十五輪
「────初めまして。…………川蝉、弥斗さん」
舌先にのせた名前をゆっくりと声に出せば、川蝉さんは戸惑ったような瞳でこちらを見つめていて。少しだけ見つめあってから、小さな声で「あの、」と言葉を紡いだ。
「────あの、初め、まして。…………塩瀬、 晶さん」
「白石さんから、簡単なお話は聞いたのですが」と言う彼女は、やはり何処か怯えたような顔をしていて。出来るだけ怖がらせないように少し屈んで視線を合わせる。
「────はい。その、白石さんに無理を言ってお願いしてしまって。…………それなのに、来てくれてありがとうございます」
そう言って笑えば、びくりと再び肩を震わせて。そうしてから、少しだけ怯えたように「いえ」と呟いた。
お腹の底がぐらりと揺れて、再びあのふわふわとした感情に包まれてゆく。単純な感情が、ひとつひとつパズルのピースのように重なってゆく。
どうしよう。何から話そう。あんなに考えてきたのに、いざとなったら頭の中は真っ白で。ふわりと鼻の奥に残る花の香りは、言葉を溶かしてしまったようで。
戸惑ったような川蝉さんの目を見て数回深呼吸をしてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「────…………初めましてじゃ、無いんです。本当は」
紡いだ声は、言葉は、酷く震えていて。「嗚呼、情けないな」なんて、頭の片隅でぼんやりと考えて。それでも、頭で考えるよりも先に言葉はどんどん溢れてきて。
息苦しいほどの言葉に溺れてゆく。伝えたいことがありすぎて、それでも何を伝えれば良いのか解らなくて泣き出してしまいそうだ。
お礼、感謝、それから、それから、それから────
「────…………四月の最初に、教室を案内してくれて本当にありがとうございました」
震える声で、何とかその言葉を紡いで。その後から、慌てて言葉を付け足してゆく。
「あの、案内してくださったお陰で、あの後無事に写真部に着けて。有り難いことに、三組の猫山さんとお話しさせて貰ったりもして。あっ、猫山さんは猫が好きで、SNSに────って、同じクラスだから知ってます、よね。はは」
不必要な言葉を付け足してしまったのは、目の前の彼女────川蝉さんが、戸惑ったような表情のままでいたからで。もしかしたら、なんて嫌な予感が背筋を伝ってゆく。
もしかしたら。もしかしたら、彼女は────
「────…………ごめん、なさい」
川蝉さんは怯えたような、それでいて申し訳なさそうな表情をして。「白石さんからも、簡単に事情はお聞きしたんですが。……その、とにかく、学校に慣れることが最優先で」と言葉を紡ぐ。
────その先に続く言葉は、容易に予想できてしまった。
だからと彼女が呟いた声が、やけに大きく聞こえた。薄い桜色の唇が、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「だから────…………ごめん、なさい。あまり、覚えていなくて」
「もしかしたら、そんなお話をしたかもしれないですが」と言って目を伏せてしまった彼女に、沸き上がってきた苦い気持ちを噛み締めて。そんなこと、当たり前だよななんて頭の中で冷静なボクが呟いた。
「────い、いえ。良いんです、お礼が伝えたかっただけなので」
「ええと、」と、必死に会話の糸口を探ろうとしてもなかなか上手くはいかなくて。互いに何処か気まずいような気持ちを食みながら、押し黙ってしまう。
嗚呼、酷く息苦しい。知られていないことなんて、簡単に予想がつくはずなのに。そもそも、あの一瞬の出来事を覚えている方がよほど珍しいことなのに。
とは言え、これだけショックを受けてしまっていると言うことは、恐らくボクは少しだけ自惚れていて。そして────期待をしてしまっていた、と言うことになるのかもしれない。
────あきらちゃんってさ、
聞こえない声が聞こえた気がして、思わずびくりと肩が跳ねた。高くて鼻にかかった、少し甘えた声。嘲笑も侮蔑も知らないはずなのに、誰よりもそれを的確に抉ってくる声。
────おんなのこなのに「ボク」っていうの、へんだよねぇ
────ぼく、このまえしおんちゃんとてをつないでるのみたよ
────あっ、はいはい!わたし、このまえテレビでみた!
