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「僕を忘れろ」と言った義兄が忘れられません【連載版】  作者: 矢井瀬 月


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12.エルネストの報告書


「密告の報が俺の耳には届かなかったという点で、俺はもっと上の人間が、裏で糸を引いていたのだとばかり思っていた。イヴォンと反りの合わない者や、ひいては……いや、いい。 

 ……貧民街の者を視野に入れなかったのは、俺の完全な思い込みだ」 


 そう言って、クラージュ様は私に一冊の冊子を手渡した。


「ここに保管していたものだ。先ほど、心理分析に長けた者に該当箇所を読ませ、貧民街の生き残りから決起集会の不参加者を聴取した。

 そこで11(ウィレイズ)18(ウィアード)の名が上がったのだ。黒で間違いないだろう。今、側近に捜索を命じている」


 冊子の表紙には、

『貧民街調査ならびに調整任務経過報告書』

 と書かれており、その下に小さく『23』と記されていた。

 エル兄の字だ。私はゆっくりとそれを指でなぞる。


23(ヴァズリー)というのが、エルネストの貧民街での名だったらしい。あそこには孤児ばかりを集めた犯罪組織があった。入った順に番号を振られるそうだ。つまり、11(ウィレイズ)18(ウィアード)はエルネストの兄貴分に当たる」


 クラージュ様の声は淡々としていたが、その内側に怒りと悲しみが潜んでいるように感じた。


「先代の王は、今の王(ジルベール)に比べれば遥かにましだった。だが、貧民層への政策については終始なおざりで、貧民街は長らく無法地帯として放置されていた」


 ページを捲ると、几帳面な筆致で、エル兄による詳細な記録がびっしりと綴られていた。

 彼が最初に接触した地区、各集落の勢力図、抗争の歴史、住民たちの出自や背景に至るまで、驚くほど緻密にまとめられている。


「見ればわかるだろうが、膨大な量だ。

 掻い摘んで言えば、先代王が崩御するおよそ1年前から、エルネストは頻繁に貧民街へ出向いていた。23(ヴァズリー)としてな。

 当初は裏切り者として激しい暴力も受けたようだが、アイツも貧民の心情は嫌というほど理解していたから、甘んじてそれを受け入れた」


 そういえば一時、エル兄には酷い生傷が絶えない時期があった。どうしたのかと尋ねると、「今、武術の特訓してもらってるんだ!」と楽しげに笑っていたのに……。

 胸の奥が、シクリと痛んだ。


「何をされても黙々と慈善活動に取り組み続けるうちに、住人たちも次第に態度を変えていったようだ」


 具体的には、食糧の手配、簡易医療の導入、衛生状態の改善──言葉よりも行動をもって示したその誠意に、頑なだった者たちの警戒も徐々に解けていったという。


 特に幼い孤児たちに対する献身的な世話は、周囲の大人たちに無言の影響を与えた。

 彼らを“人間”として遇することで、貧民たちは、いつしか忘れていた“尊厳”という言葉を思い出したのだろう。


 けれど、かつての仲間であった犯罪組織の面々は、一筋縄ではいかなかった。

 とりわけ現リーダーである11(ウィレイズ)と、幼少期に23(ヴァズリー)と最も親しくしていた18(ウィアード)の反発は強く、容赦がなかった。


 エル兄は、彼らと何度も交渉を重ねた。

 貧民街を変えるために、ともに立ち上がらないかと。最初は遠回しに、やがては率直な言葉で。


 初めのうちは、「綺麗事だ」と一笑に付していた彼らも、エル兄の語る案が徐々に具体性を帯び、実際に利益がもたらされると確信するようになるにつれ、次第に協力的な姿勢を見せはじめた。

──そう報告書には記されているようだ。


 しかし、その記録を「密告者がいるのではないか」という視点から、心理分析者が読み解くと、また別の側面が浮かび上がってくるのだという。


 11(ウィレイズ)は、突然舞い戻り、“貧民街の英雄”になろうとする23(ヴァズリー)を、自身の支配体制を揺るがしかねない存在として捉えており、その恐れや嫉妬を巧妙に隠していた。


 一方、18(ウィアード)は、23(ヴァズリー)と年齢こそ近かったが、幼い頃からずば抜けた頭脳と度胸を備えていた23(ヴァズリー)に対し、どこか憧れに似た感情を抱いていたのではないか。

 それだけに、23(ヴァズリー)が組織を抜け出し、裕福な家の庇護のもとで穏やかに暮らしていたという事実は、18(ウィアード)にとって耐えがたい裏切りに映ったのだろう。


 彼らとのやり取りを仔細に綴られた報告書を見返せば、彼らがエル兄に対して抱いていた憎悪、怒り、羨望、そして「こんな綺麗事で救われてたまるか」という屈折した感情が滲み出ていたそうだ。


 密告すれば、エル兄を蹴落とすことができ、報酬も得られ、自分たちこそが“英雄”になれるのではないか──そう考えたとしても不思議ではない。


 密告や裏切り。その可能性を、エル兄がまったく考えていなかったはずはない。

 けれど、かつて共に飢え、痛みを分かち合った者たちへの情が、その目を曇らせてしまったのかもしれなかった。



「彼らを見つけて、どうなさるおつもりですか?」


 私は問いかけた。私個人としては、彼らが憎くて堪らない。計画を台無しにし、父さんやエル兄をこんな目に遭わせる原因となった彼らを。けれど……。


 クラージュ様はひとつ深いため息を吐いた。


「……まずは話を聞く。逃げるようなら、それなりの手段を取らざるを得ないが……」


 その声音には、怒りや憎しみとは異なる、複雑な感情がにじんでいた。


「自らの浅はかな行いのせいで、奴らは故郷と呼べる場所も、味方もすべて失った。奴らにもう、抗う気力はあるまい。あるいは生きる気力すらな」 


 そう言いながら、クラージュ様はふと私の方へ視線を向けた。


「……アリシア」


 まるで秘密を告げるかのように名を呼ばれ、私は無意識にグッと息を詰めた。

 

「奴らが見つかり話を聞いたら、まず俺は脅す。だがお前はその心に寄り添うのだ。罪悪感に苛まれた上に追い詰められた状況下で、お前が心優しく接すれば、二度と奴らは裏切るまい。

 ただし決して舐められるな。格が違うと思わせろ」  


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