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人機狭間の魔纏機姫〈フランケニズム・マトゥウィザーズ〉  作者: 郁崎有空
三章  “Metamorphose”と、彼女は呟いた
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 ビルの反射光が眩しく手のひらで遮る。自動車の排熱が街を蒸し、陽炎が景色を歪めていた。

 白い半袖のシャツにジーンズという簡素な服装。しかし、冷房慣れした身体にはやはり暑いものは暑い。

 ホナミは胸の辺りを隠すように片手でポーチを抱え、辺りを挙動不審に見回している。日焼けのせいか、顔をほてらせたように赤らめている。

「やっぱ外はいけない。大人しく家に引きこもるべきだった」

 白は太陽光の熱を吸収しにくいと思って着ていた無地のシャツ。しかし実態は、特に効果もなく気疲れがひどい始末だった。

 夏休みから何日か経つ。ようやくゲームセンターに費やせるようになり、遊び倒して今に至る。快適な気温に慣れると、気温差で疲れがどっと来る。

 鞄から水の入ったペットボトルを取り出す。中身はすでにぬるいが、そんなことを構うことなく、フタを開けて一気にあおった。

 気候の蒸し暑さは木陰に休んだところで治まることはなく、刺々しく輝く日光や、鏡面の眩しいビルや、熱した鉄板に等しいコンクリートが、身体の内へ蹂躙する。

 陽炎で揺らいだ無機質な景色に辟易して、乾いた笑いが浮かぶ。粘りつく暑さの存在を忘れようと、他のことを考えるようにした。

 今日はいなかった、冬霜亘とかいう人のこと。学生ではないとのことで、忙しいのはよくあるし、分からなくはないが。ホナミはふと思い返し、熱にやられそうになった。

 PG窓を開き時刻を表示する。日光が強くとても見づらく、日陰に移動して確かめた。

 十五時三十二分。時間に余裕はあったが、やることもなく帰るしかなかった。家路へ急ごうと鞄を抱えたまま小走りで進む。

 本人は人を避けるよう注意してはいたものの、やはりそれも長く続くものでもない。息切れ直前になり、向こうからすれ違った誰かの肩にぶつかった。

 肩をぶつけられた男が振り返る。暑さで働かなかった頭が急に冷えたように冷静になる。

「あっ、すみません……」

 男に向けて頭を下げてすぐさま立ち去ろうとして、腕を掴まれる。悲鳴をあげて振り返る。首輪に似た装置を付けたスーツ姿の男が下卑た笑いを浮かべて迫る。

「痛えなぁ! 痛えんだよなぁ!」

 引きはがそうとも、しっかり掴んで離れない。

「なんですか気持ち悪い! 離して!」

 何度もしつこく絡む手を振り払おうと試みるが、圧倒的な腕力の差が、彼女の腕を離さなかった。

 もう片方の手で装置を触れると、男の身体が波打ってシルエットを変える。男のスーツが岩肌へと変わり、筋肉を肥大化させ、岩にも似たおぞましさを醸す顔へと変わっていった。

 いわばそれは人型のトカゲだった。かつてあった面影はなく、首輪だけが先ほどの男であると証明できた。

 周囲から悲鳴が上がる。われさきに逃げようと誰もが四散して、その場で通報する者、トカゲ男にPGのカメラアイを構える者が混じり合って混沌の様相が出来上がる。

「ぶつかる時は人を選べよなぁ……」

 トカゲ男は周囲の騒然に構うことなく、ホナミの腕を握り潰さんばかりに締め付ける。握られた細身の腕が強烈な痛みとともに、ミシミシと嫌な音を立てて響いた。

「グッ——」

 漏れる呻きに昂ぶって、トカゲ男はホナミの腕を放す。突如として床に叩きつけられたホナミは左腕を抱えてうずくまる。恐怖と苦痛から身体が震えて視界が滲んでいった。

 トカゲ男は、すぐさま異様なほどに大きな手でホナミの頭を掴み上げ、腹部を強く殴りつけた。

「かはっ……!」

 咳き込みながら、勇み足で逃れようとする。しかし、不運なことに左腕が思い通りにいかず、わずか三歩でバランスを崩して転倒した。

 背後からトカゲ男が肉の張る足音を鳴らすと、肥大した手で勢いよく首を掴んだ。抵抗もしなくなったホナミに、そのまま横払いに蹴り込む。貧弱な人の肉体は無抵抗のまま倒れ伏した。

