8.教室沈降
時代設定は平成です。
拙い表現も多いと思いますが、新しい回の追加と並行して、以前の回も適時修正しています。エピや会話の増補もあります。
よろしくお願いします。
昨夕は、最悪だった。
バイパスの方から続く登校の列に合流して、彼方は何度目か分からないため息をついた。
七尾の冬の朝だ。空を埋め尽くす雲が、陽の差す隙を与えない。通勤の車が濡れた路面を走っていく。交差点では黄色い帽子の小学生たちが、信号の変わるのを待っていた。
初めて女子と、小丸山公園で待ち合わせをした。しかも相手は汐ノ宮だ。
彼女が、暮れなずむベンチで、自分を待っていたのだ。
奇跡だ。
だけど――。
誰もが信じないような出来事を、焦ってペラペラ披露した彼方に対して、
「彼方くん……アニメは、好き?」
「……スローイン……」「……ミレニアム……」
昨夜は、汐ノ宮の小さく低い声が耳の奥によみがえるたび、布団の中で足をばたつかせた。
《なぜ知っている》
小学校の頃から考えていた空想の設定だから、ただでさえ幼い。自分でも情けなくなる。
今日、どんな顔をして会えばいいのか。無接点という関係が、侮蔑に代わるのか?
だが、重大な事実が、一つある。
汐ノ宮とは、あの夜の記憶を共有している。
あれは夢ではない。二人が同時に体験した現実なのだ。
※※※
登校した彼方は、教室の前で足を止めた。中が、妙に騒がしい。
扉を開ける。
雲間を縫って差し込んだ朝の陽光が、ワックスのかかった床を照らしている。
生徒たちは壁際に固まって、空っぽの空間を見渡していた。
机と椅子が、全て、無いのだ。
床や出入り口を指差して言いあう男子、半笑いで顔を見合わせる女子。鞄を提げたまま立ち尽くす娘。
「ちょ、ちょっと待って、意味わかんねーんだけど」
「昨日、部活終わったときはあったぞ」
「先生呼んできたほうがよくない?」
ロッカーの前に、汐ノ宮を囲む集団がいた。彼女は問いかけに軽く頷いているが、周囲は汐ノ宮が休んだどころではない様子だ。
いつもの佇まいは失われている。薄く疲れが見える。
彼方が入ってきたのに気づくと、女子たちの肩越しにこちらを見た。
目が合う。汐ノ宮から見つめられるなんて初めてだ。反射的に目をそらして、騒ぎの輪に加わった。
無視したようでまずかったかと思い、そっと振り返る。
汐ノ宮は、思い詰めたように瞳を伏せていた。
そこに、廊下から古市たちが入ってきた。がらんどうの教室を見回した古市は、
「なんで俺の机が無いんだっ⁈」
「朝一で無かったんだよ」
いつも登校一番乗りの喜志が、自分の出番とすかさず答える。
古市は教壇の段差へ大股で腰を下ろした。やがて彼方に気づき、黒板のほうに目配せした。万年筆のことを言うつもりなのか。だが古市は空になった教室をもう一度見回し、
「それどころじゃねえか」
と吐き捨てるように立ち上がり、うろつき始めた。
――黒板。
その言葉が頭の中に響いた。黒板を振り返る。万年筆が隠されていたチョークボックス……
胸の奥が何かに掴まれた。引きずり込まれる。
気がつくと、彼方はその方向へ踏み出していた。
喧騒が、遠のいていく。
――この感じを、知っている。
あの夜だ。倒れた汐ノ宮を介抱しようとしたら、何かに意識を無理やり捻じ曲げられた。足が勝手に惨状に向かった。汐ノ宮のもとへ戻ろうとしても戻れなかった。
彼方は教壇へ上がった。チョークボックスを開ける。
指を差し入れる。チョークの欠片。ざらついたプラスチックの縁。粉の底。
そして、天板の隠れた位置に――
それはあった。
小さな突起。
スイッチだ。
押したい、という衝動が、湧き上がった。
背後で、汐ノ宮が、息を呑んだのが分かる。それを周りの女子が怪訝そうに振り返ったのも分かる。
