四十五輪
ぱちりと目を覚ますと、部屋の暗さに一瞬ぎょっとする。近くに置いていた携帯の画面を見て、まだ朝になっていないのだと気付いて再び目を閉じる。しかし何となく寝付けなくてボクは少しの間体勢を何度か変えるものの、静かな部屋の中に自分の衣擦れの音がやけに響いて聞こえて、余計に寝付けなくなる。
(……眠れない)
目を閉じて真っ先に浮かんできてしまうのは、川蝉さんの顔だった。あの少し恥ずかしそうにはにかむ横顔をボク以外の人に向けているのだと思うと嫉妬で吐き気がして、頭の中を滅茶苦茶に叩いてあの記憶ごと追い出してしまいたくなる。……そんなこと、できるわけもないのに。
(……川蝉さんはボクの恋人でもなんでもないんだから、別に誰と笑っていたっていいのに)
ボクは友達でいられるだけで満足だったはずだ。それなら、今の関係だって別にそのままでもいいはずなんだ。ただの友達が、他の友人関係に口を出す筋合いも権利もない。それがわかってるからこそ、このどうしようもない気持ちを抱え込んでいるしかないのだということも理解していた。
ボクは川蝉さんを束縛したり、苦しめたいわけじゃない。だけど、彼女が誰か好きな人と一緒にいることを想像するとそれも苦しくて吐き気がする。
(……川蝉さんが好きだ。……だけど、こんな自分を彼女に見られるのは、嫌だ)
彼女が好きなことは本当なのに、こんな自分を彼女に知られたくない。ボクの過去もこんな思いも……君にだけは知られたくない。
(……学校、行きたくないな)
ため息をついて枕に顔を埋めれば、柔軟剤の香りがする。花の香りに彼女のことを思い出して、それがどうしようもなく後ろめたかった。
「……晶ちゃん、今日は一緒にご飯食べよう。由里ちゃんも一緒なんだけど、いい?」
莉菜ちゃんにそう言われたのは、昼休みのことだった。ボクが「邪魔じゃない?」と笑えば、「もちろん」と笑う。
「大丈夫、由里ちゃんにも言ってあるし、「いいよ」って言ってくれたから……ね、呼びに行こ」
彼女はそう言うとボクの手をとる。ボクは慌てて弁当箱を置くと、彼女に引っ張られるままクラスへと向かう。
高野さんのクラスにむかう途中、わからないことは考えなくたっていいよと言ったのは莉菜ちゃんだった。考えすぎると疲れちゃうから、わからないことは考えない方がいいんだと言う彼女の表情は、こちらに背を向けているからわからない。だけど声の様子から怒ってはいないんだと思って、少し安心した。
由里ちゃんに声かけてくるから待っててと言われ出入り口で待ちながら、自分の足元を見つめる。このままじゃ良くないこともわかっているのに自分もどうしたいのかがわからないから、対処法も思いつかない。ボクはそっと息を吐いて、視線を伏せた。
昼休み中の廊下は騒がしくて、その喧騒に少し安心する。紛れてしまえば彼女のことも、自分のことも、どこにも見えなくなってしまいそうだから。
三組からじゃれ合いながら友達らしき二人組が出て行くのを横目に見ながら、ついその組まれた腕に視線が向いてしまう。
ただの友だちなら、その距離に変に胸が高鳴ることも、触れた部分がずっと熱を帯びているような感覚もないのかな。ないのが、普通なのかもしれない。だって友達とキスはできない。ボクは紫園への思いを恋と自覚する前はできなかった。それは友愛であって性愛ではないからだ。そんなことを思って、小さくため息をついた。
ボクは昔から、どこか友愛を神聖視している節がある。自分を友人として愛してくれるんだということに夢を見ている部分がある。だからそこに一滴でも恋愛感情が混じると、途端に自分の感情が薄汚いもののように感じてしまう。それはボクが、紫園への恋愛感情を隠していた理由のひとつでもあった。
恋を自覚すると、あらゆる欲が出てお互いを縛り付けてしまいたくなる。そしてそれが壊れたら、もう友人ではいられない。醜い欲も、嫉妬も、汚いところを全てを知られた人とは友達ではいられない。それはきっとボク自身が、そんな一面を知った人間とは友達になれないからだろう。だから、川蝉さんにも――――
「……し、塩瀬さん」