 ホナミの意識はすでに朦朧としていた。気づけばシャッターを切る音は静まり、辺りは騒々しく逃げ去っていく。

「死ね!」

 トカゲ男の鋭利な足の爪が柔らかい腹部に蹴り込まれる。爪が腹を貫いた。

 こみ上げる血を咳き込む。口角と腹部からは血が溢れ始め、生ぬるい鉄の味に死を察した。

 下半分が真紅に染まったシャツの胸ぐらを掴む。トカゲ男の次の手を覚悟して、自棄を起こして笑顔を作った。顎へと血を滴らして作った表情は、彼女の想像するよりひどく歪んだ表情をしていた。

「気に食わねぇ……!」

 トカゲ男はまた空いた拳を固める。死を目前にして諦め、目を閉じる。

 最期の痛みの代わりに、サイレンが辺りにけたたましく響いた。

 現場の遠くでトレーラーが止まる。後部ハッチが開き、白黒のツートンカラーに『POLICE』の文字を飾ったポリスケルトンの二人組がトレーラーから降りる。第一次構造物災害から活動が目立つようになった特殊刑事課の強化甲冑装着員だった。

 すぐさまトカゲ男に迫り、左のポリスケルトンが背部に縦長のタンクを繋げた砲口で狙いを定めた。銀筒の引き金を絞る。強い反動とともに、砲弾のごとくそれは発射された。

 トカゲ男が気付いた時すでに遅く、高圧放水器が一陣の水流が横顔を殴り飛ばす。胸ぐらを離した拍子にホナミまでも地に打ち付けられた。

 帯電警棒(スタンバトン)を持った警官が隙を見て救出に向かう。ホナミを迅速に庇う体勢に立ち、救護班に合図を出す。やって来た救急班の持った担架へと移された。

 運ばれながら、ホナミは遠くなる意識に抗った。目を閉じたら二度と戻れないような気がした。力一杯に右腕を上げる。しかし、その腕は朽木のように弱々しく上げられ、易く担架の外へと落ちていった。



 ホナミの視界が晴れる。コンクリート剥き出しの天井が見えた。

 腕を動かして、腹を撫でる。奇妙なことにあるべきものがそこにない。記憶に鮮明な、トカゲ男に殺されたことが夢のようだった。

 ふとベッドから身を起こそうとすると、また別の違和感が生じた。腕に身を起こすだけの力が入らず、思い通りに起き上がれなかった。

 血の気の引く感覚に襲われる。辺りを見回すが、見慣れない装置と入り組んだ管ばかりで誰もいない。PGを確かめ起動すると、(ウィンドウ)が正常に表示された。

 安堵したところで、かすかに見える自動ドアが開いて誰かが入ってきた。体格はいい方だが覇気が感じられない、雰囲気のだらしない中年の男だ。

「あっ、もう起きたのか」

「えっ、はい……」

 中年は近場にあった丸椅子を持ってきて座り、棚の上に用意された水差しをコップに注ぐ。途中で男は何かを思い出し、コップに満たされる前に水差しを戻した。

「入れてもあれだったなぁ……」

「あの——」

「ああ、そうそう。起きぬけに悪いけど話があるんだ。それも結構重要な」

 先ほどのことがあり、続く言葉が不穏なものであることが分かった。

「瀕死の君が助かったのはよかった。でも、代償に腕の方が……」

 中年から告げられた言葉に呆然とする。やがて重いものが身体の中で落ちるような、胃のもたれる感覚に苛まれた。

「これだけはどうしようもなかった。諦めてくれ」

 ベッドに横たわる自分へ頭を下げる相手に、ホナミはただ何も言えず沈黙することしか出来なかった。喪失感に思考を支配された今では、言葉を返す余裕もなかった。

 やるせなく天井を見上げる。蛍光灯が異常なまでの点滅を繰り返している。バチバチと鳴る音が聞こえだした。みるみるうちに焦げた染みを増やす。その直後、蛍光灯は暗闇に消えた。