────「そういうの」ってさ────
「────ごめん、なさい。その、わざわざ呼び出したりしてしまって。あの、本当に、何もやましいことは無くて。その、」
────「そういうの」ってさ、へんなんだよ!わたしのぱぱもままも、いってたもん!
「────ボクは、その、ボクは単純に、君と────」
言葉が脳の奥で絡まってゆく。固まりになった言葉は、ゆっくりと喉につかえて呼吸を奪ってゆく。
嗚呼、情けない。嫌になる。ボクは気持ちが悪い?違う。でも、それを証明する手だても無い。
単純な感情が絡まる。DNAのような螺旋を描いて、その螺旋が何よりも的確にボクの首を締めてゆく。人を好きになることは変なのか。それが同性であるだけで、どうしてこんなに苦しくなるのか。割り算の時に出る余りみたいに扱われなければならないのか。考えたって、解らないのに。
世界は少しずつ彩りを失って、ぐるぐると言葉はまわる。伝えたかった言葉と、ボクと「彼女」の関係性を否定する言葉。「お前はおかしい」なんて言葉が、頭の中に冷たく響いた────時だった。
「────ゆっくりで、良いですから」
不意に澄んだ声がボクの耳に響いて。不明瞭な意識が、次第にクリアになってゆく。世界の色は、少しずつ彩りを取り戻してゆく。
慌てて俯いた顔を上げて彼女を見れば、彼女は少し怯えたような瞳で、それでもそろそろとボクの背中を擦っている。
「…………その、私も話すこと、あまり得意じゃなくて。話すことも、男の人も、ずっと怖くて。…………その、自分に、自信もなくて」
背中を擦っている手が震えているのが解った。穏やかな熱が心の奥に染み込んでゆく。
────焦らなくて良いんですと、耳元で彼女が呟いて。その言葉にゆっくりと息を吐いた。
「────…………気を遣わせてしまって、ごめんなさい」
小さく言葉を吐き出して、滲んだ傷の痛みを食んで呑み込んだ。気付いてしまった感情と痛みを、彼女に悟られないように。
心の奥が軋む。ぽっかりと穴が開いたその心は、代わりを流し込まれて綺麗にならされてしまえば、それでもうお仕舞いだ。ならされた傷の行く末なんて、誰も気にはしないから。
小さく息を吐いて、「嗚呼、あの時はどうしたんだっけ」なんて、頭の中でぼんやりと考えて。考えて、考えて、それで────
────ばかばかしい。ひととちがっていて、どこがおかしいの?おんなのこがおんなのこをすきだったら、いったいなにがおかしいの?あなたたちに、なにかめいわくをかけるの?
