58 退院
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医者の言葉に何とか頷いて肯定したり、頷かないことで否定しているうちに、眠気がやってきた。
気づくと眠っていて、意識がはっきりした時には前とはだいぶ状態が違った。
身体中の痛みはあるものの、耐え難くはない。意識そのものもかなりクリアだった。
時間を確認したかったけれど、すぐには時計が見えない。視界にないというか、部屋自体にもないのではないか。
窓にはカーテンが引かれていて、やや赤みがかった色に変わっている。気温からして朝ではなく夕方だろう。
そんなことを考えながらぼんやりしていると、何かの機器で俺の様子をチェックしていたんだろう、医者と看護師が一緒に病室に入ってきた。俺がいる病室は個室で、他に患者はいない。
医者は特に焦っているようでもなく、至極落ち着いていた。
「具合はどうですか、八角さん」
「だいぶいいです」
まだ舌をもつれさせながら答えた時、声だけは想像より大きくて驚いた。
極端に疲労しているような気がしているけれど、体自体はさほど傷んではいないらしい。
医者は俺の不自然な声量などなんでもないように軽く頷き、看護師から受け取ったよくわからない機械で俺の右腕を確認し始めた。
右腕は全体的に薄いギプスのようなもので固定されていて、俺の力では動かせない。右腕には力が入らないこともある。感覚すら曖昧だ。
それにしてもまたギプスか、と思う程度には俺の思考は回るようになっていた。
「腕の方の回復も、順調なようです」医者が落ち着き払った声で言う。「退院後もしばらくは病院に通ってもらいますが、まぁ、十日か二週間でしょう。今回は管理者候補生に任せるわけにはいかないで、こちらで診察を受けてください。いいですね?」
「はい、わかりました」
俺の返事に、医者が穏やかな笑みを浮かべる。
「明日は退院しても構いません。薬は退院時にお渡しします。変に思うかもしれませんが、しばらくは食事を意識的に多めに摂ることをお勧めします。あなたは魔力が枯渇している状態です。素朴な解決法ですが、とにかく食べることで魔力の回復は促進できます。現時点の検査結果ではそれで十分ということです」
食事か。山崎先輩の真似をすればいい、ということか。
そんなことを俺が思った時、医者が表情を少し曇らせた。
よくない話か、と俺は身構えた。
「あと、管理課の方から事情を聞きたいという要請が来ていますから、退院してすぐにも取り調べがあると思います。もし具合が悪くなるようなら、そう取調官に伝えてください。相手も心得ているので、問題はありません」
「具合が悪くなるって、どういうことですか?」
想像がつかなかった。医者はちょっと困惑したようだったが、教えてくれた。
「それはそれぞれの症状が出ますが、手足が震えるとか、汗が止まらなくなるとか、つまりそういうことです」
肉体的な問題ではなく、精神的な問題、ってことか。
「取り調べというのはなんですか?」
「事故に関する調査の一環です。すでに八角さんのチームの管理者候補生と探求者候補生は取り調べを受けたはずです。八角さんはとても取り調べを受けられる状態ではなかったので、こちらと管理課の間で協議して、延期していました。すでに事故に関する調査はおおよそ結論が出ているようです。ですから、八角さんへの取り調べは形だけになると思います。それでも負担にはなると思います。体調が悪ければ、正直に申し出てください」
はい、としか答えられなかった。満月と馬場先輩にも迷惑をかけたようだ。
医者は話を続ける。
「しばらくは魔法を行使するのは禁止です。これは完全なる禁止で、魔力回路を意識するのも避けてください。あなたの魔力の枯渇はまだ体に大きな影響を及ぼす深刻さです。魔力は生命力とも同期していますから、魔力が底をつくと生命にかかわります。いいですね?」
「わかりました、気をつけます」
「公休その他の申請に必要な学校に提出する書類はこちらで用意しておきます。実技の授業はしばらくは見学です」
それは楽でいいな、とは思えなかった。また一歩も二歩も、周りから遅れるわけだ。
