第5話 白黒テレビ
その1 力道山ガンバレ
テレビで最初に視聴した番組はプロレス中継だった。
そのテレビは、村の分限者の家にあった。画面は白黒だった。
プロレス中継の時間になると、子供たちだけでなく大人も、その家に集まってくる。立ち見ができている日もあった。
同じ頃、都会の街角でもプロレス中継に熱中する群衆がいたことを、後に知った。「街頭テレビ」であろ。四国の片田舎ではあっても、都会と感動を共有していたことになる。
プロレスには興奮した。
力道山が空手チョップを振るう。いつも最初は劣勢だった。我慢を重ね、最後は外国人レスラーをなぎ倒す。
多くの外国人レスラーが鬼畜に見えた。なにしろ、レフェリーの目を盗んで反則を繰り返す。茶の間では悪役だけでなく、気の毒なことに、レフェリーにも罵声が飛んでいた。
一〇〇%真剣勝負だと信じて疑わなかった。力道山が噛みつき魔・ブラッシーと対戦した時には、興奮のあまり、全国で何人もの死者が出た。心臓マヒだったらしい。
その2 ブラウン管
学校の図書室にもテレビが入った。
外装は重厚な木製だった。扉を開けると画面が現れた。生徒の手が届かない高い場所に置かれていた。
時間を決め、クラス単位で観た。もちろん教育番組だった。めずらしいだけで、別段面白くもなんともなかった。不人気だったのか、この時間はなくなった。
筆者の父親も流行に敏感だった。
比較的早い時期にテレビを買ってきた。
(さあ、家でプロレス観戦できるぞ)
かすかに笑みがこぼれていた。
当時のテレビはブラウン管方式であり、後方に出っ張っていた。四本の足が付き、さながら家族と対面しているようだった。手厚くもてなし、押し入れに特等席を設けて座らせていた。薄情にも、真空管ラジオはすっかり忘れられてしまった。
その3 アメリカ文化の伝道師
我が家にも近所の子供たちが集まってきた。
人気があったのはプロレスのほか相撲中継だった。野球中継はあまり興味がなかった。
ドラマではNHK『バス通り裏』が記憶に残っている。帯ドラマだった。十朱幸代、岩下志麻、田中邦衛、米倉斉加年など今日からすれば実に豪華出演者だった。
(都会の人はこんな生活をしてるんだ)
のぞき見している気分だった。演技が自然だったのだろう。
アメリカのドラマ『名犬ラッシー』『ライフルマン』『逃亡者』あたりもファンになった。
毎回、ラッシーはさわやかな感動を届けてくれ、ライフルマンには爽快な気分にさせられた。
『逃亡者』は、身に覚えのない妻殺しの罪で死刑判決を受けた医師が移送中に逃亡、警部の執拗な追跡を逃れながら真犯人を探すという物語だった。主人公リチャード・キンブルはデビット・ジャンセンのはまり役だった。吹き替えの睦五朗の声と共にいつまでも忘れることができない。
その4 戦後昭和史に大きな足跡
日本でテレビ放送が始まったのは昭和二八年(一九五三)のことだった。
同年、国産第一号の白黒テレビがシャープから発売された。一台一七万余と高額だった。いつでも放送しているわけではなく、休止時間帯にはテストパターンと言われる試験電波が流されていた。
七年後にカラーテレビの本放送が始まり、昭和四五年(一九七〇)白黒テレビとカラーテレビの出荷台数が逆転。約一〇年後には白黒テレビの生産は打ち切られた。
三〇年足らずの生涯ではあれ、戦後の昭和史に大きな足跡を残した白黒テレビだった。




