閑話 シオン②
塩瀬晶はあたしにとって家族よりもずっとずっと大切な人だった。誰にでも分け隔てなく優しくて、穏やかで、だけど少し神経質で。少女漫画の中のヒーローを彼女に強く重ねていたのだと気が付いたのは、彼女とともに中学生になってから少し経った時のことだった。
当時から、あたしの家はおかしな家だった。夜遅くまで娘が帰ってこなくても、眠りすぎて保育園へ行けなくてもなにも気にしない両親と、冷えきったままの家、そして一緒に朝食も夕食も囲むこともないダイニングテーブル。子供ながらに、酷く寒々しいその家の中を「寂しい」と思ったものだ。
寂しい。満たされたい。愛されたい────あたしが一番だって、言われたい。それは日に日に巨大に膨れて、幼いあたしにはそれはもうどうしようも出来なかった。
もともと話し方がきついことは理解していたつもりだったから、他人から嫌われても「またか」としか思わなかったし、そんなことはあたしにとってはとるに足らないことだった。そんなことよりも、持て余すような満たされたい、満たしたいと言う巨大に膨れた行く宛のない感情は次第にあたしを蝕み、息もできない程だった。
そんな中でも、あの子はただ一人、ずっと変わらずにあたしに優しかった。必ずあたしの後を着いてきて、あたしに忠実で、従順で、優しくて────あたしがアキに依存してゆくのは、時間の問題だった。
あたしはアキを失わないために、アキはあたしだけを見てあたしだけをずっと信じていれば良いんだとよく言い聞かせたものだった。そうすれば、あたしはアキを守ってあげられて、アキはあたしの心を満たしてくれる────要するに、どちらにとっても都合が良かったのだ。あたし達は。
だけどこうしてアキがいなくなったことで、あたしは強烈に思い知ることになる────本当は、アキがいないと駄目なのはあたしだけだったということに。
チャイムの音に、急速に意識を引き戻した。調整して飲んだ薬のせいか視界は冴えて、思考は酷く澄んでいる。あたしは蒸らし終えていた紅茶とティーカップをトレイに置くとモニターで来客を確認する。待っている人が来たことを確認してから応答ボタンを押せば、『乙木です』と言う声が聞こえた。
「ちょっと待ってて」
玄関の鍵を開けると「やぁ、お招きありがとう」と、アキは相変わらず人を食ったような笑みを浮かべて。白い箱が入った半透明の袋をこちらへ差し出す。
「お招きって、いつも来てるし今更でしょ。何これ」「ゼリー。お土産で貰ったんだけど食べ切れなくて、君の家に行くからちょうど良いと思って。まあ、僕もまだ食べていないから味は保証できないんだけど」
味の保証をしかねるものを人に渡すのかなんて、少々呆れてしまったけれど。ちょうど良いからお茶請けとして出してしまおうなんて考え直して「ありがとう」と言えば、「いえいえ」と返される。
「どうぞ、上がって」「どうも。お邪魔します」
にこにこと笑ったまま、アキは靴を脱ぐと隅に揃えて置く。「お育ちがよろしいことで」と心の中で悪態をつけば、いつもよりも大きなトートバックを肩に掛けていることに気が付いて。
「それ、なにか入ってるの?」「ああ、これ?君にとって良いものだよ」
そう言ってくすくすと笑う彼に、「ふぅん」と呟いて。玄関の脇のスリッパラックから来客用の紺色のスリッパを取り出して、フローリングの床に置いた。アキは、「どうも」と相変わらず人を食ったような笑みでスリッパを履いて。もう既に何度も来ているからか、勝手知ったる自分の家のようにパタパタとスリッパの音を鳴らして、あたしの部屋へと向かって行く。そんなところはアキにひとつも似ていないななんて考えながら、トレイにアイスティーと貰ったゼリー、箸置き、そしてスプーンを乗せると二階へと上がる。すると、やっぱり以前と同じタイミングでドアが開いて。「ごめん、気が利かなかった」と、やはり同じ言葉を申し訳なさそうに呟いた。
「良いわ、別に。そう言うのはあなたに求めていないもの」「ははは、酷いなぁ」
