51 最後の一撃
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どうなっているんですか、と私は思わず声にしていた。
声は緊張で裏返っていた。
しかし、隣の席に座る馬場先輩は動じない。それよりも他の卓にいる他の生徒の方が驚いていた。
「相手は周囲に自身の魔力波動で満たした空間を作っている。今、その中にハチはいる」
静かな調子で馬場先輩は口元を撫でながら言う。
「ハチの魔力波動の放射じゃ、突破するのは至難だ。投擲するタイプの試作魔法杖でこのまま攻め潰されるだろう」
あまりにも落ち着いているその声に、そうじゃなくて、と私は応じた。
私が言いたのは別のことだった。
「そうじゃなくて、ハチの魔力回路の稼働率が……」
無意識に普段とは違う呼び方をしていたが、気にならなかった。
そんなことはどうでもいい。
もっと重大なことがある。
八一郎の魔力回路の稼働率は九十五パーセント超えている。
ほとんど限界まで力を振り絞っているのだ。
九十五パーセントの稼働率はこれまでの試験にはないことだったけど、気になることはそこじゃない。
どうして九十五パーセントまで出力を発揮しているのに、ここまで一方的な展開なのか、ということが私が言いたいことだった。
九十五パーセントまで魔法回路を稼働させれば、八一郎の魔力波動が相手の攻撃を凌げるのではないか、と想像がつく。
少なくとも一昨日の模擬戦の第一日目にあった三つの試合と比べると、八一郎の魔力波動の出力は上がっているどころか、逆に下がっているように見えた。
魔力回路はほとんど全開で稼働しているのに。
明らかに八一郎は本来の力を失っている。
私は混乱していた。一日を置いただけで、どうしてそんな現象が起こるのか。
八一郎の体調が悪いのか。
いや、昨日も今朝もそんな話はしていなかったし、私が話したり様子を見た範囲ではおかしなところはなかった。
では、魔力回路に不具合が生じているのか。
それはあるかもしれなかった。何故なら八一郎の魔力回路は、模擬戦一日目の結果を反映して昨日、わずかに調整したのだ。
針のような器具で、少しだけ魔力回路を弄ったのは他でもない、私だった。
まさか私の処置にミスがあって、魔力回路の性能が落ちてしまったのだろうか。
それが事実なら、今の八一郎の苦境は、私のせいだ。
負けるなら、私が原因だ。
「馬場先輩、どうしましょう」
試合時間は進み、残りはすでに一分になっている。
お互いにダメージ判定はゼロで推移していた。
相手の行使者候補生は試合開始からほとんど動かず、八一郎を圧迫しているのだから、実力では圧倒されている。
それなのに八一郎が少しのダメージ判定も受けていないのは、奇跡というより偶然だろう。
このままでは、すぐにダメージ判定を受ける……。
私の思考を証明するように、八一郎を相手の投擲型魔法杖がかすめて、初めてダメージ判定が出た。
たったの五だったが、五ポイントの差でも勝敗ははっきりとしている。
負ける。
何もできずに、負ける。
私の、責任で?
