77 恐怖
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「怯えって、何ですか?」
頼りない俺の声に、どうもこうも、と藤吉先生は空になったペットボトルを手元で弄んでいる。
「きみは恐怖している、ってことだよ」
恐怖?
「山崎先輩に、ですか?」
「違うんじゃないかなぁ」
ポーンと藤吉先生の手からペットボトルから離れて宙に舞ったかと思うと、綺麗な軌道でまた藤吉先生の手元に落ちていく。
にんまりと笑ったのは、どういう意味の笑みだったか。
「きみは誰とやることになっても、同じことになるよ」
「同じことって、手足の震えが出る、ということですか」
違う違う、と藤吉先生は変わらずに笑っている。愉快げで、どこか嗜虐的な笑みである。
「手足が震えるかどうかは知らないけど、それより前にね、あの蹴りのことを言っているわけ」
「蹴り、ですか?」
「力が入っていない。そのことを私は話しているわけ。手足の震えのことは知らなかった」
俺が先走ったようだが、それは脇に置いておこう。
とりあえず何の話が始まったのか、やっと掴めてきた気がする。しかし理解には遠く及ばない。
問いかけることで、俺は答えを求めた。
答えを求めることもまた恐怖の表れのような気もしたが、それもまた今は脇へ置いておく。
「蹴りに力が入っていないって、そんなことはなかったと思います。あれは山崎先輩が強靭すぎたんじゃないですか?」
「まさか。あなたと潤ちゃんの身長はさほど変わりがない。体重だって全く違うってほどじゃない。きみがそれなりに本気で蹴りつけて、それを受け止めた潤ちゃんがよろめきもしない、なんてことがあると思う?」
「それは実際にそうなったんですから……、あったんじゃないですか?」
そう思いたければ、と応じる藤吉先生の顔から一瞬で笑みが消える。
真剣な顔で、まっすぐな視線が俺を射抜いてくる。
「そう思いたければ、思っていればいい。自分のことだからすぐにわかるでしょうし」
急に突き放されるようなことを言われて、俺は咄嗟に問いを向けていた。
それはどこか防御じみていた。
「あの、先生は俺が力を出せていないと思っているんですよね? 俺がいったい、何に怯えているっていうんですか? 何に恐怖を感じていると思いますか? 教えてください」
また藤吉先生の手からペットボトルが飛び、しかし今度は藤吉先生の手元には戻らなかった。
床に落ち、跳ねて転がっていく。
藤吉先生がそちらを見ながら言葉を発する。普段のような跳ねるような喋り方ではなく、落ち着いた口調だった。
「簡潔に言えば、きみは暴力を行使することに怯えている。相手を打ちのめすことに、恐怖しているんだよ。自分でも気づかないうちに、無意識にね」
「相手を、打ちのめすことに?」
理解しようとしているはずなのに、質問への答えを聞けば聞くほどますます話がわからなくなった。
山崎先輩と俺では経験値が違いすぎるし、能力にも差がある。
だから、蹴りの一発くらい余裕で受け止められてもおかしいところはどこにもない。
それなのに、藤吉先生はそれを重大なことと見ているようだ。
荒唐無稽というか、変なこじつけにしか思えない。
ただ相手は、普通の人間ではない。
魔法技専の現役の教官だ。
自身が格闘技の使い手ではなく、実戦の場に立たないとしても、十分な経験を積み、無数の場面を見てきた人物である。
その藤吉先生が言うことを、聞き流していいものだろうか。
俺が思考を巡らせているうちに、藤吉先生は席を立って床に落ちていたペットボトルを拾い上げる。俺が意味もなくその様子を見ながら、まだ思考に没頭していた。
だから、唐突に藤吉先生の手元でペットボトルが跳ねて、俺の顔面めがけて飛んできたのは、見えることには見えていたが、予想外だった。
咄嗟にそれを掴み止めて無意識に止めていた呼吸を解く。
深く息を吐き、ペットボトルをテーブルに置いて文句でも言ってやろうとした俺に、何故か藤吉先生は人差し指を向けていた。
