第1話:宵の薬匣
宮中の薬匣は、思ったより地味だった。色とりどりの瓶や箱を想像していた人は、少し驚くだろう。黒ずんだ木の引き出しがいくつも並び、そこに名も知らぬ根や花弁、乾いた葉が押し込まれている。昼間は誰も気づかない匂いを、静かに漂わせている。
私はその匂いを一つずつ覚えた。匂いというより「使い道」の記憶だ。麟粉は痰をとる。硝子苓は熱の初期を抑える。甘い匂いのものは要注意――甘さは時に、毒を隠すための化粧なのだから。
「月城さん、今日も新しい投稿が来ています」
宮中雑用の藁屋咲が、小さな和紙を差し出した。墨で三文字、『薬匣の鍵』。この三文字が、私の日常を少しずつ変えていくのだと、まだ私は知らなかった。
薬匣の整理を終え、私は和紙を手に取った。文字の並びは整然としている。裏には、読めない符号がいくつか。どこか見覚えがある……。幼い頃、師匠が使っていた符丁に似ている。胸が少しだけ高鳴った。
その日の宮中は、穏やかとは言えない空気だった。妊婦が突然失神し、医局は慌ただしい。私は匂いと色、形を確かめながら処方を作り、彼女の回復を見守った。薬は過不足なく、そして正確に――私の手は震えなかった。
「これは……事故ではない」
小さな声で自分に言い聞かせる。薬の効果が微妙に狂わされている。何者かが操作した形跡があるのだ。普通なら気づかれないだろう。しかし、私は気づく。
夜になり、宮廷医局長の秋月禄が静かに部屋に現れた。背筋を伸ばし、冷静な瞳で私を見つめる。
「月城さん、今の処方は正しかった。だが、背後に不自然な力が働いている可能性がある」
短く告げられたその言葉に、私は無言で頷いた。私の観察眼と、彼の知識があれば、この小さな異変は見逃せない。今夜から、宮中の秘密を追う小さな旅が始まる。
夜更け、薬匣に手を伸ばす。小瓶一つ一つが、静かに私に語りかける。「気をつけて。これは、ただの病ではない」
墨の匂いと薬の匂いが混ざる中、私は次の符号を解く決意を固めた。小さな手の中に、世界を少しだけ変える力があることを、まだ誰も知らない――。