ふと近くで聞こえてきた声に、ボクは思わず目を見開く。聞き間違えるわけのないほんの少し震えた柔らかい声が、怯えるようにボクの名前を呼ぶ。ちゃんと顔を見て話さないといけないのに、顔を見たら自分の気持ちが伝わってしまうかもしれないと思うと、怖くて顔を見れない。
「……げ、元気、でした? 最近、あまりみないから……」「……うん、元気だよ。ごめん、あまり行けなくて」
ボクは俯いたままボロが出ないように会話を長引かせない話し方をする。その素っ気なさにボクが気付いているのだから、彼女がそれに気づかないはずがない。彼女がわずかに戸惑っているような雰囲気が伝わってきて、だけどどうすればいいのかもわからない。
川蝉さんは何かを言いかける雰囲気が伝わって、けれどその後に言葉が続くことはないまま俯いてしまう。普段ならそれを聞き返すのに、そんな余裕がなくてボクも黙り込んでしまう。
「……どうして、話かけに来てくれたの?」
絞り出した自分の声は、酷く情けなかった。求める答えなんてわからない癖に、淡く何かを期待するような自分の浅ましさが嫌になる。
「……それは、白石さんたちも心配してて」
微かに緊張したように言う川蝉さんの声に、そうだよなと自嘲する。それが贅沢なことだとわかっているのに、親愛ではなく友愛からくる心配だということに、内心落胆する自分がいることも隠せなかった。
ボクたちの間の気まずい静かな空気に、周囲の騒がしい声がやけに響いて聞こえる。このままではいけないことが、ボクも彼女もわかっているのだ。どうにか誤解を解きたいのにうまく自分の考えがまとまらなくて、このままでは一緒に笑っていたあの子は誰とか、衝動のまま彼女に聞きたいことを問い詰めてしまいそうで。でも、問い詰める権利がないこともボクはわかっている。そんな自分に苛立って小さくため息をつくと、彼女はさらに俯いてしまう。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだと、怯えるように恐る恐る顔を上げる彼女の様子に傷つくなんて勝手だなと思う。
ふと彼女の様子をみていたら、あの笑顔を思い出す。ボクの時には向けてくれない、柔らかい笑顔。一緒にいる時間が少ないから当たり前なのに、ゆっくり時間をかけるべきだってわかっているのに、それを向けられないことがどうしてこんなに苦しくなるんだろう。
本当は、君が笑顔を向けてくれる人とボクの違いはなにかを知りたい。ボクだって君のことを大切だと思ってるのに、ボクだって君が好きなのに。君を最初に見つけたのはボクなのに、どうしてボクばかり君に怯えられるんだ。……でも、それを聞いてしまうのも情けなくて、ボクは彼女から視線を外すと窓に視線を向ける。
「……あの、」「晶ちゃん! 机借りられたよ。一緒に食べよう」
ふと、背後からトンという軽い音とともにボクに腕をまわした莉菜ちゃんがボクの背中からひょこっと顔を出す。莉菜ちゃんと名前を呼べば、何故か目の前の川蝉さんは一瞬だけ驚いたような顔をして、複雑そうに目を伏せた。
「……ごめん、邪魔した?」「いや、大丈夫。ありがとう。ごめん、先に行ってて」
すぐ行くと返事をすれば、「ゆっくりでいいよ」と言って彼女は机に向かう。彼女がいなくなったのを見送ってから、ボクはできるだけ柔らかく見えるように川蝉さんに微笑んだ。
「……なかなか行けなくて、ごめん。落ち着いたら遊びに行くから、白石さんたちにもそう伝えてくれると嬉しい」
ボクは彼女に笑いかけると、そのまま教室に入っていく。だから、ボクはその時の彼女の表情を知らない。彼女の顔を見てしまったら、きっとどうしようもなくなってしまっていただろうから。
高野さんと莉菜ちゃんとの昼食は、気まずかった。ボクと莉菜ちゃんが会話をするたびにちくりと高野さんが何かを言って、莉菜ちゃんは険悪な空気を変えようと無理矢理明るく振る舞っているのが痛いほど伝わってきて。結局、耐え切れなくなったボクは先に教室に戻ると言って抜け出した。
「ねぇ、えーと……シオセさん」「へ」
つい先ほど聞いたばかりの声に振り返れば、そこに立っていたのは莉菜ちゃんの友人の高野さんだった。思わずぎくりとすれば、彼女は「そういうの、本当……」と呟き、ため息をつきながら髪を耳にかける。
