14
街の外れの倉庫群を抜け、港の手前で車が止まった。
『着きました』
ホナミはPGで時間を確かめようと手をかざすが、窓は出なかった。
「壊れてる……」
思う以上の独り言を漏らす。隣にいる亘を見て顔を赤らめ窓ガラスに目をそらすと、横目で見ていた亘がPGを起動させた。
「だいたい三時前。眠たきゃ寝てもよかったのに」
「……亘はどうなの?」
「まあ、なんだ。夜行性だからな」
亘はあくびをかみ殺しながらドアの把手に手をかける。扉を開けば蒸した空気が車内に入り込み、余計に車から出ようとするのを杞憂させる。
自動でドアが開きホナミも出ると、潮風の匂いが鼻腔を通るのを感じた。
見ると倉庫の向かいに港があり、闇の方にさざなみが聞こえる。
亘が車を回り込んで倉庫の方へ向かい、潮風で髪を揺らすに任せたホナミへと呼びかける。
「明るいうちならもっと見えたんだけどな」
「いや、別に……観てたわけじゃないよ」
「ここ、ぼんやり過ごすにはいいところだって同業者のおっさんが言ってたな。知能面の役割に置かれてるくせに、よくサボってるから雑用ばっかやってる」
「ふーん……」
「……なんだろう。ごめん」
つまらなそうに暗がりの海を見るホナミに苦笑する。亘は、この気まずさからすぐにでも脱却してしまおうと考えると、むしろ落ち着かずにいた。そんな中で決めていたことを思い返していると、ふいにホナミがその場にへたり込んだ。
「おい、大丈夫か!」
ホナミは亘が駆け寄るのを見て、
「ごめん……ちょっと疲れてた」
「すぐ部屋に行こう」
亘は細身でだらりと下がった腕を取って肩に背負う。されるがままに肩に背負われ、そのままロボットアームと足でしがみついた。亘は太腿を持って軽々と立ち上がり、背中に当たる緩やかながら柔らかい起伏、耳元の吐息の声、脇腹を締め付ける太腿の感触に気を持っていかれそうになった。
「車は?」
「——え?」
「置かれた車どうするの?」
「ああ、捨てられるよ。あれ盗品だし。ほら」
流れるような動作で海へ方向変換した車が、急激にタイヤを悲鳴のごとく唸らせ海に飛び込む。そのままその金属の塊は、闇の中に吸い込まれ消えていった。
沈み終わるのを待つまでもなく、ホナミを背負ったままコンテナの方へ歩いていく。亘はこれまで以上に火照りを感じながら、ふと思った考えを振り払った。
「大丈夫か? 俺こういうのはよくわからないんだけど」
「何が?」
「いや、なんというか。変なとこ触ってないか不安になってきてさ」
「いや、特には——」
言葉を終える前に、目もくれず耳まで赤くした亘の言わんとしてることを察し、釣られて赤くなっていた。
「いや、まあ……今だけは……」
「本当にすまないな。慣れてなくて」
「でも、なにか安心する」
気づかれていない隙を見て、さりげなく少し身を寄せてみる。どう見てもどこにでもいる普通の青年の顔は、固くこわばっていった。
お互いに熱帯夜とは違った暑さに悶々となりながら、少し見上げるほどの高さのコンテナの前に到着した。
扉を閉じた認証システムにカードキーを差し込む。コンテナはロックを外し、左右へと扉を開け放つ。塗装剥がれで古錆の露見した見た目に反し、室内は広く整っていた。
「ここだよ。ここが俺の普段使ってるところ」
「へえ……」
自動で電気が灯る。そのまま部屋へと上がる。ふと、亘はホナミが傷だらけの裸足であることに気がついた。
「裸足……」
「夢中だったから、靴履かずに来ちゃった」
「痛みはないのか?」
「ないわけないけど——言えなくて」
ホナミを白いベッドに運ぶ。ホナミは腰かけて、息を吐いた。
「言ったら、隠したいことすらも隠せなくなっちゃうから」
「隠したいことって……」
そう言うと、バックパックから右のロボットアームが伸び、亘へ人差し指をさした。
「……何があった?」
