52 暴走
◆
馬場先輩が、私の隣で椅子の背もたれに脱力した様子で寄りかかった気配がした。
私はそれを気にせずに、ただただディスプレイに映し出される光景に、言葉を失っていた。
カメラの映像が微かに震えていた。補正が追いついていないのだ。
自分が座っている椅子も揺れている。いや、これは私の震えだろうか。
ディスプレイの中で、八一郎を中心に見えない力が荒れ狂っていた。
コートに敷かれた砂が舞い上がり、土煙となっている。
その中で八一郎がいるコートにある遮蔽物はもちろん、周囲のコートに設置された遮蔽物までが不可視の衝撃になぎ倒されていた。
サイレンが鳴り響き、赤い光が明滅していた。
激しい土煙と様々な物体の破片がコートを超えて飛び、そういう全ての中で時折、八一郎の姿が見えなくなり、また現れた。
やがて、カメラの映像が意味をなさなくなった。
渦巻く粉塵が何もかもを隠してしまい、その粉塵は何かに攪拌されるように吹き荒れて、何もかもを巻き込んで密度をどんどんと増していった。
私は席を立って、管制室の前方のドームを望む強化ガラスに飛びついた。
ガラスの向こうも、やはり何も見えない。灰色と薄茶色のまだらに染まった空気が何もかもを覆い隠している。
八一郎はどうなった? 何が起こっているんだ?
管制室にいた他の生徒も数人がガラス越しに様子を探ろうとし、卓に残った生徒はマイクに何事か叫んでいる。管制室にもサイレンが鳴っていて他の生徒の声はかき消されて聞こえない。
サイレンは、非常事態を告げていた。
私はガラスの前で座り込みそうだった。
今は見えなくても、目の前の光景は八一郎を中心に起こった。
私ははっきり目撃していた。
この事態は、なんだ?
これは、魔力回路の暴走なのか……?
私は緩慢な動作で馬場先輩を振り返った。
馬場先輩は、まだ椅子に座っている。
その口元に、笑みが見えた。
どうして、そんな顔を?
◇
増本辰の隣の席で、なにこれ、と小田垣美緒が呟く。
二人はドームの一つの客席で、模擬戦の試合を見物していた。二人が所属するチームは二回戦で負けてしまい、すでに試合はなかった。
本当は探求者候補生の仲間も一緒に見ていたはずが、ちょうどじゃんけんで負けて飲み物を買いに行かされていた。
しかし辰にとってはそのことはもう考える余裕がなかった。
辰と美緒は友人である八角八一郎が戦っているのを観戦していたのだが、何が起こったのか、唐突にその八一郎を中心に異常が起こり始めた。
最初はコートが何らかの理由で爆発したように見えた。
次には八一郎がいた辺りを中心に何もかもが巻き込まれていき、粉砕され始めた。
その時にはサイレンが鳴り始め、赤い光が明滅すると同時に観客に避難を促すアナウンスが流れ始めた。人工音声ではなく、女性が甲高い声で叫んでいた。
呆然とする美緒の手をとっさに掴み、辰は立ち上がり、他の観客の流れに乗って席を離れようとする。
何かが飛んでくる気配を察したのは、辰がまだどこか冷静だったからだろう。
美緒の上に覆いかぶさるようにして身を投げ出す。床と辰の間で押し潰された美緒が悲鳴をあげるが、それよりもすぐそばでした激しい重い音の方が大きかった。
恐る恐る顔を上げると、二人のすぐそばにコートにあっただろう障害物の破片があって、それは客席の座席を三つほど巻き込んで破壊していた。
背後で金属が擦れ合うような音がする。やっと客席を物理的に隔離する隔壁が展開され始めたようだ。
行くぞ、と辰は美緒を引っ張り上げた。美緒の手はブルブルと震えてもう辰の手を握り返す力もない。その手を辰は強く握りしめた。
二人が階段を上って行く時には、隔壁が完全にコートと客席を隔離していたものの、隔壁に何かが衝突する音が止むことなく響いている。
まだ魔力の暴走は続いているのだと辰は理解したが、できることはない。
「もう大丈夫だ」辰は美緒を励まそうと声をかけた。「隔壁は簡単には破れない。安全ってことだ」
その辰の言葉に、怯えきった表情で美緒が顔を上げた。
「で、でも、コートで、八角くんが……」
頼りない美緒の言葉に、辰はただ、大丈夫だ、と答えるしかなかった。
大丈夫だと、辰は心の中で自分にも言い聞かせた。
大丈夫なはずだ。
酷いことにはならない。
行くぞとさらに美緒の手を引いた時、辰の視界を何かが横切った。
それは階段を上って最上段の通路から避難する人の流れとは、逆に向かった。
通路を行っているのではなく、座席に付属の小さな背もたれを飛び渡っている。
思わずそちらを見たが、見えたのはなびく長い髪の毛だけだった。
その人物は勢いそのままに隔壁にぶつかっていき。
衝突と同時に、隔壁をぶち抜いて、その向こうに消えた。
辰は自分が見たものが信じられず、呆然と立ちすくんだ。
隔壁には紛れもなく、穴が空いている。細かな瓦礫や土煙が吹き込んでくるのも見える。
嘘だろう、と思わず辰は言葉を漏らし、美緒の手を離していた。
●
相手の行使者候補生が俺を見た気がした。
ただ、その姿は魔力波動に飲み込まれてしまい、次には吹き上がった土砂の向こうに消えていた。