「あっ、しまった……」

 中年がライターを取り出し火を灯した。

 何か不穏なものを感じる。不安が鼓動を高鳴らせ、周囲の計器が甲高いエラー音を発する。計器の表示するホロディスプレイがノイズで乱れ、辺りの装置が次々に誤作動を始め、次々と電源が落ちた。

「せっかく対策したのに、これじゃ高くつくよなぁ……」

 装置のひとつを軽く叩き、途方に暮れる。

 間もなくして外から、ドアを叩く音とともに声が聞こえた。

「不二主任! 基地内で強力なEMPが発生しました!」

「知ってる知ってる! 俺いまその中心地にいるんだ! オイル切れになる前に復旧頼むよ!」

「分かりました!」

 足音が遠ざかる。病衣が擦れるたびに全身の皮膚に電気が走るような異様な感覚が不愉快でならなかった。

 ライターの灯りで映された不二を見る。眉間を指で支えて嘆息していた。

「早速やってくれるな。これはなぁ……」

 皮膚の感触にそろそろ苛立ちはじめ、ホナミが自棄ぎみに聞いた。

「あの、これ何がどうなってるんですかね? 停電したり、静電気うるさかったり、どう考えたって異常じゃないですか!」

「話は電気が復旧してからだ。いま話すと夜の怪談みたいで嫌だ」

「んなこと知らないです。構わないんで話してください」

「こっちが構うんだよ。復旧にどんくらいかかるか分かったもんじゃないし、もっと気軽にだなぁ……」

「気楽って——」

 ホナミが反論しようとした時、室内の電灯が一斉に照らされた。

「復旧したみたいだな……後で蛍光灯変えなきゃならんけど」

「それで、さっきの答えは……」

「ああ、そうね。まず俺は不二孝基(ふじこうき)ね。特別災害対策課——特災課の主任をやってて、要するに座って見てるだけのお仕事ね。んで君は、どこぞのバイオスーツに暴行されて意識不明の重体。別にこれ自体は特別災害じゃないけど、何しろ特殊な事件で瀕死状態だった。君には特別措置で第二期ヴェール・コア移植手術を施したってわけ」

「あの、ヴェール・コアって……」

「手術で移植させてもらったものだよ。ここだと魔纏石(まとうせき)とも呼ばれてて、身体や周囲の異常はそれの後遺症みたいなものというか、副作用で超能力がついたというか」

「何に使うんですかそれ」

「簡単に言えば、それだけで瀕死の患者が助かる」

 不二はなおも続ける。

「ああ、ちなみにここは特災課本部基地内の病室ね。こういう特例にしか使われないから実質貸し切りだよ」

「ところで、特殊災害ってのは?」

「特殊災害——まあ、大体が最新技術を悪用した事件事故だな。それを未然に防ぐとか、それに巻き込まれた重傷者の救護とか処置とか、そういうことを秘密裏にやるのが俺らってわけ。一番有名なので構造物災害とか」

 構造物災害。一年前のあの頃、ナツミの消えた日を思い出した。結局誰一人として事情を聞けなかったが、ホナミには未だ、あの頃からの違和感に慣れずにいた。

 そこで今、疑念が生まれた。

「それで、何か質問とかある?」

「…………」

「無いなら無いでいいんだけど」

「……あっ、いえ。質問あります」

 深呼吸して落ち着かせ、はっきりとした声で言った。

「わたしはこれから、どう過ごして生きればいいんでしょう?」

「元通りに生きるか、特災課の下で協力するか。その二択だな。まあ大体は元通りに過ごせる自信がなくて後者を選ぶんだけど」

「選択肢は二つ……」

 息を呑んで黙り込み、答えを探す視線が虚空へ泳ぐ。布団に潜り込ませた自らの手を握ったり開いたりと繰り返す。ホナミの今の身体で元通りに過ごせるはずがなかった。

 不二がコップの水を一気に飲み干し、足元のアタッシュケースを出して開く。二本の腕が肥大した、八本足の金属バックパックを見せた時の彼の姿は少しばかり申し訳なさそうでもあった。

