四十六輪 川蝉 弥斗
その声を聞いたのは、ちょうど園芸部の花の水やりを終えたときだった。幼い頃からもめ事や怒鳴り声が苦手だった弥斗は、その声が聞こえてきた瞬間に思わず物陰に隠れて息を殺した。
(……早く終わらないかな)
怒鳴り声や大きな音は昔から苦手だ。幼い頃に酒に酔って激昂した父が、よく母を怒鳴っていたことを思い出す。普段は静かでよくも悪くも目立たない父で、弥斗にもあまり関心がないからか、父と二人で何かを話した記憶はない。だけど外聞を酷く気にする性格で、家庭訪問や弥斗の当時の学校教員と外でばったり出くわしたときには『よい父』のように振る舞っている。
男性というと真っ先に思い出すのはその姿だからか、未だにコンビニの店員にも緊張してしまう自身につい嫌気が差してしまうこともあった。近所のコンビニ店員とは未だに話せないままで、最近は何か買いたいものがあれば星花女子学園の近くのコンビニで買い物をして帰ることが常だった。
星花女子学園に入学したのは、そう言う自分の環境から逃げ出したかったからだ。男性職員も限られた人数しかいないこの学園であれば、少なくとも平穏に暮らしていくことができる。
そんなことを考えるとふと頭をよぎるのは、最近友人になった塩瀬晶のことだった。たった一回の学園の校内案内にいたく感謝をしていたという彼女とは、何回か一緒に話をするうちに次第に恐怖心が薄らいでいったのを覚えている。友達になってくださいと言われたことが、嬉しかったのも本当だった。
『莉奈はね、あんたのことが好きなの! ずっと一緒にいたあたしよりも、あんたなんかのほうを選んだの!』
そんなことを考えながら、急に聞こえてきた怒鳴り声に、弥斗は思わず息をひそめる。先程から聞こえてくるこのもめ事のせいで、教室に戻りたくても戻れなかった。
(……好き、か)
弥斗には、恋愛感情はあまりわからない。自分のおどおどした話し方が癇に障ると言われ、幼少期を助け合ってきた母との関係も思春期を迎えた今はわずかに悪化してしまい、弥斗は自分自身の内面にも何か問題があるのではないかと自身を責め始めていた。だからと言って、暴力をふるって人を傷つけてもいいわけではないけれど。
(……誰かを好きになっても、いいことなんてない)
母も父を愛したから、父がいつか変わってくれるだなんて夢を捨てきれない。父も母を愛したから、母に嫌われないために母と喧嘩をするとこどもであるわたしに八つ当たりをする。誰かを愛して一緒にいようと約束をした結果がこれなのだから、恋愛なんてしないほうがましだ。
違う、という聞き覚えのある声に思わず顔をあげる。それは最近よく聞くようになった、友人の声だった。
『……違うよ。ボクも、好きな人がいるから。……だからそれだけは、違う』
その言葉を聞いた瞬間、弥斗はまるで心臓が冷たい手でつかまれたようにひやりとして、思わず口元に手を当てる。これは自分の聞いてはいけない話だと、頭の中で警告が鳴る。だけど出ていくには彼女たちの真横を通らなければいけない。でも通ったら、晶たちに自分のことを気付かれてしまう。弥斗は迷った末にどうすることも出来ず、彼女たちが去るまで息を殺すことしかできなかった。
それから少し経つと、話し声がやんでどちらかが去っていく足音が聞こえる。弥斗は物陰からそろそろと顔を出すと、その場にうずくまってしまった晶の姿が見えた。
本来であれば、きっと見て見ぬふりをするのが一番だとわかっていた。もし自身が同じ立場なら、声をかけられる方がずっと惨めだ。それでも放っておけなかったのは、心のどこかであの頃の自分も助けてほしかったからなのだろうか。
