月白の娘・11【外伝・ルドガー視点】
少し残酷または性的な表現があります。ご注意ください。
再開した花の女王のパレードで、俺は息子セドリックとともに黒馬に乗り、女王の山車の護衛についた。
腕の中に自分そっくりな黒髪赤眼の子どもを抱えていると、今まで感じたことのない不思議な感覚にとらわれた。
この子は馬に乗るのは初めてだというが、馬をまったく怖がっていない。
馬の方でもこの子に親しみを感じているようだった。
小さな背中は、俺の言いつけを素直に聞いて、手綱には触れずに身体のバランスを取ろうと奮闘している。
俺は馬上で揺れる子どもの身体が安定するよう、背後から支えてやった。
(あの赤子が、ずいぶん大きくなったものだ)
この子どもが生まれた時に見た、俺の指先ほどしかなかった小さな拳が、今では馬の鞍についた取っ手をしっかりとつかんでいる。
「子どもは時のかたまりよ」
ウィレムのあの言葉の意味が今、俺なりに理解できた気がした。
もの言わぬ書物の棚以上に、子どもとは時の流れが具現化された存在だ。
可視化された時そのものと言ってもいい。
子どもの成長が示している時間の分、戻らぬ過去が積み上げられている。
その間にお前は何をし、何を成しとげたのかと、この黒髪の子どもは俺に問いかけているようだった。
「あの……ち、父上」
そんな俺の感慨をよそに、息子がおずおずと呼びかけてきた。
「……なんだ」
「あの、もう少し山車の方に……花の女王のそばに行きたいです。だめですか?」
肩越しにこちらをうかがいながら問うてくる息子に、俺は無言のまま馬の歩く速度をゆるめた。
後方にいた山車が俺たちの乗った黒馬に追いついて横に並ぶと、息子は目を輝かせて、山車の最上部にいる母を仰ぎ見た。
「母さ…母上!」
エリナは、俺が馬を山車の横につけた時からこちらを見ていたが、息子の呼びかけに一瞬驚いたような表情を見せた。
そしてすぐにやわらかく微笑んで、山車の手すりから軽く身を乗り出して息子に小さく手を振った。
その微笑みを目にした瞬間、俺は息が止まった。
花の女王の衣装をまとったエリナと、幼いころから夢に見てきたあの月白の娘が、俺の中で完全に重なって見えた。
生と死の境界線で綱渡りのように命を永らえていた俺を、かろうじてこちら側に引き止めてくれていた清らかな存在。
夢でしか会えなかった娘の笑顔に、俺は視線を奪われたまま硬直した。
鞍の前に乗せているセドリックは興奮気味で、母親に向かって満面の笑みでぶんぶんと勢いよく手を振ってみせた。
そのせいでバランスを崩した息子が馬の背から滑り落ちそうになったところで俺ははっと我に返り、急いで子どもの身体に手をまわしてしっかりと支えてやった。
ちらりと山車の上方へ目をやると、エリナはどうやら一部始終を見ていたようで、小さく息をついて安堵の表情を浮かべていた。
その後すぐに、パレードは運河にさしかかった。
狭い橋を渡るため、俺は山車の横から前方に馬を進めて、縦に一列になって歩き出した。
橋を渡った後も、パレードの一行が終着点である領主館のエントランスに到着するまで、俺は粛々とそのまま駒を進めた。
背後の山車を振り返ることも、そこにいる妻に視線を向けることもなかった。
だが胸の中には、つい先程目にしたエリナの愛情深い微笑みがずっと浮かんでいた。
あの微笑みが、息子ではなく、この俺に向けられた笑みだったらどんなにいいだろう。
そんならちもない願望が、何度打ち消しても湧き上がってきてどうしようもなかった。
なにしろ、人間界から隔離されて育った幼年時代、質量を持たない薄い影しか感じられない世界で、あの月白の娘だけが俺の支えだったのだから。
黒の森の館を出て王都に戻ってからも、他人との関わり方がわからずしょっちゅう軋轢を生んでいた俺は、夢の中の月白の娘にどれほど癒され、なぐさめられていたかわからない。
ネリーと竜の鎖をつないでからは魂の番の夢を見なくなっていたが、そのネリーですら、完全に月白の娘の代わりにはなれなかった。
人面鳥を追ってアトラスを駆る俺に、震えながらしがみついていたエリナの、細い身体の感触を思い起こす。
あの時は、魔物を倒しに行くのに不本意ながらエリナも同行させなければならない状況だったが、俺は彼女を絶対に護ると固く心に決めていた。
自分は、結婚初夜の花嫁に言い知れない苦痛を与えてしまった夫なのだ。
彼女に近づくつもりはないが、俺自身だけでなく他の誰にも、妻を傷つけさせてはならないと胸に刻んでいる。