「これが、君をサポートする腕の代わりだ。ケチをつけるようで悪いが、俺としては、君に元通りに生きるのは勧められない」

「…………」

 悔しくも不二とホナミの意見が一致した。返事にためらい、しばらく経ってから言った。

「……少し、考えさせてください」

「そうか。マルチロイド連れてくるから、言いさえすれば、色々やってくれるから」

「はい……」

 不二が席を立ちあがり部屋から出た。

 後悔がひとつだけあった。家族や友人とは違う、そんな人のことだった。ふと思い浮かべると、視界がにじんで嗚咽した。布団に潜ると余計に心苦しく、感情に耐えられなかった。



 夢を見た。あの日が再び来たような、そんな夢。

 喫茶店に来て、珈琲のブラック頼んで、角砂糖をたくさん入れるおかしな人。理由もおかしく、「砂糖を飲むために珈琲がある」と彼は言う。

 面白かったけど、わたしはただ冷めた悪態をつくばかり。正直、この時点で嫌われてもおかしくないというか、なんというか。

 その後もよく分からない方向に話が展開し、

「あれは小説の方が世界観とかテーマとかが好き」

「俺は映画の方が好きかな。分かりやすくて、舞台セットの完成度も高くてアクションがある」

「映画はアンドロイドのリーダーが、寿命の短さに駄々をこねてるだけだし、主役がよく銃を落とす無能。電気動物の必要性がなくなって世界観が取りこぼされすぎててね」

 ひねくれた意見を誇らしげに語るところは、今考えると相当恥ずかしい。

 それでも彼は飽きもせず聞いてくれて、

「なんて堅物な。原作とは全くの別物だって聞いたし、そこまで深く考えなくてもね」

 この言葉を聞いた時、変に気張っていた心がほぐれたのかもしれない。少しだけ、やけに嫌っていた映画のことを許せるようになっていた。



 起きぬけとしては最悪だった。

 夢から覚める時、少しだけ思い出せなくなる。そんな煩わしさや物寂しさが、ホナミにはつらくもあった。

 棚の上に置かれた赤緑黄と三色揃った栄養パッチの箱とゼリー飲料が置かれている。ゼリー飲料の飲み口は開けられており、栄養パッチも開封されて取り出しやすいように中身が置かれていた。

「身を起こすようにして」

 いつのまにそばにいたマルチロイドが感知、遠隔操作でベッドが起き上がった。

 栄養パッチは液体入りケースのついた、少し大きめの絆創膏といった見た目。ホナミは緑の栄養パッチを手に取り、剥離紙を剥がして腕に貼った。チクリと刺す痛みが走るが、その痛みは一瞬で済んだ。

 赤緑黄で栄養が変わらず、あくまで好みの問題だったが、ホナミは緑を好んでいた。三色の中で一番地味だという、そんな理由だった。

 ゼリー飲料のキャップを回す。ふと下をみると、アタッシュケースが放置されたままになっている。ゼリー飲料を少し飲み込んでから手を伸ばして持ち上げると、見た目の割に結構重たく、まったく持ち上がらなかった。

 ゆっくりと毛布から足を出して引っ掛ける。少し苦労したが、手で持ち上げるほどではなかった。アタッシュケースを滑り寄せる。

 暗証番号のロックは解除されている。

 開けてみると、申し訳程度の薄い説明書の下に、梱包材に包まれた八本の節足付き金属バックパックが見えた。

 説明書を流し読みして横流しして、アタッシュケースから節足バックパックを取り出す。バックパックの全身を見回して、尾部の搭載ディスプレイの観察をしようと持ち替えた。その時、ほどよい手ごたえとともにカチリと何かの噛み合う音がした。

 一瞬、まずいことになったのだけを察する。静まった部屋にささやかな駆動音が低く唸った。

「あっ……」

  ちょうど節足バックパックのディスプレイがぎらついた青色を放ち、よく知らないロゴマークを映した。状況を掴めなかったホナミも、何か大変なことになったのだけは察せられた。