「これ、今の腕の代わりだってさ。醜いでしょ?」
悲しげに笑うホナミに亘は困ったように言葉を失った。そのうちに、少女の顔からいたたまれない笑顔は消えて表情に影が差し、ロボットアームはすぐに戻された。
「ごめん」
「…………」
ホナミの目が潤む。溢れる感情にこらえきれず目元を拭おうとすると、亘が隣に座った。
「変わってても変わってなくても同じだ」
「え……」
さりげない動作でホナミの手を握り、自分の左手とホナミの右手の指が絡み合うのを確かめる。お互いに、気恥ずかしさで隣を見つめることさえも出来なかった。
「ほら、こうやって握ってても平気だろ? だから、何というか、きっと大丈夫というか、何とかなるだろうって思うっつか」
「……でも、わたしは、機械改造されて、異形の腕と力を持って、人を殺して——」
「そんなことをしてもホナミは変わらない。少なくとも俺はそう思ってる」
「でも——」
「まだ信じられないなら、信じられるまで離れないでいるから」
ホナミの続く言葉が途切れる。いつの間にか、答えを返す意味も必要もなくなっていた。彼のその背中に自分の背中を委ねてしまえたらと考えていた。
亘の手が少し汗ばんでいるのを感じた。勇敢さを見せた彼の横顔は、少しばかり熱っぽく変わっていた。
「ね、ずっと信じられなかったらどうする?」
「もちろんずっとだ」
「じゃあ、一生だったら?」
「もちろん——」
亘は口走る前に、訊かれた問いの意味に気づいた。
「——言わなくても決まってるはずだ」
「言わないと分からないよ!」
「……そりゃもちろん、一生だ!」
亘が顔を逸らして言う。
ホナミはそれを聞き、いたずらっぽく安堵した表情で亘の肩に身を寄せる。亘はただ逃げようもなく身をこわばらせ、ささやかな寝息が聞こえるようになっても、しばらく動けずにいた。
気がつけば知らない海にいた。
鮮やかな陽炎の海に沈んでいく。
どれほど時間が経っているだろうか。這い上がろうともがけばもがくほど、裏切るように、見えない深く不明瞭な底に引きずり込まれていく。
ナツミはここまでの経緯を思い返す。炸裂する空からの機銃に気を失い、それから——
知るはずもなく、だからこそぞっとした。海にしては身が重くなく、空にしては身が軽くない。海に近いが、空にも近い。そこは人生に見たどこでもなかった。
見上げた頭上に何十倍にも膨らんだ光が広がる。この光は水槽越しに見る太陽なのだろうか。ナツミはふとそんなことを思った。
その時、身に這うような激痛が走った。ナツミの顔から胴体、腕へ脚へと沿う刃の痛みが、精神を蝕んだ。
刃であるかは定かではない。緩やかに裂いていく痛みの先を見ると、その腕その指は粗い素子で構成されていた。指の感覚と見える指は同じものだった。ミトンかグローブほどに肥大した不恰好なそれは、あまりに醜く目をそむけるほどで、思わずかすかに悲鳴を漏らした。
「なにこれ……」
顔であるはずの感触を確かめて覆う。手のひらが覆うこの顔も醜い素子だと、そう思うほかになかった。身体が沈むことより、何か不気味な自分の身体がおぞましく思えた。
『深層空間。真実を幽閉する禁忌に辿り着いたの』
どこかからか聞こえた声はナツミ自身の声だった。
「ダれ?」
今度は肉声とは違う何かの声が聞こえた。こんな声を、年季の入ったスピーカーから聞いたことがあった。喉を触ってみる。ナツミの身になにひとつ異常はなかった。
『わたしは、あなた自身。あるいは——』
「アるイハ……?」
『ヴェールコア。あなたの影を弔った棺』
「ヴェールコア……」
いま願うのは、それが冗談であってほしいということだった。沈むばかりの抵抗できない身体に、煩わしく思えた。
『記憶を返してあげる。それがわたしの、たどり着いた者への報酬』
「きヲく? ナんノ?」
