73 制圧
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声をあげる暇もない。
山崎先輩の拳が俺の耳元を掠めて突き抜けていく。
残念ながら、俺が際どく避けたわけじゃない。
攻撃した山崎先輩が、わざと外したのだ。
それが最初の挨拶で、ここからは手加減無し、本気ってことか。
構えを取り直したところへ、容赦なく連打が来る。
ジャブなどではなく、かなり力のこもったストレート連発である。
受けるのは危険だ。ガードの上からでも潰されるかもしれない。
右へ左へ、体をさばいて避けていくが、かなりきわどい。
不意にストレートの拳が解けたかと思うと、俺の襟首に五指が伸びてくる。
打撃からの投げかと咄嗟にわかっていても、体の反応が追いつかない。
身を捻って抵抗したが、山崎先輩が俺の襟首を掴む方が早かった。
それでも諦めずに振りほどくべく、山崎先輩の腕へ自分の腕を絡めにいく。
あわよくば極めようと狙いだったが、また想定外の事態が起こる。
こちらから絡めた腕を物ともせず、ぐっとものすごい力で首元から引きずられ、たたらを踏んでしまう。絡めたはずの俺の腕さえ、一緒に引きずられている。
そうして俺の腕を狙った攻撃は不発に終わったどころか、逆に姿勢が崩れすぎてしまった。
ただ、転倒するのを避けるべく送った足を、そのままこちらから足技に接続する。
左足で相手の左足を内側から蹴りる、苦し紛れの変則的な技だったが、俺の足は正確に山崎先輩の左足首に直撃した。
したものの、山崎先輩の足はビクともしなかった。
ちょっとおかしくないか?
当然の疑問だ。
今も俺の襟首を掴んでいる握力、腕力は常識的ではない。俺の蹴りを受け付けない足も何か違うと思わせるほど力強い。
魔力回路は稼働させない約束だぞ?
現状は、山崎先輩が魔力回路を作動しているとしか思えない。体がどれだけ仕上がっていても、ここまでの圧倒的な膂力、身体機能は身に付かない。
そう思っているところへ、山崎先輩の空いている方の手がなんとか先輩に組みつこうとしていた俺の肘のあたりを掴んできていた。
人間のそれとも思えない力で、襟首と肘を同時に引きずられ、完全に姿勢が崩れる。
次の瞬間、山崎先輩が隙を見せたのか、攻めが緩んだ。
ここで挽回できる!
そう思った次には、先ほどとは逆向きの力が加わり、踏ん張ろうとしたところを鮮やかに足を払われた。
柔道でこういう技があったかもしれない、そう思考が何かに辿り着こうとしたが遅すぎる。
俺は受身も取れずに背中から畳に落ちていた。
呼吸が止まり、衝撃で全身が硬直する。
もちろん、これでスパーリングは終わりではない。
直立している山崎先輩が口元に嗜虐的な笑みを浮かべながら、足を持ち上げる。
踏みつけられる!
悲惨なことになるのが自明なので、息が詰まっているのを無視して跳ね起きて横へ逃れる。
蹴りの追撃があるが、なんとか回避できた。
立ち上がり、咳き込み、即座に呼吸を整える。
整えながら、呼吸を読まれないようにしないといけない。
酷い矛盾だ。
山崎先輩はもう構えをとっていなかった。構えるほどもない、ということか。
ついでに俺を一方的に攻め立てるのをやめているのは、俺から攻めてこいと暗に示している。
最悪なことに、勝機が少しも見出せない。
しかし、ただ突っ立っていることもできない。
俺は少しだけ踏み出すように足の位置を変え、間合いを加減する。
山崎先輩はなんというか、面倒臭くなったという感じで、余裕たっぷりの棒立ちだった。
油断はしていないだろう。それどころか、下手に手を出すと何倍かになって返ってくる予感がする。
一撃必殺で、なんとかやってみるか。
スパーリングだし、怪我をしないように工夫するだろうし。
一か八かの賭けを否定する意見も俺の中にはあったが、気力に物を言わせて黙らせる。
半ばやけくそで俺は山崎先輩の間合いに飛び込んだ。
まず牽制のジャブから入り、本命のストレートを繰り出して行く。
山崎先輩は、その場から一歩も動かずに対応した。
牽制のジャブもストレートも体を傾けるだけで避けた。
異常な反射速度と動きだが、知ったことか。
これで終わりにはできない。
山崎先輩の姿勢からして逃れられない位置に、上段蹴りを繰り出す。
力任せの渾身の蹴りを受ければ、姿勢も乱れる。
タイミングと姿勢からして回避は間に合わないから、受けるしかない。
そこから俺の勝機がやっと見える。
はずだ。
そのはずだった。
俺の渾身の蹴りを、山崎先輩は片腕で受け止めて見せた。
足を少しも送ったりはせず、ただ受け止めた。
これには蹴りを繰り出した俺の方が呆気にとられた。
そんなに弱い蹴りではない。
少なくとも、両手で防ぐくらいは必要だったはずだ。
それを片手で? 容易く受け止める?