「……ちょっと、いいかな」
彼女についていくと、人気のない中庭にたどり着く。本来なら生徒が多いそこは、今日に限って人気がほとんどなかった。
中庭の花壇には、色とりどりの花が綺麗に咲いている。柔らかな花弁が風に優しくゆれて、水滴が日の光を受けてきらきらと輝いている。
高野さんは中庭の日陰に寄りかかると、目線で隣に来るようにボクに伝える。恐る恐る隣に立てば「あのさ」と彼女が口を開く。
「……莉菜のこと、好き?」「……へ」
思わず彼女の顔を見れば、彼女は真剣な表情でボクを見る。誤魔化すことを許さないような、強い表情だった。
「あたしは、莉菜のことが好き。友達としても、恋愛としても、ずっと莉菜が好きだった」
塩瀬さんはどうなのという問いにボクが俯けば、彼女は苛立ったように「ふざけないでよ」と呟く。
「莉菜はね、あんたのことが好きなの! ずっと一緒にいたあたしよりも、あんたなんかのほうを選んだの!」
彼女はボクを睨むと、小さな声で「なんでこんなやつ……」と呟いて、ボクはその言葉に思わず俯く。そんなボクの態度に苛立ったように、彼女は髪をぐしゃりとかき混ぜるとため息をついた。
「あんたなんて、どうせ誰も好きになったことがないんでしょ。誰にでもいい顔して」
違うと返した自分の声が思いのほか大きく聞こえて驚いていれば、彼女のほうも一瞬だけたじろぐ。
「……違うよ。ボクも、好きな人がいるから。……だからそれだけは、違う」
彼女に……川蝉さんに他に好きな人がいると思うと苦しいけれど、それでも好きであることには変わりはない。
ボクの言葉を聞くと、高野さんは気まずそうに目線をそらして。「じゃあ」と小さく呟いた。
「……じゃあ、早く莉菜のこと、諦めさせてよ。恋愛として全く見られてないのに、あなたのことばっかり考えてるの……可哀想で、見てられない」
高野さんはそう言うと、ボクを置いて校内へ戻っていく。ボクは彼女の姿が見えなくなってから、小さくため息をついてその場にしゃがむ。
どうすればいいのか、自分でもわからない。好きな人に振り向いてもらえない辛さは痛いほどわかるのに、それでも同じ気持ちを返すことはできない。それを申し訳なく思うことも、酷いことだと思うのに。
視界の端で、淡い桜色のハンカチと焦げ茶色の髪が風に揺れている。ボクが悲しいときに、いつも真っ先に見つけてくれるのは君なんだ。放っておいたって、見ないふりをしたっていいのに、本当はボクが怖いんだろうに、いつも君はボクを助けてくれる。
本当は、君と初めて会った時は不安だったんだ。知らない場所で、一人きりで迷ってしまって。仲の良い人もいないし、迷ってしまったボク自身も情けなくて。だけど君の優しさに、ボクは救われたんだ。君の好きな人も、きっとそういうところが好きなんだろうな。
「……あの、大丈夫、ですか」
いつか、同じセリフを君から聞いたことがある。あの時は安心したのに、今は苦しくて仕方がないんだ。
聞こえてた?と聞けば、彼女は気まずそうな顔をする。嘘がつけないんだなと思って、そういうところが好きだと思った。
君がもっと、酷い人間ならよかった。酷くて、意地悪で、冷たい嫌な奴だったら、きっとボクも君を好きにはならなかった。……君を好きになっても、こんなに苦しい罪悪感を抱かずに済んだ。
大丈夫に見えるかな。……大丈夫に、見えてたらいいな。少なくとも君には、こんな情けないボクのことを知られたくない。
「……簡単に人に優しくしたら、だめだよ」
ボクは彼女のハンカチを受け取らずに立ち上がると、きゅっと口角を上げる。綺麗に笑えていたらいいなと思いながら、彼女の横をすり抜ける。
君をとられたくない。君に、誰も好きになってほしくない。だけど同じくらい、君に幸せでいてほしい。だけど、一緒にいたらどうしようもなく苦しいんだ。
このままではきっと、ボクはいつか妙な独占欲のせいで、君のことが好きだと伝えてしまいそうだから。……だから、もう一緒にはいられないんだと思った。
ボクは彼女の近くから逃げ出すことに精一杯で、だからボクはあの時の彼女がどんな顔をしていたのかはわからない。どんな顔で、どんな思いでボクのところに来てくれたのか、ボクは知らないのだ。