 画面が柔らかな乳白色に変わり、表示された文章に従って流暢な音声が発せられた。

『タイプ・二一(フタヒト)起動しま』

 控えめに備えられた丸いカメラアイで身体ごと見渡し、不恰好なバックパックから腕が伸びた。それは人のそれに似てはいるが、見てくれはひどく受け入れがたいものだった。

 そして、彼女の前にゴム張りの関節ばかり目立つ手を差し出した。

『おはようござい。貴女がフタヒトのパートナーで?』

「……はぁ」

 思うところをひとまず飲み込み、機械の手のひらを握り返す。人同士の友好を結ぶ最適な手段を人でもない二一からやるというものを、ホナミには未だ慣れなかった。

 力を込めて握れず、離れないよう握りしめた二一の手によって振り回された。

『契約完了しま。本日をもって、フタヒトら貴女の腕としての務めを果たし』

「はい。……えっ」

 手を離して腕を畳み、二一は多足に似合わぬ俊敏な動作で回り込む。起こした身体の隙を狙い、飛びかかった。いつもより身体が思うように動かなかったこともあり、容易くホナミの背中に着地した。

 射出した腰と肩に可動式のベルトが巻かれ、腰ベルトの六角バックルへと肩ベルトが接続。脇腹に回された多足が軽く食い込み、ホナミは総毛立つ感触を襲われた。

『インストール開始し』

 背後に、耳障りな高音のモーター音が唸るとともに、ホナミの脳内に膨大な記憶が氾濫した。

 記憶にない映像や音声が脳内を覆い尽く(ジャック)す。言葉が速度を増して反芻(はんすう)され、質量を持ったそれが脳内を引き裂く痛みに変わる。ただ、マットレスに突っ伏して耳朶を塞ぐことしか出来ない。