「持つよ」と言う言葉を断って折り畳みテーブルの上に、コースター、アイスティー、ゼリー、箸置き、そしてその上にスプーンと言う順番で置いて。軽くなったトレイを棚の上に置いてから、座布団がわりのクッションの上に座る。目の前のアキは、その間に鞄の中身をごそごそと漁り、一台のノートパソコンを取り出した。
「君、塩瀬が僕たちと同じ高校に通ってなかったって解ったときに、馬鹿みたいに校内を探し回ってただろ?」「一言余計だけど、まぁそうね。……まさか、通っていないとは思わなかったけど」
あたし達の通う進学校は、もともとアキと行こうと約束していた場所だった。だからあんな別れ方をしてもいつかはアキと元に戻れるはずだと思いあの高校に執着した結果、合格した────結局、アキはいなかったけど。
今更その話を蒸し返されたって頭に来るだけだと思い「で、なに?」と返せば、星花女子高校と言う高校のホームページを見せられる。
「純粋な心と大胆な行動……なにこれ?」「ここの制服の校章と塩瀬の制服の校章が一緒だったんだ。百合と撫子のデザインが特徴的だし間違いはないと思うよ。それで調べてみたんだけど」
そう言うと、アキはカチカチと部活動紹介の欄をクリックして。文化部と言うページから、『写真部』と書かれた部分をクリックする。
「ここ、写真部があるんだって。この辺で写真部がある高校って少ないし、家族に紹介でもされれば塩瀬がここへ行きたいって思っても不思議じゃないかもね?」
僕たちの家と違って、塩瀬の家は家族仲が良いみたいだしと言う言葉には、心の中で小さく舌打ちをして。星花女子高校のホームページをスクロールしながら、ぼんやりと眺めていた。
「それだけじゃないでしょ」
つい口をついて出た言葉に、アキは一瞬、きょとんとしたような表情をして。そうしてから、一瞬────本当に一瞬だけ、酷く意地の悪そうな顔でにこりと笑った。
「……確証のないことを言うのは好きじゃないんだけど」「隠し事をする人間って嫌いなの。自分が優位に立ったみたいな表情をして、馬鹿みたい」
アキはため息を吐くと、眼鏡を外して眉間を抑える。そうしてから、彼にしては珍しく、言葉を選ぶように慎重に話し出した。
「同性を好きな方も在籍してるって言うだけの話だよ。デリケートな話だから言わなかっただけ」「馬鹿みたい。あのね、同性だろうが異性だろうが他人を好きになるのは当たり前でしょ。耳障りの良いことばかり言って特別視してるのはそっちだし、そういう考え方そのものじゃない」
────でもまぁ確かに、星花女子学園に在籍してる人からしたら、勝手に噂されてるのは気分が良くないか
そう思いながらアイスティーを飲めば、珍しくアキは気まずげな表情をして。「ごめん、無神経だった」と言う言葉を、首を振って否定した。
「良いわ、別に。……ね、アキと会ったなら訊きたいことがあるの」
あたしは「星花女子学園」のホームページを指さす。行儀が悪いせいか、アキは一瞬だけ酷く嫌そうに顔を顰めて。そうしてから、「なに?」と出来るだけアキのように問い掛けた。
あたしは、微かに震える手を隠すようにきゅっと握って。出来る限り平静を装って、一番尋ねたかったことを訊いた。────訊いて、しまった。
「────あたしがいなくて」
脳の奥が痺れて、それでいて胸の奥が酷く高揚する。期待と願望と、仄暗い嫉妬心が混ざり合って吐き気がする。嗚呼それでも。あたしはきっと、頭のどこかで自惚れていたんだろう。アキはあたしがいなければ生きられないなんて。あたしの願い通り、やっぱりアキはずうっと一人ぼっちだなんて。アキがずっと、あたしだけを思って苦しんでくれているだなんて。アキのあたしに対する気持ちは、ずっと変わっていないだなんて、そんな身勝手な願望を。だって、あたしは────
「アキは、苦しんでた?寂しそうだった?……やっぱりあたしが一番だって、後悔してた?」
だって、あたしは────あたしは、アキが居なければ呼吸も上手に出来ないのに。アキだけが幸せだなんて、アキだけが満たされているなんてそんなの不公平じゃないか。あたしにはアキしかいないのに。……アキにも、あたししかいないはずなのに。