現実とは思えなかった。
山崎先輩の膂力を想定しての蹴りだったのだ。
もし受けるのに失敗すれば相手が怪我をするかもしれないような一撃でもあった。
山崎先輩なら怪我をしないだろうという信頼を前提にしたのだが、さすがに想定外だった。
想定の真逆だ。
信じられない。
俺が混乱している一瞬で、山崎先輩は俺の足を絡め取りっている。
不自然な姿勢に耐えきれずに俺はよろめき、技でもなでもなく、ただ力任せに足を取られて畳に叩きつけられていた。
「それまでぇー」
山崎先輩が剣呑な雰囲気で俺を見下ろしているところへ、ソファに座ったままの藤吉先生から声がかかった。
変化は劇的で、山崎先輩は細く息を吐くと両手を振りながら俺からさっさと離れていった。
その雰囲気からは攻撃的なものは残らず消えている。
普段通りの、どこか気だるげな雰囲気が取って代わっていた。
俺も俺で安堵していた。
どれだけやっても似たような展開の連続になる。そういう未来しか見えなかったからだ。
実力が違う、ということだろうか。
短いスパーリングの中の大小さまざまな疑問を検証しつつ、俺も立ち上がろうとして異変に気付いた。
足が震えていて、上手く立てそうもない。
両手も震えていた。
これには自分が一番、驚いた。
山崎先輩との応酬で極端な恐怖を感じる場面はなかったから、俺は怯えているわけではないはずだ。
それでも手足が震えるのは、緊張が解けたせいだろうか。
「ハチ……?」
こちらに満月が声をかけてくるが、俺は何でもないというように手を振って誤魔化した。
それでもまだ、手足は震えて力がうまく入らない。
藤吉先生と山崎先輩がのんびりと話しているのが聞こえてくる。
「潤ちゃんにしては、ちゃんと相手をしてあげたね?」
「動きだけなら、まあまあ悪くないんじゃないですか? ただ、まだ非力ですよ。もっと食べて、もっとトレーニングをすれば変わると思いますけど。体づくりが不完全な気がします」
「みんな潤ちゃんと同じようには食べれるものじゃないよ」
「私の食事は仕方がなく食べてるんです。誰が好き好んで間食でピザを二枚食べるんですか?」
「え? 食べている時もその後も、潤ちゃんは幸福だと思っていたけど」
「これでもいろいろな悩みがあるんですよ」
そんなやり取りを遠くで聞いているうちにやっと手足の震えが収まり、立ち上がれることができた。
いったい、今のはなんだったのだろうか。
まだ俺を見ている満月に気づき、大丈夫だ、というように手を振ってやる。
「ハチ」
畳の上でそれとなく自分の手足の感触を確かめている俺に、藤吉先生の声がかかった。視線を向け直すと、藤吉先生は笑顔である。
どこか不吉な気配のする笑顔である。
「なんですか? 今、そっちへ行きます」
歩み寄ろうとした俺を、いいよ、いいよ、と藤吉先生は止めた。
「近いうちに私の研究室に遊びに来なさいね。いつでもいいから」
「研究室、ですか?」
藤吉先生の研究室というものを俺はよく知らない。どこにあるかも知らないし、その部屋がどんな場所か、想像もつかなかった。
「そこで、何があるんですか?」
「来ればわかるから、気楽に来ていいよ。特別な場所でもないし」
はあ、としか言えない俺だった。
俺の返事に満足したのか、藤吉先生はソファから跳ねて立ち上がった。
「ピザ、ごちそうさま。学生諸君は試験期間中くらい、真面目に勉強しなさいね」
口調のせいか、含蓄がないようなあるような、微妙な発言だった。
足取りも軽く藤吉先生は消えてしまい、後に残された五人の学生は実に微妙な空気に包まれた。
藤吉先生の残した言葉をそれぞれに解釈しようとしている空気だ。
「どうする? 食事でもして解散するかい?」
幸坂先輩がぎこちなく発言したけれど、誰からも返事がなかった。
不憫としか言えない幸坂先輩が「じゃ、ここで解散」と宣言したことにより、会合はすっぱりと終わった。
ソファに山崎先輩が寝そべり、幅沢先輩は「失礼します」と部屋を出て行った。私も、と満月も続く。幸坂先輩はピザの空き箱を片付け始めた。
俺はといえば、もう立ち上がることができたし、どこも身体に違和感はなかったけれど、まだ細かな動きで手足を確認していた。
もう違和感は少しもない。
さっきは何が俺の身に起こったのだろう?
さっぱりわからなかった。
(続く)




