ゴボウは優しい夢を見る/川蝉 弥斗
※軽度暴力描写有り
子供の頃の記憶でいつも真っ先に思い出すのは、私を庇うように覆い被さる母の姿だ。「ごめんなさい」「許してください」と、壊れたテープレコーダーのように何度も何度も繰り返し呟いて、幼かった小さい私の体をその痛みから守るようにぎゅっと抱き締めた。
幼かったわたしは、積み上がった酒缶の隙間から目の前で与えられる理不尽な暴力を泣きながら見つめている。「何見てんだよ」と言って、その人は私の背中を思い切り蹴った。
サッカーボールみたいに、小さな体がフローリングの上を転がってゆく。わたしの名前を呼ぶ母の声がどこか遠くから聞こえていたような気がした。
どうしてこうなってしまったんだろう。わたしも母も、この人に何もしていないのに。この人も、お酒さえ飲まなければこんな人にならないのに。この間、もうお酒は飲まないって約束してくれたのに。昨日まで、優しかったのに。
髪を掴まれた母が小さく悲鳴を上げる。助けないとと思うのに、体が動かない。その暴力が服で隠れる箇所に集中しているのを眺めながら、「ああ、まただ」と頭の中でぼんやりと考えていた。
また、誰にも気付いて貰えない
転がった缶ビールの空き缶と点々と床につく血痕を見つめながら、わたしはゆっくりと意識を手放す。機嫌が良かったときに父が買ってきて、それを見た母が花瓶に活けたキンセンカが、頭を垂れながらわたしを見つめていた。
「……しおせ、あきらさん?」
一年三組の教室で、同じ園芸部に所属している白石さんから話を聞いたのは四月に入って少し経ってからだった。話の合間にわたしに手作りのラッピングされたクッキーを差し出され、戸惑いながら受けとると何事も無かったかのように話を続けた。
「四月に校内で迷ってしまって、弥斗さんに案内して頂いたそうで。「お礼が言いたい」って、探していらっしゃるみたいです」
「どうしますか」と尋ねられた言葉に俯いて、曖昧に言葉を濁す。どう言えば良いのか解らずに、「律儀な、方ですね」と言えば「ふふ」と白石さんは微笑んだ。
いくら星花の生徒とは言え、名前も存在もあまり良くは知らない人と会うなんて、恐ろしいに決まってる。断ろう。クラスの人と話すだけでも精一杯なのに、他のクラスの人なんて、怖くてもっと話せない。
断ろうと口を開いた瞬間、飛び出してきた言葉は真反対で。そんな言葉が出てきたことに、自分が一番驚いてしまった。
「……わかり、ました」
飛び出した言葉は予想外で。あっと思い、慌てて取り消そうと口を開けば、「良かった」と白石さんが微笑んだのと同時で。
「塩瀬さん、本当に弥斗さんに会いたいみたいで。じゃあ今度、都合のつく時間を相談しましょうか」
わたしは去っていく彼女に手を振ると、ぼんやりと先ほどの話を思い出す。
────しおせ、あきらさん?
そもそもどう言った外見の方なんだろうなんて、肝心な部分を聞きそびれてしまったことには気付かないままだった。
結局、人間の記憶力と言うものには人それぞれの個人差があって。目が回るほどの忙しい日常の中で、わたし自身も何があったかなんて覚えていない。
「四月の最初に、教室を案内してくれてありがとうございました」
だからその事を覚えていなかったことも、仕方のないことだ。震える声で話す彼女を見つめながら、私は心の中で焦りにも似た感情を抱えていた。
校内案内をしたと言うことは、もしかしたらあったのかもしれない。目まぐるしいほどの高校生活と近頃は激減した父からの暴力がいつ再び母と私に向くのかを考える度に毎日が気が気ではなくて、だから少しだけ他者に対する気持ちが疎かになってしまっていた。
一瞬だけ、「このまま知っている振りをして、話を合わせてしまおうか」なんて思う。けれど、それは目の前の彼女に対して、失礼かもしれないとも思う。
「ごめんなさい。あまり、覚えてなくて」
わたしがそう言うと、気まずい雰囲気に包まれる。それに気づいたのか、塩瀬さんは慌ててフォローをしてくれる。その焦りように、気を遣われているのがわかった。
「き、気持ち悪くて、ごめんなさい」と、塩瀬さんがつぶやく。それはどこか舌足らずで幼く聞こえた。
「……どうして?」
わたしは、なるべく優しく聞こえるように尋ねる。塩瀬さんはわたしの言葉に、慌てたようにこちらを見つめる。
「びっくりは、したけど。気持ち悪くはない、です」
彼女は驚いたように目を見開くと、急に泣き出しそうな顔をする。
「あの、ボクと、友達になってくれませんか?」
少し震えた手を見て、どこか怯えたように彼女は話すんだと思った。
「────私は、」
だから、彼女に自嘲的な言葉を吐いてしまったのも、どこか彼女を信じきれない自分が根底にいたからだ。