そう言えば、アキは────乙木 晶は、一瞬だけ呆けたような顔をして。その後、酷く愉快そうに頬を緩める。くつくつと堪え切れない笑みが喉を鳴らした。その行動に眉間に皴を寄せれば、彼はひとしきり笑い終えてから、目尻に浮かんだ涙を拭う。
「ふふ、ああ、ごめんね。君達ってどうしてこう、面白いんだろうね」「……喜劇を提供した覚えは無いんだけど」
あたしが眉間の皴を深くすれば、「眉間の皴は跡が残るし癖にもなるからやめた方が良いと思うなぁ」なんてのんびりと呟いて。それがまた、より一層あたしを酷く苛立たせた。
アキは深呼吸をして呼吸を整えると、「塩瀬はね」と言葉を吐き出す。それはどこか面白がっているようで、同時にどこかあたし達を馬鹿にしているみたいだった。
「塩瀬は君なんかいなくても、ちゃんと幸せそうだったよ」
笑い混じりに吐き出された言葉は、願望とは真逆のもので。強烈な嫉妬心で吐き出しそうなのに、どこかほっとしているのはどうしてなのだろう。
息苦しい。羨ましい。妬ましい。寂しい。苦しい。懐かしい。愛しい。色々な感情が頭の中でぐるぐると混ざり合って、気が触れてしまいそうだ。
「……そう。そう、なの。アキは、あたしがいなくても、何ともないの」「ああ。それはもう清々しいほど普段通りだったよ。高校へ行って価値観が変わったのかもしれないね?星花女子高校って、ちょっと調べたら僕達の最寄りから二時間は掛かるじゃないか。今まで出会ったことのない人と触れ合って、勿論知らない人ばかりの学校だから自分でも努力して、新しい友人を作って……そんな達成感のある毎日、普通の人なら楽しくて仕方がないんじゃないかな?」
アキは、嫌になるくらい優しく笑っている。眼鏡の奥の瞳からはその真意は読み取れない。嗚呼、息苦しくて、寂しくて、苦しくて、妬ましくて────そして、どうしようもなく愛しい。
あたしはずっと、アキを可哀想だと思っていた。孤独で、優しくて、純粋で、綺麗で────そんなアキがあたしを好きだって言うことが、誇らしくて可愛くて堪らなかった。あたし達は、お互いがお互いの唯一だったはずだ。そうでなければ、息も出来なかったのだから。
だけど、それを手離したのはあたしで執着しているのもあたしだけ。だからきっと、あたしは全部間違ってるんだろう。
だけど、すがったって、愛したって、執着したって良いじゃないか。あたしにはアキしか居ないんだから。苦しい。アキが欲しい。アキの笑った顔が欲しい、アキの、あの少し照れたような顔が欲しい、あたしがキスしようとすれば、慌てて口を塞ぐあの掌の熱が欲しい、アキが欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。
彼は────乙木君はそんなあたしを見て、酷く愉快そうに笑っていて。歪められた形の良い唇は、「塩瀬は君のことなんて忘れちゃったんじゃないのかな?」なんて、呪詛のようにあたしに言葉を投げつける。
「────アキが欲しい。アキはあたしだけのアキよ、絶対誰にもあげない」
吐き出した湿った言葉は酷く濁っていて。それはもうあの頃の熱も、純粋な美しさも無くなってしまっていた。不意に白い腕が視界に映って、パソコンを閉じた。パタンともカチリとも似つかない微かな音が、あたしの鼓膜を震わせる。
「────じゃあ、」
アキは、その白く細い、しなやかな指であたしの髪を柔らかく鋤いて。駄々を捏ねる子供を宥めるようにその髪を耳に掛けると、やけに優しい声で、甘やかすように囁いた。
「じゃあ、僕の案に、乗ってみる?」
あたしはアキによく似たその整った顔を、呆けたように見つめて。昔、深夜にアキとよく見た夜空のようにその瞳が瞬くのを見ていた。
「ね、紫音」
アキは甘やかすように、あたしじゃない誰かの名前を呼んで。「どうする?」と、優しい眼差しで呟いた。
伸るか反るか。大博打を選ぶのも、全てあたしが選択することだ。だから────
「────それ」「うん?」
あたしはこくりと息を呑むと、乾いていた唇を湿らせて。そうしてからゆっくりと口を開く。
