第二十六話 秋へ③
信子さんとお子さんたちが帰り、賑やかだった邸に静寂が戻った後。
ひどく気が抜けてしまい、照明をつけるのも忘れて、ぼんやりとベッドの端に腰掛けたまま、窓の外に広がる夕闇を眺めていた。
空の色が、茜から紫へ、紫から藍へ——ゆっくり沈んでいく。
それだけを見ていれば、胸の中のざわめきも一緒に沈む気がした。
「どうした、すみれ。こんな暗がりで、電気もつけずに」
「……っ、暁臣様……」
いつの間にかお部屋へ入ってこられた暁臣様に、まったく気づかなかった。
驚いて振り向くと、軍服ではなく、くつろいだ装いのまま——
それでも背筋の伸びた影が、部屋の暗さに溶けるように立っている。
「申し訳ありません……お出迎えもできずに」
「気にするな。今日は信子殿が家族を連れて来たと聞いていたが……少し疲れが出たか?子どもの相手は骨が折れるからな」
「いいえ、そんな。……とても、楽しい時間を過ごすことができました」
「ならよかった。すみれが笑って過ごせたのなら、それが一番だ」
責めるどころか、暁臣様は私の隣に静かに腰を下ろし、指先でそっと頬を撫でてくれた。
その温度に触れただけで、胸の奥に溜まっていた恐怖が、春の雪解けみたいにほどけていく。
……怖かったのだ。笑っている間も、どこかでずっと。
宮家の嫡男であり、高貴なお血筋の暁臣様。
いずれは家を継ぎ、正当な跡継ぎを求められる日が必ず来る。
さきほど信子さんの、幸福そのものみたいな親子の姿を見て感じた——あの得体の知れない感情。
胸が熱くなるのに、同時に冷えていく、あれはなんだったのだろう。
思い出したくないのに、未来を思い描いた途端、過去の影が伸びてきて、私の足首を掴む。
それでも、暁臣様の指先が頬に触れている間だけは、私はちゃんと呼吸ができた。
母の愛を知らず、『無華』と言う欠陥を抱えた私に、その重責が果たせるのか。
できるはずがない、と言ってしまえば楽なのに。
けれど——この『無華』の証である異質な瞳を、初めて『美しい』と仰ってくれたあの時から、私の心はもう引き返せなくなっていたのかもしれない。
「暁臣様……。私、暁臣様が好きなんです。……ずっと、ずっとお側にいたいんです」
「……すみれ?」
声に出した瞬間、自分でも驚くほど息が震えた。
最初は、蔵の中から救い出していただいたご恩をお返ししたいと言う、義務感のようなものだった。
けれどそれはいつしか形を変え、誰に求められたからでも、望まれたからでもない——私自身の願いになっていた。
逃げたいのに、離れたくない。
怖いのに、手を伸ばしたい。
そんな矛盾ごと、あなたに向かってしまう。
「でも……どうしたらいいのか、わからないんです。暁臣様の隣に相応しい女性になるには、どうすればいいのか……教えて頂きたいんです」
暁臣様のことを想うだけで、呼吸が苦しくなったり、心臓が跳ねるほど激しく鼓動を速めたりする。
これが恋でないとしたら、この世に恋なんて言葉は存在しない。
恋であってほしい。
私の人生で最初で最後の恋は、暁臣様であってほしい。
自覚してしまったあの日から、どう伝えればいいのか分からず、何度も言葉を飲み込んできた。
けれど溢れ出しそうなこの想いは、日に日に輪郭をはっきりとさせ、私の内側で大きく膨らんでいる。
もう、嘘がつけない。黙っていたら、私の方が壊れてしまう。
「すみれ……本当にいいのか?そんなことを言って。……俺は、お前が夢見ているほど、優しい男ではないかもしれないんだぞ」
優しくない?
いつだって暁臣様は優しいのに。
そんなこと、一度だって思ったことはない。
「……暁臣様になら、何をされても……私は、大丈夫です」
口にしてから気づく。
これは、私の覚悟の言葉でもあり、この方の理性を揺らす言葉でもあるのだと。
側にいたいと願ってしまった。
次は、彼の心がほしいと望んでしまった。
そして今、この溢れる想いのすべてを受け止めてほしいと、口に出してしまっている。
「すみれ……それは、煽り過ぎだ。そんな顔をされたら、婚儀の日まで待てずに、今すぐ俺のものにしてしまいたくなる」
私は、とっくにあなたのものです。
そう答えても構わないのに、声が喉で絡まって出てこない。
代わりに、暁臣様の腕が私の背に回り、ふわりとベッドへ押し込まれる感触がした。
乱暴ではない。
拒めないほど、優しい。
けれど——その優しさの奥に、熱が潜んでいる。
『無華』で、誰からも価値がないと言われ、存在をないもののように扱われてきた私を、
暁臣様は一人の人間として初めて扱ってくれた。
だから私は、きっと——あの蔵から救い出された瞬間に決めていたのだ。
この命も、身体も、心も。
他の誰でもない、自分自身のためですらなく、ただ暁臣様のために捧げよう、と。
「すみれ……。お前は、ただ俺の横で笑ってくれていれば、それでいいんだ」
「そんな……あ、んっ……」
四度目の口づけは、今までのどれとも違っていた。
暁臣様の情熱が、そのまま流れ込んでくるような——熱く、深く、逃げ場のない口づけ。
胸の奥の氷を溶かし、代わりに別の熱を満たしていく。
怖いのに、もっと欲しくなる。
「はぁ……ぁ、ぁきおみ……さま……っ」
「……っ。今は……ここまでだ。これ以上は、秋まで大切にとっておこう」
額を寄せ、荒い息のまま告げられる言葉。
その声に滲む自制の苦しさに、ほんの少しの安堵と——自分でも驚くほどの寂しさが残る。
欲張ってはいけないのに、胸の奥が名残を掴もうとしてしまう。
「秋……ですか?」
「ああ。俺たちの、婚儀の日取りが決まった」
秋。
木々が鮮やかな色彩に染まり、世界が黄金色に輝く季節。
その季節に、私は名実ともに彼の妻になる。
「秋が楽しみだ。……すみれを、本当の意味で俺の家族に迎えられる日が」
「はい……。私も、楽しみです。暁臣様」
私の狭くて暗い世界を壊し、数えきれないほどの『初めて』をくれた方。
これから経験する出来事は、今までの比ではないほど鮮烈で、眩しいものになるのだろう。
それはどんな風景を私に見せてくれ、どんな感情を教えてくれるのだろうか。
まだ分からないことだらけの世界だけれど、暁臣様と言う色に染められていくのなら、何も怖くない。
灰色だった私の世界は、彼の手によって、今、鮮やかに色づき始めている。
私のすべてを、暁臣様の色で染め上げてほしい。
そんな幸福な願いを抱いたまま、私は再び近づいてきた彼の愛しさと、懐かしい香りに身を委ねた。
永遠のような愛を誓い、この先の暁臣様との未来に——静かに、想いを馳せた。
最後までお付き合いありがとうございました。
活動報告でも告知させていただきましたが、9月28日にスターツ出版様より「無華の花嫁」を発売させていただけることになりました。
書籍版ではWeb版から大幅に改稿し、園遊会や東宮との展開なども大きく加筆しております。
Web版とは違う流れもありますので、すでに読んでくださった方にも楽しんでいただける内容になっているかと思います。
ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