「────っ、あの!」
突き動かされたのは、その鼻にかかる甘い声が聞こえたのとほとんど同時で。大きな声を出してしまったのが悪かったのか、彼女がびくりと肩を跳ねさせた。
戸惑ったような、何処か怯えたような表情でこちらを見つめる 彼女に、大きく深呼吸をしてから溢れてゆく痛くて甘いこの感情に、無理矢理にでも名前をつける。
「────あの、ボクと────…………」
彼女は驚いたようにこちらを見つめている。柔らかくて甘い花の香りがボクの鼻腔を擽る。ふわりとしていて、真っ白で、そしてどうしようもなく求めてしまうこの関係は────
「────ボクと、友達になってくれませんか?」
勢い良くそう伝えれば、川蝉さんは驚いたように目を見開いて。そうしてから、戸惑ったような表情で視線を左右にさ迷わせた。
────無理もないななんて、頭の中で冷静なボクが呟く。ボクだって、突然出逢ったばかりの人に「友達になって」なんて言われれば戸惑ってしまうだろう。
とは言え、ふと頭の中を白石さんが過って。何事も例外はあるけどと付け足した。
「────その、君と話してからずっと、君ともう一度話したいって思っていて。好きなものとか、嬉しかったこととか、幸せだって思う瞬間を共有したりとか────…………君自身の事を知りたい、とか。その関係は何なのかって、ずっと考えていたんですけど────」
顔に熱が集まっているのが解った。言葉の羅列が、ゆっくりとボクの脳を追い詰めてゆく。
嗚呼、きっと。これが正しいのかなんて、誰にも解らないことだけれど。
「それは────友達なんじゃないかって、そう思って」
────どうでしょうかなんて、情けない言葉が尻すぼみに溢れてゆく。言い終えたはずの言葉は、それでも胸の何処かに小さなしこりを残していて。伝えたかった言葉もなりたかった関係も間違ってはいないはずなのになんて、何処か煮え切らない不透明な感情を抱えていた。
柔らかな春の風が、ボクと彼女の間をすり抜けてゆく。「終わってゆく春はいつだって寂しいの」なんて、「彼女」が呟いた気がした。
「────私、は、」
川蝉さんは、その色素の薄い瞳を伏せて言葉を呟いてゆく。白い頬を、長い睫毛の影が縁取った。
ふ、と小さく息を吐く音が聞こえた。澄んだ声が耳の奥で反響する。
川蝉さんは、何処か迷っているような表情をして。「私は、」と再び呟いて視線を左右にさ迷わせてから、まっすぐにボクを見つめた。
「────私は、塩瀬さんが思っているほど、優しい人じゃ、ありません」
────自分に自信もなくて、コミュニケーションも、あまり得意じゃなくて。自分で自分を、認めてあげられない。
川蝉さんは何処か自嘲的で。吐いた息は何処か湿った重さを持っていた。
────それだって良いなんて、呟いた言葉の熱に自分自身で驚いて。君が傍に居てくれるならそれで嬉しいんだなんて、熱を持った言葉が身勝手に積み上がっていって、身勝手に川蝉さんの前に積み置かれる。
「────っ、ボクは、君を────」
湿った重さを持った熱は、身勝手に心の奥に棲みついて。簡単にその心を食い破ってしまうのだから、ほとほと救いようがないなんて頭の奥で「ボク」が冷静に呟いた声を、何処か他人事のように聞いていた。
関係性とはいつだって、踏み出した瞬間に変わってゆく。手を引かれた瞬間に、世界はいとも簡単に色づいてゆく。
深呼吸をして、まっすぐに彼女を見つめて。ぐしゃぐしゃに丸められた脳から、少しずつ纏まりのない言葉が生まれてゆく。
「君を────君を、もっと知りたいんだ。君が好きなものも、君が嫌いなものも。嬉しかったことも、幸せだったことも、少しだけで良いから君と共有したい。君の目で見た世界を、ボクも見てみたい」
────君が笑ってくれることを、知りたいんだ。
吐き出した言葉はしどろもどろで。支離滅裂で、脈絡も無くて。考えていた言葉なんて何一つ入っていなくて、ぼろぼろでみっともない言葉ばかりだなんて、頭の中で冷静な「ボク」が笑っていた。
「君が、君を優しくないって言うのなら。優しくない君のことも知りたい。────っ、その、ボクは「へん」だけど、なるべく君に迷惑を掛けたり、傷つけたりしない。────……その、既にこれ自体、迷惑かもしれないけど」
嗚呼、情けない。厭になる。もっとちゃんと、きちんと整った言葉を彼女に伝えるつもりでいたのに。結局していることと言えば、みっともない予防線を張り巡らせているだけだ。
「────っ、その、だから。もしも君が、不快でなかったら────」
掌が震える。利き手と反対の右手は、強く拳を握り締めすぎてもう真っ白で。掌に爪が食い込んでゆく痛みが、ボクを繋ぎ止めている。
ボクは緊張で震える左手を彼女に差し出して、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「────ボクと、友達になってくれませんか?」