《なぜ、押したいと思うんだ》
押せば、大変なことになる。自分の、クラスメート全員の、日常を、中学生活を、いや人生を覆す、とてつもないことが起こる。なぜそんな確信があるのかわからない。ただ、電流のような予感が腕から手のひらへと伝播する。
指を離そうとした。
その瞬間、別の思念が覆い被さってきた。彼方の抵抗など押し潰す、遥かに巨大なイメージの奔流だ。
破壊される御祓中学校。焦土と化す七尾の町。一本杉通りが燃え、七尾湾が赤く染まる。
それだけではない。
東京。ニューヨーク。パリ。世界各都市の上空に、巨大な何かが浮かんでいる。人々が逃げ惑い、光の筋がそれを薙ぎ払う。街が灰燼に帰す。
《押さなければ、こうなるんだ!!》
「やめて!!」
汐ノ宮が叫ぶと同時に、指が、動いた。
ドォン‼︎
教室全体が、腹の底を揺さぶる轟音とともに、激しく震えた。
「きゃあああっ」
「地震だっ!!」
ロッカーの棚から教科書や体操服が床に散らばる。足を踏ん張りまわりを見回す子。身を寄せ合う女子。
「揺れたよ⁈」「と、とまったか⁈」
「遅刻ギリセーフー」
勢いよく廊下の扉を開けた横山が、そのまま教室に転げ込んできた。
「痛ってえ! なんだよ!」
彼が振り返ると、廊下と教室の床に十センチほどの段差ができている。
「なななんだこれ……⁈」
ゴゴォォン‼︎
さらに地の底から突き上げる振動が襲う。
ガラスがびりびりと鳴り、蛍光灯が明滅する。掃除用具入れの扉が開いて箒が転がり出た。
「ヤバっ」「マジでヤバいって」
壁にへばり付いた佐備の裾を楠風台が掴んでいる。踏ん張った古市に甲田と新家がしがみつく。
「見ろよ⁈」
佐備が出入口を指差した。廊下の床がゆっくりとせり上がっていく。
床下を走る灰色の塩ビ管が現れ、コンクリートの基礎断面が露出していく。
「教室が沈下している……」不動ヶ丘の声だ。
校庭側の窓は、コンクリートの基礎の下から黒い土が現れた。地面より下が窓の半分以上を占めて、室内は影に覆われる。
楠風台が「嘘でしょ嘘でしょ嘘でしょ」と繰り返し、伏見堂が「お前ら窓際はヤバいって! こっち来いってんだろ!」と叫んだ。古市は教壇の段差を両手で掴み、甲田と新家がその背中にしがみついていた。
地面の高さが天井に迫るにつれて外の光が差し込む面積も隙間のようになり、次第に教室が暗くなっていく。女子の悲鳴がいくつも響く。
「信じられねー」「どうするよこれ」
やがて黒い土が窓全体を覆い、差し込む光が糸のように細くなった。
女子たちは抱き合い、男子たちは天井を見上げる。
最後の光が消えた。
漆黒の闇が、教室を満たした。
悲鳴と荒い呼吸だけが聞こえる。
「はあ⁈、ありえないんだけど!」
伏見堂の声だ。
「なにやってんの! はやくしなさいよ!」
横にいた男子に、携帯を出せと言っているらしい。
開いた液晶で、ロングウェーブの後ろ姿にたじろぐメガネが浮かび上がる。
「け、圏外だ」
「借りるわよ」
と半ば奪い取ると、カメラのライトを点けた。あちこちで怯えた顔が照らし出される。
窓の外は、地層を透明な何かで固めたような滑らかな壁面だった。それが上方へ流れていく。
彼方は、黒板の粉受けを後ろ手に掴んでいた。不思議なほど、驚いていなかった。
ロッカーの枠を握り締めた汐ノ宮は、青ざめた表情で、彼方がいる黒板の中央あたりを見つめている。
震動は続き、沈降は止まらない。彼方の隣で誰かが啜り泣きはじめた。
震えた、小さな声……
そのときだった。
いきなり、白い光束が、窓の下の桟から、天井に向けて差し込んだ。
光の帯は、窓のあちこちから、そして廊下側の開いた扉からも、二条、三条と増えていく。
やがて校庭側の窓枠の下から、せり上がるように、
それは、見えてきた。