『始まりの記憶、第一次構造物災害。それ以前の巻き込まれた記憶も全て』
「…………」
裂かれる痛みはいつしか治まっていた。ナツミは何か揺れたような気がして、覆っていた醜悪な手を除けると、赤いヴェールのドレスを揺らす少女が目の前に現れた。それは彼女自身だった。
『その姿はあなたの成れの果て。自分さえ畏怖する怪物に、知らず知らず変わっているの』
「ドうイウこト……?」
『あなたは多くを知る。だから決して、運命に翻弄されないで。自分の選択を誤らないで』
優しく切実な、そんな言葉を最後に、ナツミの目の前に目の前に暗闇が訪れた。
カーテンを隔てて隣り合う寝台。退屈のあまりカーテンを開けて向こうを覗く。
スズナと初めて会った記憶、だったもの。
「あなたも、わたしと同じ?」
その隔たりの向こうのスズナに笑顔で声をかけていた。同じだと思っていた。しかしそれは違っていた。
「……そうかも」
この時、お互いは知るはずがなかった。恨むべき者と恨まれるべき者の隔たりを。
「ええっと、名前は……?」
「壱翔スズナ。画数多い方の『壱』に飛翔の『翔』。これでヒトトって書くの」
知らないままでいたら、裏切るようなことをしなかったはずなのに。そんな後悔を知るはずもなく、運命が同じ途を辿る。
「翔ぶって漢字と花の名前ね……うん、いい名前じゃない」
「壱って漢字が気にくわないけどね。あなたの方は?」
わたしは口にした。平気な顔をした、無自覚の嘘つきの名を。
「一ノ宮ナツミ。シンプルな『一』に、カタカナの『ノ』に、宮城の『宮』。よろしく」
第一次構造物災害のあの日、彼を呼びかけるひとつの声。スズナの手に持った松虫草。わたしの恨まれる意味。来た道を振り返ると、そこには壁が隔てられていた。
今できる償いを何か。わたしはわたしに決断を迫っていた。
烏の嘴を持った面頰を左右に畳み、コンテナ前の認証システムにカードキーを通す。スズナは欠伸をしてコンテナの一室に入り、マットレスへと倒れこむ。
新しく雇われた狙撃騎士。彼からの似合わない青臭さを想像すると嫌なことを思い出された。帰れない絶壁の向こうにしがみついた中、ひとり、またひとり、と背後に過ぎ去っていく虚しさ。悲しいだけの一人芝居を終わらせられなくなったこと。
体の内側を締め付けられるような苦しみを堪えながら、面頰を放り出してPG窓を開く。連絡先からそれを選び、緑の映話ボタンを押した。
数回のコール音の後、肌着に毛布を被った小学生ほどの幼い少女の姿が映った。
『早いね。こんな夜に仕事?』
「そういうことじゃなくて。そういうことじゃないの」
『ぅえ? じゃあ何で……』
「……うん。虚しくなっちゃった。自分の今してること」
弱々しく笑うスズナを、少女は窓越しに心配ながらに見る。
「分かってた。ただ知りたくなかっただけだった。怒りを向ける先を間違えたと気づくには、あまりに遅かった」
『じゃあ、そろそろ帰ってく……るわけにはいかないよね』
「無理ね」
『じゃあ、どうするの?』
「……殺してもらうわ」
少女は囁かれた言葉に何か返すことも出来ず、スズナはただ不気味な薄ら笑いを浮かべていた。
「このまま自分で死ぬこともできないし、今更かっこつけてAMCを裏切っても馬鹿みたいじゃない? だから裏切り者らしく、その相手によって散りたいの」
『何で……? 死ぬ必要なんか——』
「そのうち分かるわ。だから、これはあたしからの、最後の頼み——」
スズナが途切れ途切れに言った。少女は苦々しくゆっくり頷き、通話を終了する。
PG窓の灯りが消えると部屋は闇一面に変わり、スズナは目を瞑る。景色は暗闇のまま変わらなかった。
「夜が明けてまた夜になるまでの間。ねえ、兄さん。そっちに向かうまでに、あたしは残された時間をどう生きればいいと思う?」
答えを待つまでもなく、そのまま眠りについていた。