 濃淡な泥を流し込まれるような不快な感触が視覚と聴覚の深奥を塗りつぶすように、不可視な異物に侵食される。

 そういえば何分経ったのだろう。というか、今は何時だったか。支配しようとする感覚から逃れるために痙攣のごとく繰り返す。

 慣れたと感じたその時、濃淡な泥の中から蛆が生まれ蠢きだす。全神経を巡る気色の悪いものが思考を這いずり回りかき乱す。

 ——ここは、地獄、だろうか。

 飛びかけた意識の中で、途切れ途切れに思う。喉も枯れて全身に汗がにじみ、自分の身体が何をしているか、そんな確信が持てなかった。

 突然、感じるもの全てが途切れた。



 重々しいまぶたをゆっくり開ける。輪郭のぶれた光景が鮮明に変わっていく。ホナミはランプの薄明かりを感じた。

 ベッドは元通りに戻されており、変わらず白い天井があった

「夢、だったのかな……」

 呟いて身体を起こそうとし、手をつく途中でためらう。やる前からなんとなく分かってしまって苦笑した。

「正直、夢であってほしかったかな……」

 諦めて寝そべり、天井をじっと見る。こんなことをしても、背中の妙に生暖かくすべやかな感触は、到底消えそうになかった。

 それはホナミの腕となり、緩やかに身を起こす。蠢く背中の感触をただ現実として受け入れるしかなかった。

 身を起こしてコップを手に取ろうとした時、上方から突き刺すような気配がした。仰ぎ見る。白く穢れのない天井。ただ、そのどこにも気配の真相はなかった。

 また横になろうとするがロボットアームがびくとも動かない。手を回して弱々しく揺すってみたがやはり反応がなかった。

 異常事態か。助けを呼ぶべきか。ホナミの中で焦りが湧き上がってきた。

 枕の近くに据え置かれたホログラム投射機に手を伸ばす。身体を伸ばして手をかざそうと投射機に手をかけた時、一瞬ホログラムが映り、弾けた音と光とともにまた消えた。

 指先に電気が走ったような痛みで思わず手を離す。また手を伸ばして投射機に触れるが、もうホログラムは映し出されなかった。

 意地でも眠らせるつもりはないんだな。苦笑しながら、ふと立ちあがろうと思った。意固地だったロボットアームがその通りに動いた。

 このメカは意思が合致しないと行動しない。ホナミは心の中でひとつの考えを見出した。

 そう思うとともに、行き場のない悪意から恨めしさが生じた。ロボットアームの握り拳が軋みをあげる。

 最初は慎重に、段々乱暴にドアへと進んでいく。背中のバックパックが噛んだ音を小刻みに鳴らしたかと思うと、固く閉ざされたドアが開かれた。

 考えることもなく駆け出す。足は幸い普段のままで、改造されたか知るはずもない。分かっていた。期待はなく、もはや自らの身は馴染みある部分はないと。

 ホナミは選ぶ間もなく左に行った。それはただの思いつきとは違った、馴染みのある場所を歩くような感覚だった。準備が必要だ、と誰かに囁かれている気がした。

 ないはずの既視感を振り払おうとした時、近くのスピーカーからサイレンが唸り始めた。

 まずいと感じ、ただ思いつくまま非常階段を駆け上がる。何故だか、いつもなら息の上がる階段が、今ではずっと余裕がある。階段を駆け上がって通路に出て、ふたつ向こうのドアに向かって走り始めた。

 目的の部屋の前には、ずっしりと構えた二台の警備マルチロイドが立っている。勝負は一瞬だと身構え、無意識に任せて犬歯のスイッチが解放されるのを確かめ、噛み合わせる。

 音が遅まり、警備マルチロイドの機微な動きも視認できる。そのまま扉の前に立ち、自分の腕で双方の警備マルチロイドに触れる。頭によぎった飾り気のない単語を、涙ぐんだ目を細めて呟いた。


“Metamorphose.”


 指先に一瞬、痺れる感覚が流れ込む。警備マルチロイドに膨大な電撃が流し込まれ、内部がショートしたのを感じる。鉄屑と化したものから手を離すとともに、衣服が収縮し始め、やがて密着した。

 収縮した衣服の繊維にナノマシンが流し込まれ、灰色のスウェットスーツに変化し整った。放電の火花が身を包み、フリルがふわりと少し垂れる。

 再びクラッキングが始まる。それとともにウェットスーツ全体から、ドレス状の輝きが纏われた。

 ロックを解除されてドアが開かれる。

 涙を拭うのをためらい、放電を続けるヴェールのフリルを揺らす。

 今あることから逃げ去るかのように、ホナミの足はその先に飛び込んだ。



 金属でできたクロスボウを蛍光灯に掲げて、左目を閉じて蛍光灯に狙いを定める。

 特災課華葉本部の魔纏機姫は六人配属されている。しかし、ついに人員が一人だった。

 何かが起きた時、まだ経験が浅い自分が一人でやれるのか。行く末に、ただ不安を抱くばかりだった。

 嘆息する。クロスボウを持つ腕が下ろし、ベッドに投げ出した。このまま微睡んでいく感覚に身を任せていく。

 睡眠に引き込まれかけた時だった。唸るような音が部屋のスピーカーに鳴り渡った。壁に掛けられた、インカム型ディスプレイグラスを手に取る。頭に装着して視界を囲むヘッドマウントの視界を確かめて、放られたクロスボウを拾う。装着した直後、通信が入った。

『俺だ。少し厄介なことになった』

「あ、主任。何があったんです?」

『……ちょいと、逃げられた』

 ためらいがちの声で告げられた。

「逃げられたって……例のですか?」

『すまないけどな。とにかく今止められるのは君しかいないから。頼んだ』

「まーた私ですか。まだ復帰できないんですかあの——」

 通信が切られる。奔流したようにため息をつき、左手でスピーカーに突出したツマミを回して周波数を調節する。

「こちら一期六番。B2F中央廊下に八咫鏡出動お願いします」

『了解。MW9出動します』

 通信を切って側面スイッチを押して、マップを起動。机の上に鎮座した楕円形の白く平たい機械を軽く叩く。中央に付いていた緑のランプを点灯し、下から四本の回転翼を起こし、回転翼の羽音とともに浮遊し始めた。

「ビー助、お仕事だよ」

 振り返ったサクラが明るげに声をかける。ビー助は言葉の代わりにランプを点滅させて、後からついていった。


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