「まだだ」
馬場先輩が真剣な目つきでディスプレイを見たまま、呟く。
「魔力回路はまだいける。まだだ」
何を言っているのか、私にはわからなかった。
試合は続いている。
一方的な試合展開で、残り時間はすでに四十五秒を切った。
●
相手の行使者候補生は動かない。
動かないまま、魔力波動で試作魔法杖を操って俺を八つ裂きにしつつある。
ダメージを受けずにいることは不可能で、投擲型の魔法杖が二度ほど俺の魔力波動の防御を突破していた。
直撃していないから軽いダメージ判定だろうが、こちらが相手に一発も加えていない以上、このままでは確実に敗北する。
俺の魔力波動が思ったように増幅されない。
これは模擬魔法杖の不具合だろうか。それとも体に刻まれている魔力回路の不具合か。
いずれにせよ、残り時間は三十秒と少し。
ここで出来ることは、一発に賭けること以外にない。
防御姿勢は崩せない。すぐに投擲型魔法杖が俺を捉えて一撃決着でもおかしくない。
それでも間合いを詰めようとすれば、やはりそこを狙われて即座に試合が終わりになってしまう。
選択肢はない。
この場を動かずに、高出力の魔力波動で離れた相手を撃ち抜くしかない。
それも一撃決着の判定が出るような、強烈な一撃を、正確に撃ち込む必要があった。
出来るか出来ないかではなく、やるしかない状況だ。
決断は一瞬。
迷う間などない。
左手で強く模擬魔法杖を握りしめ、周囲に魔力波動の壁を必死に構築する。
一方、右手は腰だめに模擬魔法杖を構え、最大限の魔力を練り上げていく。
左手一本の防御で攻撃を防げるのはほんの十秒もないと見込まれる。相手の試作魔法杖が俺の魔力波動の壁を削り、突破するのは一瞬で済む。
その上、右手に魔力を集中させる結果、防御はどうしても甘く、弱くなる。
左手による防御で一瞬を稼ぎ、その一瞬に右手で攻撃する。
乾坤一擲とはこのことを言うのだろう。
相手の攻撃が想定より早く、強ければ、そこで試合は終わる。
こちらの攻撃が届かなくても、また弱くても、やはり試合は終わってしまう。
どうしてそこまで必死になるのか、自分でもわからなかった。
もしかしたら、この試合が俺一人のものではないと気づいているからかもしれない。
満月も馬場先輩も、俺を勝たせるために力を尽くしてくれている。
それに、第十六グループのチームとして、幸坂先輩や山崎先輩、加賀原先輩にみっともないところは見せられない。
迷惑はかけられない。
負担になりたくない。
認められたい。
そのためには、勝つしかない。
自分のために。誰かのために。
背中が燃えるように熱を帯びて、スーツがどうにかなってしまうのではないかと思った。
しかし構わずに右手は模擬魔法杖を砕けんばかりに握りしめ、魔力回路はあらん限りの魔力を際限なく増幅させていき、溜め込んでいく。
ほんの十秒に満たない時間に、俺の右手には今までに感じたことのない魔力波動が集中していた。
自分に向かってくる投擲型魔法杖の位置が、はっきりと感じ取れたのは、何故なのか。
自分でもわからない。もはや魔力回路の発揮する機能を意識できる段階ではない。
全てがフル稼働だ。
直感的にわかったこと、そして考えたことは、自分に投擲型魔法杖が命中するまでのリアルな時間だった。
届く前に、こちらが攻撃を放てる。
際どいタイミングだが、確信できた。
それでも、ギリギリまでこちらからの攻撃を遅らせていく。
先に攻撃するためにはほんの一秒に満たない時間でも惜しいが、その些細な時間でさえも魔力の増幅に使う必要がある。
汗が流れる余地もない。肝が冷えることもない。
やがて。
その時が来た。
飛来した投擲型魔法杖が二つ、俺の最低限の防御に衝突し。
それを食い破るためにほんの数瞬、静止する。
同時に、俺は右の拳を突き出していく。
拳の先には、勝利を確信しているだろう相手の行使者候補生がいる。
圧倒的な魔力波動が、俺の右腕をねじ切りそうな錯覚。
鋭い突きが虚空を打つまで、遥かに長い時間が過ぎた気がした。
腕が伸びきり、拳が止まる。
その拳から、魔力波動が打ち出され。
目の前の空間が激しく歪んだ。
呻き声が漏れていた。
誰の声だったか。
それは、誰の声でもない俺の声だ。
右腕が、爆発した。
いや、腕は腕の形を維持している。
右腕から、魔力が無尽蔵に溢れ出し、俺の右腕は自分のものではないように激しく震えると、でたらめに暴れ始めた。
硬直した指は、模擬魔法杖を手放すことを忘れている。
(続く)