嬉しそうな顔で、声もどこか音が高くなっている。
「さすがだね。今の反応速度は普通の人間よりいくらか早いように見える。そういうところにもきみの行使者候補生としての実力が垣間見える。まだまったくダメにはなっていないとうことでもある」
「まったくダメになるとどうなるんですか?」
ペットボトルを飛ばしたのが意図的なものだとわかったことと、からかわれている気がしてきて、さすがに俺もムッとしていた。
そんな俺の不機嫌に、藤吉先生は頓着しなかった。
「まったくダメになれば魔法を行使できなくなる。行使者としてはおしまいだ」
「魔法を行使できなくなる?」
「恐怖はそれくらい重大なものということだよ。精神疾患に近いかな。、魔法を行使するということは精神状態、意識の状態に大きく左右される」
急に話が曖昧なものになったが、真剣に耳を傾ける。今、無駄な話をするような人ではない。
「集中力とはまるで違う次元で、魔法を使おう、魔法を使える、と信じることが求められる。それもひどく自然にね。魔法使い、つまり行使者の素質とは、そういう無意識化におけるある種の魔法に対する肯定を持てるかどうか、ということになるのかな」
聞いても、やっぱり荒唐無稽な話には違いない。
行使者候補生に素質が求められることは知っているけれど、今のような話は聞いたことがない。
そもそも魔法の存在を信じるも信じないも、今の俺と同世代、十代の人間はメディアで魔法にかなり触れる機会がある。
魔法技専を志望しないような子どもでも、魔法は信じているだろう。
それとも、その魔法を信じるという意識にさえも、深度のようなものがあるのだろうか。
より強く、より具体的に信じられる、というような?
席に戻って、藤吉先生は椅子にもたれた。
「ま、自分で少し考えなさい。なんでもきみ、例の事故での負傷の影響で、実技の試験を一つ、まだ残しているんだって?」
話題が急展開して具体的になったので、俺の意識も夢から現実へ戻ったようだった。
言われたように、もう試験も終わり、レポートも全部終わったが、実技のテストが一つ残っているのである。どこで知ったのだろう?
「ええ、はい、実技が一つ残っています。明日の午前中に振り替えで試験があります」
「何があっても、落ち込まないように。頑張って」
ガッツポーズをされたけれど、正直、困る。
何があってもという言い方は、明らかに何かが起こるというような予見の存在が見え隠れする。
何があるというのだろう?
「ああ、もう一個、助言があるから、最後に聞いておいて」
また藤吉先生が真面目な顔になったので、俺は反射的に居住まいを正した。
「潤ちゃんにも怯えがある。だから潤ちゃんを参考にするといい。あと、きみ、魔力波動の制御をこの前、確認したでしょ? 石森ちゃんと幅沢ちゃんと一緒に。その時のことを幸坂くんにも話してみなさい。それくらいかな、私から言えることは」
どうとも答えることができなかった。
どこからどこまでが見通されているのか、把握されているのか、それを考えると不気味だ。
藤吉先生が、底知れない人物に思えてきた。
「じゃあね。ほら、時は金なりだよ」
そんな言葉に背中を押されて、俺は席を立って「失礼します」と声を残して部屋を出た。
廊下に出てみると急に周囲が薄暗くなり、ジメッとしているように思えた。その不快感を置き去りにするように、俺は足早に研究棟を出た。
今度、どうするか考えて、俺はとりあえず実習棟に向った。
すでに試験期間も終わりつつあり、実習棟にも人が多いようだった。もちろん、俺に挨拶する生徒はいない。
第十六グループの実習室に入ると、幸坂先輩だけがいていつも通りに製図台に向かっていた。
微笑みが俺に向けられる。
藤吉先生と一対一で話した後だと、変に安堵してしまう。
「おはようございます」
「おはよう、ハチ。あれ? 顔色が悪いけど、どうかした?」
いえ、などと答えつつ、俺はソファに腰を下ろした。
「あの、先輩」
うん? と幸坂先輩がこちらに向き直る。ちょっと俺の声が深刻になってしまったようで、先輩の表情が少し変わる。
