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第一話 深夜、川に行きたがる少女

全15話です。今日から15日間連続で投稿します。よろしくお願いします。

 森川水輝は、閉まりかけた駅のシャッターを背に、タクシー乗り場まで走った。


時計の針は深夜〇時をまわっている。


夏の終わりとはいえ、夜気にはまだ湿気が残っている。


リュックの中で、何本もの水がぶつかり、チャプチャプと音を立てる。


乗り場には、少女が一人だけ並んでいた。


タクシー待ちの列がないことにほっとし、その後ろに並ぶ。


リュックには、採水地も硬度も異なる水が七本入っている。水輝は毎朝、天気、食事、体調に合わせて持ち歩く水を選んでいた。


 息を整えながら、一本取り出す。


 キャップを開けて一口飲んだ、そのときだった。


 前にいた少女の身体が、糸の切れた人形のようにぐらりと揺れた。


「危ない!」


 水輝は慌てて両腕を伸ばした。少女は水輝の胸に背中から倒れ込み、そのまま力を失った。


 近くのベンチへ座らせる。


 少女の顔は、街灯の下でも分かるほど青白かった。長い髪が頬に張りつき、華奢な肩がかすかに震えている。


「大丈夫ですか。水、飲みますか?」


 しばらくして、少女がゆっくり顔を上げた。


 まだあどけなさの残る顔に、大きな瞳だけが妙に強く光っていた。


 少女は黙ってうなずいた。


 水輝は、未開封のボトルを取り出す。


「新品です。もちろん睡眠薬なども入っていません。キャップをひねるとカチッと音がします。硬度は低めなので、胃にも負担が少ないと思います。ただ、一気に飲むと――」


 少女は、説明の途中でキャップをあけ、少し水を口に含む。


「ありがとうございます」


 声は小さかったが、意識ははっきりしているようだった。


 十分ほどすると、車のヘッドライトが見え、タクシーが一台滑り込んできた。後部座席のドアが開く。


「どうぞ。先に並んでいましたよね」


 水輝が促すと、少女は首を振った。


「財布を……どこかで落としたみたいです。私は乗れません」


 水輝が車内をのぞくと、運転手は真夏には不釣り合いな真っ赤なマフラーを巻いていた。


「あのお嬢さんが先じゃないの?」


「財布をなくしたそうです」


「家に着いてから払えばいい。乗せてやるよ」


 運転手は、なぜか、少女を強引に乗せたがっていた。


「ほら、お嬢さん。早く乗って」


 少女は、ベンチに座ったまた首を横に振る。


 水輝は、開いたドアから一歩下がった。


「すみません。僕たちは、乗るのをやめます」


 運転手は舌打ちし、勢いよくドアを閉めた。タクシーは急発進し、赤いテールランプだけを残して夜の闇へ消えた。


 水輝は少女の隣に戻った。


「どこへ行くつもりだったんですか?」


「鳴門川です」


「もうすぐ深夜一時ですよ。川まで歩いたら一時間はかかります。

僕の家は、鳴門川の近くなので、もしよければ、次のタクシーに相乗りしていただいて、川で降りていただければと思います。もちろん代金は不要です」


「歩きたいのです」


 水輝は一瞬、言葉に詰まった。


 『何か事情があるのだろう。いずれにしても、こんな時間に一人で歩かせるのは危ないかもしれない』


少し迷ったが、ナンパだと勘違いされないように、慎重に言葉を選んだ。


「何かお手伝いできることがあったら遠慮なく言ってください」


 少女は迷った末、水輝を見上げた。


「それなら……一緒に来てくれませんか」


 『え!?深夜、素性もわからない男と川に行きたいというのか。もしかして、俺、気に入られたのか!?


いや、そんなはずはない。


残念だが、女性とは無縁の二十七年間の人生を送ってきた俺に限って』


少女の指先をよく見ると、震えていた。


水輝はあれ、これ考えるのはやめた。


「分かりました。僕でよければ」


 十五分ほど休むと、少女は立ち上がれるまでに回復した。


 二人は、まばらな街灯の光だけを頼りに、人気のない住宅街を川へ向かって歩き始めた。靴音だけが、静まり返った夜道に小さく響いた。


 少女は水輝の少し後ろを歩いていた。


 沈黙が苦手な水輝は、先ほど渡した水について話し続けた。


 硬度。カルシウムとマグネシウムの比率。料理との相性。空腹時に一気に飲まない方がよい理由。


 少女はほとんど返事をしなかった。それでも、水輝は沈黙に耐えられず、水の話を続けた。


 三十分ほど歩いたころ、水輝の左足に鋭い痛みが走った。


 新品の靴で、かかとの皮がむけていた。


「足、痛いんですか?」


 少女が背後から、声をかけてきた。


「ちょっと靴擦れで。今日初めて履いた靴なんです」


 少女は首に巻いていた水色のスカーフを外した。


「座ってください」


 道路脇の石段に水輝を座らせると、スカーフを細く折り、かかとへ巻いた。


「汚れますよ」


「大丈夫です」


 街灯の下で、少女の指が結び目を作る。


 水輝は少し恥ずかしかったが、少女の優しさに触れて心がぽっと温かくなった。


 やがて、鳴門川へ着いた。


 夜の川面は黒く、対岸の明かりだけが細長く揺れていた。風が吹くたび、湿った草と泥の匂いが流れてくる。


 久しぶりに若い子と一緒にいたせいか、川に着くと、大学生のころ、仲間と夜中まで遊んだことを思い出して、テンションが上がった。水輝は靴擦れの痛みも忘れ、川辺へ駆け寄った。


「夜は昼と水温が違うんです。雨が降っていないのに、少し水量が多い。上流で――」


 リュックから採水容器を取り出し、水温と硬度を測る。スマートグラスに音声で記録を残す。


 ほんの数分のつもりだった。


 水輝が振り返ったとき、少女はいなかった。


「……え?」


 草むらにも、堤防にも、人影はない。


「どこですか?」


 返事はなかった。


 水輝は川沿いを探したが、少女は暗闇の中へ溶けるように消えた。


 残ったのは、かかとに巻かれた水色のスカーフだけだった。


『もしかして、夢?それとも、霊とか宇宙人とか、その手の類だったのか。

そういえば、背後を歩いている時に、存在感が薄かった気がした。

いやいや、そんなの実在するはずない。俺は信じないぞ。

それにしても着いた途端、何も言わずに一人で勝手に消えるとは。一体、なんのために俺を誘ったんだろう』


水輝は釈然としない想いのまま、帰宅した。


全15話です。今日から15日間連続で投稿します。よろしくお願いします。

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