「お伝えするのはそれくらいです。診察の予定はこちらで調整しておきます。携帯端末に通知が行くので、忘れずに来院してください」
俺が頷くと医者は「お大事に」と看護師と一緒に部屋を出て行った。
と思ったら、二人が足を止めて、誰かに場所を譲った。
部屋に入ってきたのは男子生徒で、よく知っている相手だった。
幸坂先輩は医者と短く言葉をかわすと頭を下げ、医者と看護師が廊下に消えてからいつも通りの頼りない笑みで近づいてきた。
「無事、とは言えないけど、悪くないようだね」
話し方も普段と変わらないのに、俺は訳もなく安心した。
「迷惑をおかけしてすみません」
俺は寝台の上で起き上がろうとした。左腕しか使えないので不便だ。
やっと思い出したけど、前に気がついたときには左腕に点滴がされていたはずだ。今はそれがない。不要になって、知らないうちに抜かれてようだ。
幸坂先輩が手を貸してくれて、俺は上体を起こすことができた。
「まさか死にはしないだろうと思っていたけど、さすがの僕も心配したよ」
「すみません」
「潤に礼を言っておくといい。潤がきみを助けたようなものだ」
そう言われて、記憶の一場面を思い出した。
試合で暴走している俺を、山崎先輩が強引に打ち倒したのだ。
スーツやヘルメットもなければ、試作魔法杖もないまま、制服姿でだ。
どうやってコートに乱入したのかが一番の謎だけど、山崎先輩なら不可能ではなかったということか。
「山崎先輩は、怪我はしませんでしたか?」
俺が問いかけるのに、幸坂先輩は苦笑いになる。
「制服が傷んだと言って怒っていたよ。怪我は擦り傷くらいかな。あれでも並の行使者候補生じゃないからね」
これは山崎先輩にもお礼を言って謝らないとな。俺の命の恩人と言ってもいいかもしれない。
「で、退院はいつだって?」
「明日って聞きましたけど、幸坂先輩、その荷物はなんですか?」
幸坂先輩は最初から大きめのバッグを持っていて、それは今、足元に置かれている。俺の問いかけに幸坂先輩はのほほんと答えた。
「きみの着替えだよ。僕の私服だからだいぶサイズは合わないだろうけど。でも、その格好で外を出歩くわけにはいかないだろう」
俺は入院着を着せられていて、確かにこのままでは出歩けない。しかし、幸坂先輩の服とは、だいぶ丈が合わないだろうな。
それでも、ありがとうございます、と礼を言うと、幸坂先輩は軽く頷いて、びっくりすることを言い出した。
「明日の朝に退院なら、今すぐに退院しても変わらないよね。手続きして来よう」
今すぐ退院?
「さすがに明日と今では違う気がしますけど、これから退院する理由が何かあるんですか?」
二つあるよ、と幸坂先輩は表情を変えずに答える。
「一つは、きみに現状を伝える時間を用意したいこと」
現状というのは、さっき医者が言っていた事故調査の結果ということかもしれない。病室で話せないことだろうか。
「もう一つはなんですか?」
それはね、と幸坂先輩はちょっと笑みを深くする。
「病院の食事は不味いからだよ」
「……食事が不味い?」
「魔力を回復するためにとにかく食べるように言われただろう? それなら病院食などではなく、食堂で好き放題食べた方がいい。ちょうど夕食どきだし、食堂へ行こう」
俺はどうとも答えられなかった。
そんな理由で勝手に退院を早められるものだろうか。
俺が黙っているのが肯定と受け止められたのか、ちょっと待ってて、と部屋を出て行ってしまった。
本気で退院を早められると幸坂先輩は確信のようなものがあるようだけど、本当にうまくいくのだろうか?
俺がただ待っていると幸坂先輩はあっさりと帰ってきた。
そして指で昔ながらのオーケーサインを作った。
「お医者さんの許可はとれたよ。これは薬。忘れずに飲むように」
大きめの紙袋を差し出されるが、俺はまだ信じられなかった。
まぁ、これも魔法技専のイレギュラーの一つということか。
紙袋を受け取ると、着替えるとしよう、と幸坂先輩がバッグの中身を取り出していく。
俺はさすがに観念した。
他に選択肢はなかった。
幸坂先輩の有無を言わせぬ雰囲気に反論する気力は、まだ回復していなかった。
(続く)




