13.サフィア
翌朝を迎えた。
私は昨日とはまた違う、より目立たない服装で城門前へと足を運ぶ。日差しは心なしか強く、ぬるんだ風に混じって、強い腐臭が鼻をかすめた。
昨日の今日で、既に誰も晒された人々に目を向けようとはしていなかった。
処刑された人数こそ多いが、晒し首はこの都では珍しい光景ではない。人の関心など、ほんのわずかな時間で風化してしまうのだと、身に沁みた。
市場が近いので、幾人か見覚えのある顔が通り過ぎていく。だが、特に気になる顧客の姿はない。
私は時折、人気の少ない路地裏で変装を挟みつつ、父さんの姿が遠くに見える位置に身を置いた。
数時間が過ぎ、今日は手がかりなしかと諦めかけた、そのときだった。
人波の向こうから、見覚えのある長身の女性が現れた。昨日と同じ人物だ。
──来た!
張り詰めた気持ちを、深呼吸で落ち着ける。
その人は今日も長いマントを羽織っていた。装いはさらに地味で、通行人の誰もが彼女に目を留めることなく、ただ通り過ぎていく。
女性は相変わらず無言のまま、晒された父さんの姿を、役人たちに目を配りながら、少し離れた場所から静かに見つめていた。
その様子を、さらに遠くから視界に収めつつ、私は昨夜、クラージュ様に言われた言葉を思い出していた。
『昼間、目にした女にまた会えたなら、このハンカチをそれとなく見せてみろ。もしも反応すれば、俺の知っている人物だ』
そう言って彼が私に手渡したのは、少しくたびれた白地のハンカチだった。隅には、丁寧な刺繍で素朴な花が咲いている。
「エリゲロン……“遠くから見守る”、“変わらぬ愛”、“希望”」
私は、彼女のそばを通り過ぎる一瞬を見計らい、ハンカチをわざと地面に落とした。
そのとき。
風に揺れる布切れに、彼女の視線がぴたりと吸い寄せられた。
数秒の沈黙ののち、彼女は静かにしゃがみ込み、それを拾い上げて私に差し出した。
「はい、どうぞ。これはあなたのものかしら?」
声は低く、穏やかだった。だがその奥に微かに滲む緊張が、私にもじわりと伝わってくる。
私は小さく頷き、そっとハンカチを受け取った。
「ありがとうございます。……あの、お礼がしたいのですが」
女性は一瞬だけ目を細め、さりげなく周囲を見回した。再び私に視線を戻すと、ごく小さく頷く。
「そんな、大したことではないわ。拾っただけよ? でも……せっかくのご縁だもの。お茶でもご一緒しましょうか。どこか、落ち着ける場所で」
その柔らかな笑みに、私もつられるように微笑み返した。
「はい。少し歩いたところに、知り合いが営んでいる店があります。そこなら、静かにお話できると思います」
「案内してくれる?」
私はまたひとつ頷いて、彼女と肩を並べて歩き出した。
喧騒から少し離れた小道を抜け、木組みの軒が並ぶ裏通りへ入る。クラージュ様の隠れ家へと続くその家並みを見て、彼女は「ああそう、今はここを使っているのね」と小さく呟いた。
家へ入ると、彼女はすでに勝手を知っている様子だった。淡々と仕掛けを外し、クラージュ様が待つ部屋へと向かいながら、頭を覆っていたスカーフを外した彼女の赤髪が、ふわりと広がった。
艶やかに揺れる真紅の髪。その美しさには、どこか目を奪われるような、抗いがたい魅力があった。
クラージュ様の前で、彼女が優雅にカーテシーをする。
「……変わらず健在のようだな、サフィア」
「ご無沙汰しております、クラージュ様」
彼女はまるで古くからの友人に再会したような、軽やかな笑みを浮かべた。
「ハンカチ、殿下が持っていらっしゃったのですね。よかったですわ。殿下が私の元へいらっしゃるとしても、いつになるかわかりませんでしたし、私、これからどう動けばよいのかと途方に暮れておりましたの」
「イヴォンが、万が一の時のためにと託していったのだ」
「……そうでございましたか」
そして“サフィア”と呼ばれたその人はゆっくりと振り返り、私を視界に捉えた。
「ではやはり、この方が……アリシア様」
「ああ、そうだ」
サフィアさんは、懐かしむように目を細めた。
「大きくなられましたね。面差しに、あの方の面影がございます。──そう、特に目元が」
あまりにも優しい、まるで娘の成長を見る母のような眼差しに、私の胸はギュッと苦しくなった。
「どこかでお会いしたことが……?」
私が問うと、彼女はにこりと微笑んだ。
「ええ、ございますよ。ですが今はまだ、すべてを申し上げるべき時ではございません。けれど今日、アリシア様にこうしてお会いできて、本当によろしゅうございました。
もしも、いつか貴女がクラージュ様の隣で生きるという、真の覚悟をお持ちになったとき……そのときは、どうか私の元へいらしてくださいませ」
そう言って彼女は、私に一枚の小さな紙片を差し出す。
それを私が改める間もなく、「ではこれで」と一礼し、軽やかにその場を後にした。
「変わらぬな……」
そう呟くクラージュ様の横で、私はサフィアさんに渡された紙片を確認した。
《高級娼館〜クロエ〜》
「娼……館……?」
「ああ、今あいつはそこの主だ。イヴォンの密偵のようなことをしていた」
「父の……?」
刺繍の花を思い出して、私は少し、身を強張らせた。
「イヴォンの名誉のために言っておくが、愛人などではないぞ。あの女はああ見えて、60を越えている」
「ろ、……え!? ええええええーーーー!?」
私はここが隠れ家であることも忘れて、自分が出せる限りの、最大音量で叫んでしまった。




