最高機密アーカイブへ
泥水の奔流のような霊力をその身に吸い尽くし、内臓を雑巾のように絞られる激痛に耐えながら、僕は地下の狭いハッチからどうにか地上の観客席へと這い上がった。
スタジアムを見上げると、そこには言葉を失うほどの光景が広がっていた。
天井を覆っていた結界は、シュリの放った超出力によって文字通り粉々にへし折られ、ぽっかりと開いた大きな穴からは、澄み渡った青空と穏やかな昼の光がフィールドへと降り注いでいる。
荒れ狂っていた結晶の嵐は完全に消滅し、中央にはアニマを失って気を失った神代の身体だけが、教員たちに囲まれて横たわっていた。
割れんばかりの大歓声が、スタジアムの全方位から降ってくる。誰もが目の前で起きた劇的な決着に酔いしれ、その足元で繰り広げられた命懸けの裏方作業など、微塵も気づいていないようだった。
「……お疲れ、トウマ。お前が下でなにをしたかは知らないが、循環陣の霊力核は完全に機能停止したよ。おかげで僕の命も助かった」
壁際に寄りかかっていたハルトが、背後のブックを静かに閉じながら、いつもの眠たげな声をかけてきた。
彼は僕の霊力やアニマ事情について何も知らない。だが、何も聞かずにそっとしてくれている。
「ハルト……新聞部のほうは、どうなった?」
「ああ。言い逃れのできない完璧な証拠データとして焼き付けが完了しているらしい。……今頃、実況ブースは大騒ぎのはずさ」
ハルトの言葉に頷き、僕は痛む身体を引きずるようにして、スタジアムの最上段にある実況・報道ブースへと向かった。
ハルトもまた、面倒くさそうに頭を掻きながら僕の後ろをついてくる。
防音ガラスで仕切られた実況ブースの重い扉を開けると、室内は張り詰めた静寂と、どす黒い大人の怒気で満ち満ちていた。
「──ふざけるな! このような不確かな捏造データで、私を脅迫するつもりかね!?」
部屋の真ん中で、白髪混じりの髪を激しく振り乱して怒鳴り散らしていたのは、学園長だった。
その周囲には、口を真一文字に結んだ直属の警備教師たちが数人、新聞部の部員たちを取り囲むようにして威圧的な霊力を放っている。
しかし、囲まれているはずの新聞部副部長は、眼鏡の奥の目を細め、実況デスクに深く腰掛けたまま不敵な笑みを浮かべていた。
彼の手元には、ハルトのブックから同期された学園長の裏帳簿と、地下の『霊力循環吸着陣』の全構成図が、何枚ものモニターにこれでもかと鮮明に映し出されている。
「捏造、ですか? 往生際が悪いですね、学園長」
副部長は手元のマイクのスイッチを指先で弄びながら、冷酷に告げた。
「我が新聞部のネットワークを侮らないでいただきたい。この実況ブースの放送回線は、表向きはスタジアム内の中継システムですが……裏の暗号回線を通じて、すでに中央の教育委員会の重職たち、および主要なメディアの外部サーバーへと直結しています。今僕がこのデスクの赤いボタンから指を離せば、君が保身のために数千人の生徒の魂をバッテリー代わりにした実績偽装の全ログが、永久保存版として世界中に一斉送信される手筈になっていますよ」
「なぁ……っ!?」
学園長の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが分かった。
男の額から大粒の脂汗が流れ落ち、高級なスーツの襟元が目に見えてガタガタと震え出す。
もしこのデータが公になれば、失脚どころか、国家反逆の罪で一生を地下の監獄で過ごすことになるのは目に見えていた。
「き、君たちは……自分が何を言っているのか分かっているのかね? 学園のブランド価値が落ちれば、君たちの将来の進路だって──」
「僕たちはゴシップ屋ですからね。学園の未来よりも、歴史に残る特大のスクープのほうが遥かに価値があるんですよ」
副部長は眼鏡をクイと上げ、全く動じることなく言い放った。
一介の部活である彼らが、学園の絶対的な権力者を正面からハメ殺し、完全に盤面を支配している。その泥臭くも執拗なジャーナリズム精神の恐ろしさに、僕は背筋が寒くなるのを感じた。
「……そこまでにしなさい、見苦しいわよ。学園長」
静まり返ったブースの入り口から、ガラスの風鈴のように澄んだ、しかし絶対零度の冷徹さを孕んだ声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、激しい戦闘を終えたばかりのはずのシュリだった。
金髪のツインテールを毅然と揺らし、琥珀色の瞳で震える学園長を冷酷に見下ろす。彼女の首元には、僕との主従の証明である黒いチョーカーが、何事もなかったかのように巻かれていた。
「約束通り、御前試合の優勝者特典……学園創立以来の『全アーカイブ』の閲覧権を、今すぐ私に渡しなさい。それとも、その薄汚い実績偽装の記録と一緒に、今すぐ真空の彼方に消し飛びたいかしら?」
シュリがスッと白い指先を向けると、実況ブース内の空気が一瞬にして引き絞られ、パキパキと不気味な真空の歪みが生じた。
新聞部からの社会的な抹殺の脅迫と、シュリからの物理的な生命の脅威。その二つの刃を同時に突きつけられ、学園長は完全に詰み、崩れ落ちるようにして椅子へと腰掛けた。
「……分かった。アーカイブの閲覧を、許可する」
男は震える手で、自身の懐から鈍い銀色の光を放つ、重厚な結晶体でできた『最高機密鍵』を取り出し、実況デスクの上へと放り出した。
「ただし、外部へのデータ送信は絶対に認めん。これ以上の拡散を止めるなら、君たちの望む記録をいくらでも見るがいい……。だから、その指をボタンから離してくれ……!」
「取引成立ですね。それでは、素晴らしい優勝の余韻をお楽しみください、学園長」
副部長はゲスな笑みを浮かべて鍵を回収すると、それを恭しくシュリへと手渡した。新聞部にとっては、校長の弱みをいつでも発表できるという「永久のスクープ材料」を手に入れたわけだから、これ以上の成果はなかった。
それから三十分後。
シュリとパシリの僕、同行を許されたハルトの三人組は、学園の特別棟のさらに奥深く、地下数百メートルに位置する最高機密アーカイブ室の扉の前に立っていた。
周囲には、日常の喧騒も、廊下でアニマを出してイキるような浅薄な生徒たちの気配も一切届かない。
ただ、ひんやりとした古い石造りの空気と、世界の記憶そのものが沈殿しているような、重苦しい静けさだけが満ちていた。
目の前にあるのは、複雑な古代の防衛術式がびっしりと刻み込まれた、巨大な鉄鋼の扉。
シュリは手にした銀色の結晶鍵を扉の回路へと差し込んだ。
カチリ。
ゆっくりと、歴史の檻が開くようにして重い扉が左右へと分かれていく。
その暗闇の向こう側を、シュリはいつになく真剣な、悲痛なほどに張り詰めた表情で見つめていた。彼女が何年もの間、人間の街に潜伏してまで探し続けている「失踪した前の主人」の行方──その手がかりが、今まさにこの部屋の中に眠っている。
「……行くわよ、トウマ」
彼女の琥珀色の瞳の奥に残った、迷子のような微かな揺れを見つめながら、僕は「はい」と静かに頷き、その忘却のアーカイブの部屋へと一歩足を踏み入れた。