ハンカチを差し出す手がわずかに震えていた。手が震えてしまうのは彼女が怖いのではなくて、ほとんど条件反射だ。怒鳴られたり、殴られそうになったらすぐに身を引いて逃げ出せるように、いつも少し相手と距離をとってしまう。そういう自分のことが、弥斗は嫌いだった。
『……あの、大丈夫、ですか?』
彼女が大丈夫じゃないことなんて、弥斗にもわかっていた。大丈夫かと言われれば、人は悲しくても苦しくても、反射的にそう答えてしまう。誰よりもそれがわかっているのに、そうとしか聞けない自分の情けなさが嫌になって、弥斗は自己嫌悪から目を伏せた。
晶はのろのろと顔をあげる。聞こえてた?と言って笑う顔は、弥斗の目にはなんだか酷く疲れて見えた。そんな塩瀬の姿を見るたびに、この人はどうしていつも笑ってしまうんだろうと考えてしまう。笑ってしまったら、助けてはもらえない。助けてもらえなければ、現状から抜け出すのはずっと時間がかかる。だけど笑っていなければうまく生きられないときがあることも、弥斗は痛いほどによくわかっていた。
彼女がもっとひどい人であればよかったと弥斗は思う。ひどくて、冷たくて、意地の悪い人だったら、もっと彼女に無関心でいられたのに。白石や猫山のような同じクラスの優しいひとたちと、小さな世界で傷つくこともなく穏やかに生きていられたのに、と。
晶は弥斗の差し出したハンカチに反射的に手を伸ばそうとして、引っ込める。まるで、自分にはそんな価値なんてないんだと言い聞かせるみたいだった。
『……簡単に人に優しくしたら、だめだよ』
晶はそう言うと、逃げ出すように弥斗の隣をすり抜ける。すれ違った瞬間、「迷惑ばかりかけてごめん」という彼女の言葉がやけに耳に残っていた。
「……弥斗ちゃん? さすがに肥料、あげすぎじゃない?」「あ……!」
ぼんやりしながら花壇の肥料を入れていた弥斗を、友人の白石が心配そうに呼ぶ。弥斗ははっとして手元をを見れば、決められた肥料よりも多い肥料が撒かれている。弥斗は白石とともに慌てて肥料を別の花壇に移す。
「すみません……」
肥料をあげすぎると、花は生育不良になったり肥料やけを起こして根が枯れてしまう。いつもならこんなことはしないのにと思いながら、弥斗は泣きたいような気持ちで水をあげた。
「ううん、大丈夫……でも、珍しいわね」
肥料を移し替えたあと、うつむいてしまった弥斗に白石は慌ててフォローをする。何かあった、という言葉に弥斗は曖昧な表情を返すだけに留めた。何かあったかと言われても、弥斗自身もうまく説明ができない。友人に好きな人がいて、その友人の好きな人を好きな人から友人が敵視されていて、友人には拒絶されてしまって……なんて、改めて言葉にすると訳がわからない。自分でもわからないのだから、口にすれば混乱を広めるだけだ。だから、弥斗はかわりのように口にした。
「……あの、最近、塩瀬さんと話したり、しましたか?」
弥斗の言葉を聞いた白石は、心配そうに首を振る。何度か教室まで誘いに行っているものの、晶は教室にいないか、ほかの友人と昼食をとっているらしい。ほかの友人と聞いて、弥斗は頭の中にふと先日の晶の様子を思い出す。『莉奈』と呼ばれていたその子と、最近は一緒に昼食をとっているのだろうか。
「……塩瀬さん、ここにも来なくなっちゃったわね」
クラスも違うししかたないけどと言いながら、白石はさみしそうに笑う。その言葉に、弥斗も花壇に視線を落としたままうつむいた。
晶と仲のよい猫山も、最近はあまり話すタイミングがないのだと言っていた。頻繁にSNSを更新しない弥斗にはあまりよくわからないが、塩瀬はSNSも更新しなくなってしまったらしい。メッセージを送っても、『大丈夫』や『心配かけてごめん』という言葉だけが返ってくるばかりだと言う。弥斗はそれを聞いたときから、メッセージを送ろうとしていた手をとめていた。彼女たちが送ってそうなら、自分のような人が送ったところで事態が好転するとも思えなかった。