俺の右腕はデタラメな力に振り回され、必死に抑え込もうとしたが無理だった。
自分自身の体さえも反動で翻弄されそうになり、今にも右腕に引きずられそうだ。
無理やりに腰を落として姿勢を維持するのに必死で、右腕の動きをコントロールするどころではなかった。
右腕からはどこまでも無制限に魔力波動が放射されている。
しかしそんなはずはない。これはいつまでも続かない。
俺の魔力波動は、俺の体に宿る魔力を源にしているからだ。
俺の魔力が尽きれば、自然とこの暴走も終わるはずだ。
ただ、それまでにどれだけの魔力波動が放出されるのか。周囲が破壊されるのか。
逆転を狙った一撃のために、俺は限界まで右手に魔力を溜め込んで全力で増幅させていた。自分の魔力がどこまで膨れ上がっているのか、想像もつかない。
このままではいけないのは分かっている。
分かっていても、制御できない。
腕が向いた先の全てが魔力波動に吹き飛ばされていくのが見える。他のコートはどうなったのか。
まったく見えないし、見ている余裕もない。
せめて頭上に向けられれば、被害を抑え込めるのではないか。でもそうすればドームの屋根が崩壊しないだろうか。
ドーム自体の安全装置は生きているはずである。コート内はもちろん、客席はどうなっているのか。
誰かが巻き込まれたりしていないだろうか。
轟々と激しい力が渦巻き、もう何も聞こえない。いや、ヘルメット越しに轟音が鳴り響いていて、それで何も聞こえないのだった。
周囲で赤い光が明滅しているのが、時折、ちらつく。警告を示すランプか。それも巻き上がった土煙が濃密すぎて判然としない。
俺は左手で右腕を押さえようとした。しかし左手がどうしても右手に届かない。
魔力波動が放射され続けている上に、その魔力波動が物理力に自然変換されているせいで、まるで見ない壁があるかのように左手が右腕まで進めないのだった。
俺が魔力波動を変換しているわけではない。少なくとも自覚はない。
では何がそうさせているのだろうか。
分からないことだらけだが、現象の原因は俺にあり、俺がなんとかしなくては……。
無理やりにでも左手を右腕に押し付けようとする。押し返されても、押し付けようとし続ける。
途端に前触れもなく魔力波動が強くなり、腰が砕けて倒れ込みそうになった。
一歩、足を引いて堪える。
まずい。
このままでは姿勢を維持するのも難しい。
俺の右腕がより一層、強い力でうねる。
魔力波動のゆらめきの奥で、スーツが裂けていく様が見えた。その奥で、俺の腕が歪んでいく。
激しい痛みが走り、頭の奥に灼熱が走る。
それでも魔力波動の暴走は止まらなかった。
俺の右腕が弾け飛べば、終わるだろうか?
それで、俺はどうなる?
生きているのか?
それ以上は痛みが思考を貫き、何も考えられなくなった。
肉がねじれ、骨が軋む。
今までに感じたことのない痛みに意識が沸騰した。
その時、何かが目の前に飛び込んできた。
何かが、土煙を突き破ってきた。
制服姿で、細身。
ひとつに結ばれた髪の毛が激しい大気の乱れに乗ってなびいていた。
人間。
誰だ?
相手の顔が刹那だけ目に入り、俺はハッとした。
山崎先輩。
山崎潤だった。
どうやってここまで来たのか。
スーツもヘルメットも無しで大丈夫なのか、とどうしてか俺の思考があさっての方向に飛ぶ。
全く普段通りの様子の山崎先輩は、一歩の踏み込みで俺の懐に滑り込んできた。
まるで何の抵抗もないような、自然な動作。
先輩は踏み込みと同時に片手で俺の右腕を押さえた。
俺の左手がどうやっても触れられなかった右腕に、山崎先輩は何でもないように手を触れて押さえたのだった。
何もかもが信じられなかった。
暴走する俺の右腕を制した山崎先輩の左手の像がぼやけて見える。
その像の揺れが、俺の右腕の魔力波動の震えと同期していて。
山崎先輩の右手が俺の胸に触れて。
鈍い音が、かすかにした。
強烈な衝撃が胸から背中へ抜けていき。
目の前が真っ暗になった。
その闇に不意に光が戻った。
その時、俺はコートに寝かされていて、顔を覗き込んでいるのは白い服を着た男性だった。知らない顔だが、その様子から救急隊だと気付いた。
いつの間にかヘルメットを外されていた。空気には土の匂いが濃密に立ち込め、息を吸うと埃っぽさに自然と息が苦しくなって咳が出た。
咳き込んだ時、右腕に鈍い痛みが走った。
痛むという感覚があり、それは指先まで通っている。どうやら腕を失うことはなかったらしい。
一方、耳はよく聞こえない。耳鳴りのような甲高い音が鳴り止まず、それが意識を曖昧にさせる。救急隊の男性は怒鳴っているようなのに、本当に何も聞こえなかった。
まぶたが自然と降りていってしまう。
いや、像が歪んでいるから、俺の意識が緩慢に失われていくだけか。
何も焦点を結ばなくなり、ぼんやりと見えるドームの天井も、救急隊員の男性の顔も、すべての輪郭が失われて溶け合っていく。
ふっつりと俺は意識を失い、再度、何も感じない闇の中に落ちていった。
(続く)