「私は、塩瀬さんが思っているほど、優しい人じゃ、ありません。自分に自信もなくて、コミュニケーションも、あまり得意じゃなくて。自分で自分を、認めてあげられない」
だから友達になれる資格なんて無いと暗に示せば、「それだっていいよ」なんて熱の籠った言葉に、一瞬呼吸を止めた。
「君をもっと知りたいんだ」と、塩瀬さんは言葉を紡いだ。優しくない私のことも知りたいって、なるべく迷惑なんて掛けないからという姿が、昔の私と被って見えた。
頭の中で警笛が鳴る。この先を聞けば、もう他人じゃいられない。予想できた筈のその言葉を、緊張で震える左手を差し出して、塩瀬さんはゆっくりと紡いだ。
「君を、知りたいんだ」
反射的にその手をとった。すらりとしたその指は、彼女の姿形にとてもよく似ていて。けれども何処か、柔らかな感触を持っていた。
何かが変わるような気持ちがして、私はゆっくりと「彼女」に視線を合わせた。その感情は、初めて植えた花が蕾をつけた瞬間にとても良く似ていた。
小さく言葉を吐き出せば、繋がれた手を驚いたような表情で見つめていた塩瀬さんとかちりと目があって。整ったその顔が、心配そうにこちらを見つめる。
「もしも、貴女を傷付けてしまったら?もしも、貴女を悲しませてしまったら?そうしたら、きっと貴女は私なんかと友達にならなければよかったって、そう、思います。だから、だからいつでも私のことなんて、見捨ててくださって良いんです」
吐き出した言葉はいつだって、逃げ出せるように予防線を張っているのに。繋いだ手が震えていることも、紛れもない真実で。
────お前なんて産まれてこなきゃ良かったんだよ
────俺も、失敗したよなぁ
吐き出された鋭い言葉と、引っ張られた髪。癇癪を起こして思い切り割られた瓶ビールの破片を踏んで、血が出たとき。泣いている母親と、大鼾をかいて眠るその人を横目に見ながら、8枚切りの食パンを一人でかじった。
きっと、あの頃の私が求めていたものは無条件に与えられる愛情だ。それでもあの頃の私は、それがいったいどんな姿をしているのか解らなかった。だから、花を育てた。一生懸命育てた花が、幸せそうに咲く瞬間が好きだった。
捨てられるのは、傷つけられるのは、傷つけるのはいつだって怖い。だから、最初から触れなければ傷つくこともない。だから────
「どうして、」「え」「どうして、君がそんなことを言うの?」
ボクは君に救われたのになんて、何処か迷子の子供のような表情をした塩瀬さんをぼんやりと見つめて。泣き出しそうなその目が、たじろいでしまうほど真っ直ぐに私を見つめていた。
どうしてって、だって、そんなの。頭の奥深くで、思考がぐるぐると回ってゆく。錆び付いた感情が、痛みを伴って回りだす。
それでも、その感情をうまく言葉にすることも出来なくて。思わず俯いてしまった私に、「ごめんなさい」と塩瀬さんは呟いた。わたしは戸惑いながら左右に首を振って、「大丈夫、です」と返せば彼女は目を伏せて頭を左右に振った。
「違うんだ。いつも口に出そうとすると、頭の中で言葉がいつもこんがらがってしまって。その、君を傷つけようとは思ってなかったんだ」
泣き出しそうな目は、やっぱり私を真っ直ぐに見つめていて。その目はやっぱり、幼い頃の私に似ていた。
花の香りが鼻腔を擽ったような気がした。ほのかに甘いのに、風にすべて消されてしまうほどの微かな香り。触れればちくりとして、けれどとても柔らかくて。もっとずっとその花を知りたいなんて思ったから、花言葉を調べ始めたんだ。
花を育てる時はいつだって調べることから始まる。肥料、時期、かかってしまう可能性のある病気、毒を持っているか否か。それはきっと、人間も同じなのかもしれない。
繋がれた手の先に、もしも未来があるのなら、その未来を見る資格を私に与えられているのなら、それはどんなに幸せなんだろう。
私はゆっくりと口を開いた。断ろうと思っていた言葉は、いつの間にか全く別の言葉へと変化していた。
「私にも、塩瀬さんのこと、教えてくれますか?」
震える声で言葉を紡げば、彼女は驚いたように目を見開いて。泣き出しそうなその顔が、「もちろん」と呟いた。
「もちろんだよ、全部あげるよ」
そう言って彼女が笑うから、何だか私まで柔らかな気持ちに包まれたような気がした。
塩瀬さんと別れたその日の晩、夢を見た。真っ暗な部屋の中で、蹲って泣いている夢。どこまで行っても暗闇で、歩き疲れてしまった私はその場に蹲って座り込んでしまう。体を縮こませて、息を殺して泣いていた。
────ねぇ
不意に、澄んだ声が聞こえた気がして。俯いていた顔を上げた。
滲んでゆく視界に光が映る。影は私の手をとって、呟いた。
────君が笑ってくれることを、知りたいんだ
触れられたその手は、少しだけ冷たくて。告げられた言葉は震えていて。けれど同じくらい、どうしようもなく優しかった。