『……迷惑ばかりかけて、ごめん』
ふと、去り際の塩瀬の声を思い出す。弥斗と同じように、彼女もいつも謝ってばかりだ。迷惑ばかりかけてごめん。怖がらせてごめん。誰だって苦手なことはあるんだから迷惑なんて思ったことはないし、怖がってしまうのは弥斗の性質の話で、塩瀬のせいじゃない。
でも同時に、謝ることは楽なんだと弥斗も思う。自分を責めて殻に閉じこもれば、悲しくて苦しいけれど人との摩擦は生み出さない。人との摩擦を生み出さなければ、少なくとも人に傷つけられることはない。
弥斗もずっと、そうやって生きてきた。そうやって生きることが、自分の身を守る方法だった。それを今さら否定されたところで、傷つくだけで何も生まれないこともわかっている。
植え込みの近くを野良猫が通る音がした。いつもこれくらいの時間帯は猫山と塩瀬が校内の写真を撮りながら遊びに来ていて、猫山が猫を好きなのを知っているからか、塩瀬はよく猫が通ったときに彼女に声をかけていた。猫山はお礼と称しておいしそうなかたちの雲のときに塩瀬に声をかけていて、塩瀬も「どういうこと?」と戸惑いながらも毎回律儀に写真を撮るものだから、微笑ましい光景に弥斗はつい笑ってしまった。思えばそんな自分をみて、塩瀬も嬉しそうに笑っていたような気がする。
最初は誰とも深くかかわりたくなんてなかったのに、いつの間にか白石と「そろそろ来るかな」なんて話したりすることが増えて、弥斗の時間の中にも白石や塩瀬たちと過ごす一瞬が当たり前のようにあったのだ。そんなことに、彼女が来なくなって初めて気付いたことが皮肉だった。
「やっほー、遊びに来ましたよー」
ふと、猫山の声が聞こえる。声や表情はいつも通り明るいが、白石の目線を受けた彼女は小さく首を振った。
「でも、ここが嫌になったわけじゃないんだって。忙しいって言ってたから、落ち着いたらまた来るんじゃないかな」「そう。……しばらく待ちましょうか」
白石たちはそう言うと、話題は間近にせまった期末テストの話や最近クラスで流行っているものに移っていく。それに相槌を打ちながらも、弥斗の頭の中を占めるのは最後に見た傷ついたような塩瀬の姿と、意図せず聞いてしまった言葉だった。
(……塩瀬さんは、好きな人がいるんだ)
もしかしたらそれを自分に聞かれたことで、ここに来づらくなってしまったのかもしれない。この学園の生徒だったら、塩瀬が好きな相手はおそらく同性だ。学園内にはカップルもよく見かけるから弥斗はそのことを気にしたことはないが、繊細な塩瀬にとっては隠しておきたかったことだったのかもしれない。
弥斗はこのことを、誰にも伝えられずにいた。伝えてしまえば、塩瀬がどんな思いをするかは手に取るようにわかるから。
(……わたしは、誰も好きになりたくない)
人を好きになっても塩瀬のように傷つくのなら、嫉妬に染まって塩瀬に怒鳴っていた彼女のように変わってしまうのなら、人なんて好きにならないほうがずっといい。
塩瀬が来ないことは心配だけれど、それでも弥斗のまわりはもとの生活に戻っただけだ。塩瀬と出会う前の、静かで穏やかな生活。
(なのに……どうしてこんなに、苦しいんだろう)
これはきっと、彼女の秘密を知ってしまったことへの罪悪感なんだ。そうであって欲しいと、弥斗は思う。
うつむいた弥斗の視界の端で、オレンジ色の小ぶりな花が揺れていた。アスクレピオス。塩瀬と話した時に咲いていた花はふたりの心中とは裏腹に無事に開花時期を迎え、その小ぶりな花を開いていた。
「……塩瀬さん」
弥斗の呟きは、誰にも聞こえない。聞いているのは弥斗自身と、花壇の花だけだった。