天馬アトラスに乗る以上、人面鳥ごときにおくれを取ることなどないが、空を駆ける馬の背に乗せられ、俺の腕の中で身を硬くしているエリナに、一瞬たりとも怖い思いはさせたくなかった。
人面鳥を退治して地上に降りた時、俺はエリナをこの手の中から離したくないと強く思った。
ふだんは何にも執着がなく感情の薄い俺が、こんな欲求を覚えたのは初めてのことだった。
だがそれが許されるはずもない。
俺は全力で自分の気持ちを抑え込み、身を切られるような思いで妻から離れた。
エリナに近づきすぎてはいけない。
ネリーに捧げた真実の愛を裏切ってはならないのだから。
俺は、エリナと距離を置こうとして激しい叱責の言葉を投げつけ、突き放した。
彼女にこういう態度を取ったのは今回が初めてではない。
今までずっと、エリナと向き合うたびにそうしてきたと思う。
結婚前の初めての顔合わせでは、彼女に対して何の感情も動かなかったことが、今となっては不思議なくらいだ。
ウィロー砦の音楽会会場で、思いもよらずエリナの姿を目にしたときは、頭に血が上るのが自分でもわかった。
彼女が俺から離れたところにいるとしても、その所在は常に把握しておきたかった。
公爵家の本邸や黒の森の館にいるのなら安心だが、休戦協定が結ばれたとはいえ、カルセミアとの最前線にあるウィロー砦に滞在するのは、少なからず危険だ。
一般人であるエリナが砦を訪問するなどとはまったく考えていなかった俺は、想定外の事態に動揺していた。
ヨシュアから護衛を命じられたのか、彼女を守るように隣に寄り添うティモシー・エイレルの姿を目にして、俺は苛立ちを覚えますます感情が荒ぶった。
一刻も早くエリナを俺の目に触れないところへやり、この危険な軍事要塞である砦から脱出させようという焦りで、俺は周囲の目もはばからず彼女を詰問した。
俺の糾弾を受けたエリナは蒼白な顔になり、実兄であるアルマン・リズリーのもとへよろよろと呼び寄せられていった。
俺は今日もあの時同様に、アトラスが去った後エリナに対して辛らつな言葉を浴びせた。
だが今回、エリナは黙って引き下がりはせず、俺を恐れながらもたどたどしく懸命に自分の心情を言葉に紡ごうとしていた。
砦の音楽会以降、エリナにどんな心境の変化があったのかはわからないが、彼女のその姿勢は敬意を払うべきものだと感じて、俺は彼女の言葉に最後まで黙って耳を傾けた。
とは言っても最終的には、自分の命を息子のために投げうつような真似をしたエリナを責めることになってしまったが。
パレードの終着点である領主館のエントランスに到着した時、エリナは山車の上から俺に向けて優雅な淑女の礼をしてみせた。
その礼に込められた敬意が表面上のものではないことは、彼女の表情やしぐさから十分に伝わってきた。
感情が薄く他人への共感力が欠如している俺が、言葉で明示されない他者の感情を体感として感じ取れたのは初めてだった。
いや、初めてではなかったかもしれない。
振り返ってみれば、エリナがザジの変身した赤豹に乗ってノナのもとへ行った時、その原因となったあの領主館での会話を通じて彼女が俺に向けた怒りに対して、俺は、しごくもっともだと共感できていた。
他人と感情を共有できる感覚は、感情の乏しい俺にとっては滅多にないことだ。
さして親しくもない他人はもとより、長年一緒に暮らしてきたネリーについてでさえ、その感情の動きが俺には読めないことが多かった。
俺はネリーに真実の愛を捧げているものの、ネリーは俺を愛しているわけではないからなのだと、よくわかっている。
それでも別段不都合はない。
ネリーが俺を拒まずに受け入れてくれるのなら、彼女が心地よく過ごしてさえいれば、俺はそれでよかった。
王立騎士団の団長としての収入で生活の心配はない上、家の中のことはすべてネリーに任せているのだから、彼女にも不満はないだろう。
時にはネリーの機嫌が悪いこともあったが、理由を追及したりせずそのまま静観していれば、いつの間にかその機嫌も直っている。
相手の感情がわからなくても、毎日の生活はまわっていく。
ネリーとの間には相談も共感も必要なかった。
しかし、唯一の相手としているネリーの感情さえわからない俺が、なぜあの時エリナの怒りには共感できたのだろう。
彼女の怒りが息子に対する愛情から発していて、まっすぐで嘘がなかったからだろうか。
パレードの後のあの淑女の礼に心が動いたのも、そこに込められた彼女の感謝の気持ちに嘘いつわりがなかったからか。
その疑問に答えは見つからなかったが、俺の心は不思議と穏やかだった。




