていく。無関係のアルバムを隅々まで見るのは、さすがに心苦しい。怪しいところがないかだけチェックできたらそれでいいだろうと、その程度の気持ちで。
最後のページで、手が止まった。
しばらく、祐弥は何も言わなかった。そして永も。
そこには、誰も写っていない冬の海だけが貼ってあって、傍にはこう書いてある。
『2023.12.4 さようなら 一生忘れない』
浜辺には、花束が置いてある。
縫い留められたように、動けなくなっていた。
「……亡くなられたんでしょうか」
永が言った。
「不謹慎かもしれませんが、その、こういう言い方を、何度か見たことがあります。死別した親しい人に、送る言葉のように……」
見えます、という声は自信なさげに小さく霞んだけれど、
「……うん、だよな」
祐弥も、それに同意した。
この写真と、字から、何か切実なものを感じ取った。見当違いなのかもしれないけれど、祐弥の目には、そう映った。
見ちゃいけなかったのかもしれない。そう思ったけれど、それを口に出すことは、永の罪悪感を助長するだけだと思い、声にしなかった。自分の心の中でだけ、しっかりと罪悪感を覚えて、それで一旦はしまい込む。
残りは二冊。外観から区別はつかない。利き手の側にあった方を取って、開く。
「これ……」
「私、ですね……」
そこには、永の写真が載っていた。隠し撮ったりしているものではない。普通に、由祈乃と一緒に写った、いくつかの写真が。
少なからず、祐弥には動揺があった。やっぱり、何かここに、自分の知らない繋がりが合った。永本人すら忘れている繋がりがあった。そのことに対して驚きと、やっぱり、という感情のふたつが浮かび上がってくる。
けれど、一方で永の反応は、
「あんま、驚かないんだな」
「はい……」
落ち着いたまま頷いて、
「自分でも不思議なんですが、どこかで予想していたような気もします。記憶をなくしたと思っていたんですが、どこかで残っていたのかも……。これは私の家ですね」
一ページ目の写真を見ながら、永が言う。
写り込んだ永は今よりもずっと幼い。添え書きされた日付は五年前。これには由祈乃は一緒に写っていない。メモには『2025.7.23 初対面 話しかけてもほとんど反応がない』とだけ書かれている。
永がページを捲っていく。
『2025.8.9 一日のうちに数分だけ以前の記憶が戻る ショック症状?』
『2025.10.30 日に日に会話できる時間が増えてきた』
『2025.12.24 大規模な情報が植え付けられている? それに押し潰されている? エフェクトの影響かもしれない』
『2026.1.5 暗いところに投げ込まれるような感覚がある』
そこで、永は手を止めて、
「これ……、私が降霊会で意識を失うときの感覚です。喋ったのかな……」
「てか、なんで由祈乃さんが永と会ってんだろ。別に何の繋がりもないんだよな?」
「はい。でも、もしかしてその、由祈乃さんがカウンセラーだとか、そういうことであれば、両親が呼んだのかも……」
祐弥は腕を組む。聞いたことがなかったから。由祈乃が何の資格を持っているのか、なんて。市役所で働いているということだって、つい最近ようやく確信を持つに至ったくらいなのだ。
わかんないな、と正直に言うと、永はそうですか、と言って続きを捲り始める。
少しずつ、写真の中の永の表情は柔らかくなっている。
『2026.2.7 おそらく彼女は繋がっている どうすればいいかわからない 私とは違う』
『2026.3.13 着実にリハビリの成果は出ている それでも人並みの生活に戻るには長い歳月を要するだろう』
『2026.3.26 鹿波ならどうするだろう そんなことばかり考えている 私が決めなければならない』
『2026.3.31 悲しみに向き合い続けるだけが人生じゃない』
『2026.4.3 決めた 後悔なら私がする』
祐弥さん、と永が言った。
うん、と祐弥は頷く。
間違いないと思った。何かしら、由祈乃は永に関わりを持っている。それがどういうものかまではわからないけれど、永の記憶の、おそらく重要なのだろうその場所に、由祈乃はいる。
「これだけじゃわかんないし、こっちも見てみるか」
言って、祐弥は三冊目を手に取る。
一ページ目。添え書きを見なければそれが誰だかはわからなかった。
十二年前の日付。さっき見たのとは違う制服を着た、もっと幼い由祈乃が、小さな子どもを抱えている。髪を引っ張られて、困ったような顔をしながら。
『2018.11.4 祐弥ちゃん4さい やんちゃ この年で叔母さんになってしまった……』
ほんの小さい頃に、由祈乃と会っていたということは知っている。けれど、実際にその場面を不思議な気持ちになった。ほとんど覚えていないのに、記録としては残っている。
次のページ。
『2019.2.8 お兄ちゃんの話では自然発火を起こすらしい 今のところ私の前では見せたことがない』
満面の笑顔で、写真いっぱいにピースサインをしている、祐弥らしき子どもの写真。何歳かは、パッと見ただけではわからないけれど、日付から見ればまた四歳ごろ。気恥ずかしくて、次のページに送ろうとして、文字列に気を留める。
自然発火。
「って、なんだろ……。永、これって、……永?」
「――え、あ、はい」
「大丈夫か? なんか今、ぼーっとしてたけど」
「いえ、はい。大丈夫です」
そうか?と言いつつ、祐弥はついさっき永が見ていた方向に目線をやる。窓があるだけ。他には何もなく、その向こうにも曇り空しかない。何の変哲もない、冬の風景。少し寒さを思い出して、首を竦めた。
次のページ。
『2020.9.8 祐弥ちゃんはセンスがいい 聞き分けもいい 少し教えただけで上手く制御できるようになった 危なっかしい能力だけどこのまま何事もなければいい』
写真自体は何の変哲もない。ソファに座っている由祈乃の膝の上に乗った祐弥が、ピースサインを返しているだけ。
次のページ。
「は……?」
指先まで、緊張が走った。
あるはずのない写真だと、そう思った。
二枚の写真が貼られている。一枚は、両親と一緒に中学校の入学式の看板と並んで撮っているもの。
もう一枚は、その看板の横に、由祈乃と並んでいる写真。
写真の中の祐弥は、にっ、と笑っていて、穏やかな顔をした由祈乃の腕を取って、強引に組んでいる。
『2027.4.8 中学入学 時間が流れるのは早い あれから3年が経った』
だって、記憶にないのだ。
中学入学。三年前。だというのに、まるで由祈乃に会った記憶がない。こんな風に懐いていた記憶もない。
「なんだよ、これ。あたし、」
もしかして、忘れていることは、自分で気付いているよりもずっと――、
ばたん、と。
その思考は中断される。音がした。咄嗟にその方向を見た。
永が倒れている。
「は――、おい、どうしたんだよ」
横倒れになった永の肩を揺する。細い肩。自分の手と、永の肩の骨の間に挟まる肉の薄さが、手の内の力を弱めさせる。
「永――? おい、永!」
返事はなかった。




