14.クラージュの過去①(三人称視点)
久方ぶりにサフィアの顔を見たからか、ふと、昔の記憶がクラージュの胸を過った。
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あの日、王宮の空気は殺伐としていた。
白大理石の床に敷かれた赤い絨毯の上に跪くのは、齢19になったばかりのクラージュ。その前に座するのは、父王だった。
右手には、堂々とした態度で立つ5つ年上の兄、ジルベール王太子。金の髪に茶の瞳。父王と同じ容貌を持つゆえに、ことさらに可愛がられてきた長子だった。
「……クラージュ。お前の元から、無断で軍備が動かされたという報告が入っておる」
王の声音は冷ややかだった。怒りではない。
ただ、愛する長男に逆らう次男を厄介に思い、突き放すような、倦んだ口調だ。
「ありえません。私の名で命を出すには、私自身の署名と印が必要なはずです」
その言葉に、ジルベールが涼やかな顔で応じる。
「その両方が揃っていたのです。間違いありません」
そして父に向き直ると、声にわざとらしい哀感を滲ませた。
「しかも、クラージュの侍従のひとりが逃亡いたしました。尋問の前に姿を消すなど……まるで謀を隠そうとしたかのようではありませんか」
それはすべて、巧妙に仕組まれた筋書きだった。
軍備移動を命じる偽文書、逃亡した侍従、捏造された署名と印。
組み合わせれば、クラージュが密かに兵を動かし、王権に挑もうとした“反逆未遂”が浮かび上がる。
そんな偽の証拠は整えられ、事なかれを好む父王の耳に届く情報は、長男の都合のよい言葉ばかりだった。
「お前の周囲には、不穏な噂が多すぎる。王城に潜む謀反の芽は、今のうちに摘み取らねばならん」
父の言葉は、まるで他人事だった。
昔からジルベールは、執拗に、そして陰湿にクラージュを貶めてきた。その敵意には道理がなく、もはや理由すら見えない。理不尽にも、クラージュの存在そのものが気に入らないのだろう。
噂の出どころが誰かなど、少し調べれば明白となるはずなのに、父王はそれに目を背けるばかりだった。
王はふと、憂うように目を伏せた。
「お前は……母親に似ている。容姿も、気性もそっくりだ。何事においても強すぎる女で、余は気苦労が耐えなかった。だが不正を嫌う、真っ直ぐな心を持っていた。
──その心を、お前は穢そうというのか」
クラージュは言葉を呑んだ。
王の即妃である母は、彼を産んだときに亡くなった。クラージュの黒髪も、紫紺の瞳も母譲り。
穢すことを責める、その“真っ直ぐな心”こそが、父の愛を自分から遠ざけてきた理由なのだと、彼は知っていた。
「クラージュ・セファルト。王位継承権を剥奪する。王宮から去り、辺境の地アルノー領にて暮らせ。以後、王家の名を使うことは許さぬ。ただし、王家の慈悲として子爵位を与え、領地においてのみその身分を許す」
一方的な裁きが下され、場の空気は凍りついた。
赦しの余地など、そこには存在しなかった。
クラージュはゆっくりと頭を垂れ、静かに立ち上がる。
背後で、父王が小さくため息をついた。
その隣で、ジルベールがわずかに口角を吊り上げていた。クラージュが退室しようとしたそのとき、兄は何かを思いついたように、唐突に声をかけてきた。
「待て」
「……まだ何か」
投げやりな声で返すクラージュに、ジルベールはあくまで悠々とした調子で言った。
「お前が、もう二度とおかしな考えを起こさないように、見張りをつけることにしよう。よろしいですね、父上」
クラージュはもはや、どうでもよかった。
そんな弟を尻目に、案の定、ジルベールは自身の傍らで、いつもニヤニヤとクラージュを見下して笑っていた、兄自身の腰巾着を指名した。
それは、ロイ・ワイズナー男爵令息。
誰よりも忠実なジルベールの下僕──そう、クラージュは信じて疑わなかった。
「クラージュ殿下……あっ、もうアルノー子爵ですね! これからどうぞよろしくお願いしますぅ」
ロイは軽薄な口調で、わざとらしく「アルノー子爵」の語を強調し、ジルベールと顔を見合わせて笑った。
「偉大なるジルベール王太子殿下のお傍で仕えることが出来ないのは、まこと残念なことですが……これも私の大切なお仕事とあらば、しっかりと勤めさせていただきますねぇ!」
ロイはジルベールの腰巾着ではあったが、さして有能でもなかったのだろう。ロイを手放し、僻地に送り込んでも問題ないと考える程度には。
ただの見張り役を喜々として引き受けるロイの姿に、クラージュはむしろ一抹の哀れみすら覚えていた。
ジルベールは、表向きには弟を気遣う素振りを見せながらも、内心に湧き上がる喜びを隠しきれず、どこか上機嫌な様子でクラージュの出立に姿を見せた。
都を囲む城門の前、夕闇が静かに地平を染め始める頃。貧相な馬車がひとつ、ひっそりと待っていた。
積まれているのは、必要最低限の荷物だけ。衣服と数日分の食料にわずかな書類、そして、覚えてすらいない母の形見がいくつか。それだけだった。
「それでは」
クラージュは背後に立つ兄へと、簡易な別れの挨拶をした。
「……気をつけてな。辺境は都のようにはいかぬ」
ジルベールは芝居がかった優しげな声で言ったが、その目には嘲りにも似た光が宿っている。
「お前のような甘い男が、果たして領地など統治できるのか、見ものだな」
低く囁かれたその言葉を、クラージュは受け流した。もう怒りも失望も感じなかった。ただ、これ以上ここにいる意味はないと、そう思った。
「では、参りましょうか。アルノー子爵、クラージュ様ぁ」
ロイが声を上げる。彼は荷車の陰からひょこりと現れ、いかにも軽薄な笑顔で手綱を握った。
ジルベールがその様子を見て鼻で笑う。
「……どうだ。お前には似合いの従者だ」
「それはどうも」
クラージュは淡々と返すと、馬車に乗り込んだ。ロイもそれに続き、軽やかに御者台へ跳び乗る。
扉が閉まる。馬が蹄を鳴らし、車輪が石畳の上を転がり始めた。
クラージュは窓から振り返ることはしなかった。王宮の尖塔も、父王の背も、兄の歪んだ笑みも──今はすべて、遠ざかっていく過去に過ぎない。
ゆるやかに流れてゆく景色をぼんやりと眺めながら、クラージュはひとつ息を吐き、背もたれに身を預けた。
町外れに差しかかったころ、馬車は小さく揺れ、緩やかに止まった。
何事かと身を起こした瞬間、ロイが扉を開き、顔を覗かせる。
「クラージュ殿下、降りて下さい」
一体、何を企んでいるのか──。
訝しみながらも、クラージュは思った。
(……もう、どうでもいい。ここで殺されるのなら、それでも構わん)
諦めにも似た気持ちを胸に、彼は静かに馬車を降りた。