「それ、聞かせて」
震える唇でそう言えば、アキは酷く嬉し気に微笑んで。「勿論だよ」なんて、酷く嬉しそうに口を開いた。
────アキから聞いた提案は、現状のアキとあたしの関係を鑑みれば、酷く荒唐無稽な話で。それでも実現不可能ではない辺り、よく練られている計画なんだろうと思う。
「────どう?物語の結末としては、そう悪くないと思うけど」
そう言って笑う彼に、「そうねぇ」と返して。現状を維持しながらじわりと追い詰めてゆくその方法は、何よりも一番あたし達の性格に合っていた。
あたしは窓際へ近づくと、白いレースのカーテンの隙間から少しだけ窓を開ける。五月の若葉の匂いが柔らかく鼻腔を擽った。
お昼時が近くなっているからか、休日にはいつも五月蠅いくらいに響いていた子供の声はもう聞こえなくなってしまって。日だまりの中に沈んでいる自分が、まるでここにはいないみたいだった。
「────『お前ら、女が好きなんだろ』」
黄緑色に染まる空地の葉を見つめながら、そんなことを呟いて。振り返らなくても、アキが怪訝そうな顔をしていることが解っていた。
「ずっと昔、子供の頃にそう言われたの。女同士でくっついてて気持ち悪い、お前らは変だ、お前らはおかしい」「紫音?」
嗚呼、紡がれた名前さえも、本当はあたしじゃないなんて。何だか酷く滑稽で笑ってしまう。
「あたしはね、アキが女でも男でもどっちでも良いのよ。あたしはアキの、従順で、優しくて、穏やかで、可哀想で────同じくらい、あたしのことが大好きなアキが大好きなの。あたしが大好きなのに報われない、可哀想なアキが一番可愛いのよ」
あたしは────私は、ゆっくりアキを振り返って。出来るだけ意識をしてにっこりと微笑む。
「ねぇ、アキくん」
そう言えば、目の前の乙木 晶は驚いたような表情をして。そうしてからゆっくりと、「どうしたの、紫音さん」と微笑む。
「……それ、乗った」「そう、嬉しいよ」
楽しみだねと言う言葉に、「ええ」と返して。テーブルへ戻ると、ゆっくりと紅茶を飲む。紅茶の淹れ方を教えてくれたのはアキだった。あたしが少しでも良く眠れるようハーブティーを淹れてくれるためだけに、紅茶の淹れ方を学んでいたらしい。アキは優しい子だ。優しくて、純粋で、穏やかで────だから時々、どうしようもなく傷付けたくなってしまう。苦痛に、悲しみに歪んだ顔を見たくて堪らなくなってしまう。
「……ねぇ、乙木君」
向い合わせで紅茶を飲む彼を呼べば、彼は相変わらず何を考えているのか解らない表情でにっこりと微笑んで。「……なんだい、橘さん」と、少し冷たい声が答えた。
嗚呼、きっと。この人は自分が不利な状況になれば、あたしのことなんて簡単に切り捨ててしまうんだろう。だってあたし達は所詮、お互いがお互いの身代わりなんだから。
「あたしね、アキのことが大好きなの。おかしくなりそうなくらい、あの子が可愛くて、大好きで堪らないのよ」「ああ、もちろん。ボクはちゃあんと解ってるよ」
くつくつと喉を鳴らして笑う彼に、「そう」と答えて。アイスティーに口をつけてから、トンと机の上に置いた。
「────貴方だけは、どうか覚えていてね?」
真っ直ぐに彼を見てそう言えば、彼は一瞬だけ酷く動揺したように瞳を揺らして。それからゆっくりと、あのどこか人を食ったような笑みで「ああ」と答えた。
それから一時間後、薬が切れる前に彼とあたしは自宅前で別れて。あたしは玄関の鍵を施錠すると、コップと豆皿、スプーンを洗って食器棚へ仕舞う。それから、お互いに口を付けなかったゼリーを冷蔵庫へ仕舞うと、次第に重くなる瞼と身体を引きずるように自室へ戻りベッドに身体を沈ませた。暗闇の中に呑み込まれるような優しくて恐ろしい脱力感に身を委ねて意識を手離す。
アキ。あたし、アキのことが大好きよ。あなたにはあたししかいないし、あたしにもあなただけ。あなたはお伽噺の可愛い可愛いあたしの王子様。……あたしだけの、王子様。だから────
────だから絶対に、誰にもあなたをあげないわ。