「何かあった?」
「その、藤吉先生と話をして……」
どこまで話せるだろう。どう表現できるのか、うまく整理ができているか、自信がなかった。
結局、単刀直入に質問するしかなかった。
「山崎先輩に怯えがある、と藤吉先生から聞きました。どういう意味か、わかりますか?」
幸坂先輩はよくわからないようで、首を傾げた。
「どういう意味? 怯え? 藤吉先生がそう言ったの?」
「え、ええ。その、上手く言えないんですけど……」
「潤のことは潤に聞くのが手っ取り早いと思うよ。今日はこれから来ると思うけど」
「じゃあ、そうします。それと、これも先生に促されたんですけど」
俺は話題を変えて、つい先日の実験室での出来事を掻い摘んで幸坂先輩に話した。
俺自身ではいまいち、分かっていないのだけれど、俺の魔力波動の制御はかなり特殊らしい。
ただ、どう特殊なのかは理解できていない。他の行使者候補生がどうやって魔力波動を制御しているか、知る術はないのだから比較ができない。
授業では基礎的なところは習う。
それは本当に基礎で、例えば魔力波動の制御と言っても、心構えに近いように思える。
具体的に、こうしろああしろという話はなく、実践の中で行使者候補生は魔力波動の制御を学び、また管理者候補生の助言を受ける。
自分でも幸坂先輩に話していることが曖昧だったり、観念的になることが感じられたけれど、とにかく俺は説明を続けた。
あとは幸坂先輩の管理者としての理解力に頼るしかない。
結局、俺が話し終わるまで、幸坂先輩は何の質問もせず聞くことに徹してくれた。
そして俺が話し終わると、何かを考える顔になり、そして携帯端末を取り出した。誰かを呼び出しながら、俺に確認してくる。
「今日はこれから何か、予定があるの?」
「今日は何もありません」
そこで携帯端末の通話相手が出たようで幸坂先輩はこちらに手でオーケーサインを出して、誰かと話し始めた。「僕だけど、ちょっと出てこられるかな」から始まり、「出来れば今すぐ」とか「君も興味を持つと思って」とか、誰かを誘っているようだ。少なくとも山崎先輩ではないだろう。
幸坂先輩は「損にはならないと思う。とにかく急いで」と言うと何度か頷いてから「じゃあ」と通話を切った。
それから俺を見て、自分の携帯端末を指差して示す。
「石森さんと幅沢さんも呼ぶよ。ちょっと説明したいし、話もしたい。いい?」
ええ、と頷く俺だが、事態がさっぱりわかっていなかった。
何を説明するのだろう? 話ってなんだ?
幸坂先輩がまず幅沢先輩に電話し、次に満月に電話している時に、いきなり実習室のドアのロックが解除され、開かれた。
入ってきた人物は、俺の知らない人だった。
誰だ?
男性で、制服を着ている。年齢はかなり上に見えた。五年生か?
その人物は足早にまず流し台のところにある電気ポッドへ向かい、慣れた様子でコーヒーを用意し始めた。
勝手にさせていいのか、幸坂先輩を視線で確認すると、先輩は携帯端末の向こうの満月にこう言った。
「こっちには今、悠理が来た。きみも早く来るといい」
俺は勢いよく、立ったままコーヒーをすすっている男性を振り返っていた。
彼が、悠理と呼ばれた。
第十六グループのメンバーで悠理という名前といえば、加賀原悠理しかいない。
この人が、加賀原先輩か。会うのは初めてだ。
加賀原先輩は電話を終えた幸坂先輩を見て、俺の方に顎をしゃくった。
「この少年が件の行使者候補生?」
「そう、八角八一郎くんだよ。ハチ、彼が加賀原悠理だ。二人とも初対面だろ?」
その言葉を受けて、加賀原先輩の方から歩み寄ってきて「よろしく」と手を差し出してきてくれたので、俺もソファから立ち上がって「よろしくお願いします」とその手を握り返した。
それにしても、どうして加賀原先輩がここへ来たのだろうか。
幸坂先輩が呼び出したのは間違いないが、加賀原先輩は今まで、何があっても顔を見せなかった。
それがこうして目の前にいるのは、何とも妙な気分だった。
何が起ころうしているのだろう。
(続く)




