【98.あの日④】
自宅にも関わらず、リアの知らなかった地下室へと続く入り口は、寝室の暖炉の内部。左側の奥手にあった。
子供が通れるくらいの穴が開いていて、先にロイズが這いずって潜った後ろから、リアが倣うように続いた。
先頭を進むロイズの足首が暖炉の石積みを抜けると、やがて指先が、固められたひんやりとした土壁を捉えた。
「…こっちかな」
自身によっても遮られ、後方からの光は殆ど届かない。ロイズが彷徨うように手を伸ばして形状を確認すると、左側は肘が当たるくらいに壁が近い一方で、右側には空間が認められたのだ。
「……」
後ろから続く女の子の手指が、ぺたぺたと足裏や足首に触れてくる。
離れないでね…
離れないから…
いつもは自由奔放に前を進んでいる彼女から、必死な想いが伝わってきた。
頼られる事により、少年の心身はいっそう強固なものとなるのだった――
「右に行くよ」
這いずる格好のまま、ロイズは右の空間へと身体を導いた。
真っ暗闇の中、上半身くらいを進んで腕を伸ばしたところで、手首がふっと沈みこんだ――
どうやらこの先は、幾らか下っているようだ。
「……」
地下へと向かう目的との合致に、不安で押し潰されそうになっていた心が、いくらか膨らんだ。
肘を支えにずずっと身体を進めると、腹這いになったロイズは深さを確かめるべく右腕を伸ばして、しずしずと手首を沈めた。
「階段かな」
ぺたと平坦な感覚が、やがて手のひらに伝わった。
「……」
腕を戻して、次に手のひらを後頭部に置いて、高さを確かめる。
そのまま手の甲を上にしたまま、ゆっくりと上げてみた。
「座れそうかな」
頭上の空間は、思ったよりも広かった。
左右は固められた土の壁で、明らかに人の手が入っている。
作業を為すには絶対に空間が必要なのだから、この造りは合点がいく。
ゆっくりと頭を上げて、次に足先はそのままで腕の力で身体を起こすと、ロイズはさっと足を引いて四つん這いになった。
「あ…」
肌に触れていた指先の感触が消えた途端、リアの声が暗闇に響いた。
「大丈夫だよ」
優しく声を掛けながら、ロイズは左側の壁に背中を預けた。
続いて右腕を静かに伸ばすと、後ろから続く女の子の細い指先が探り当てるのを待ってあげた。
「……」
真っ暗闇の中で、リアの指先が何度か触れた。
指を開くと、やがて少女の華奢な指先を受け止めて、きゅっと掴み取ってみた。
「頭に気を付けて。たぶん、座れるよ」
掴んだ指先はそのままで、右手をゆっくりと上げてやる。
導かれるようにごそごそと音が届くと、やがてリアの体温がやってきて、とっと細い肩が右の腕へとぶつかった。
リアの伸ばした上半身が、ロイズの顔の前へとやってくる。
暗闇の中で彼女の姿は見えなくとも、柔らかな癖のある髪の毛が、頬へと触れた。
「わわっ!」
ロイズが右手を頭上にまで掲げると、導かれるままに従っていたリアの体勢が、伸び上がってついには指が離れた。
思わず前のめりになったリアの身体が、頭から崩れ落ちる。
「いた!」
「ごめん!」
軽く曲げていた膝の内側、ロイズの太もも辺りにリアの体重が乗っかった。
「大丈夫?」
心配そうなリアの声色が、股の上から耳へと届く。
「うん。大丈夫」
太腿に鈍い痛みはやってきたが、ロイズは気丈になって答えた。
「ごめんね。起き上がるね」
両腕を前に投げ出したようになった少女が、腕を引いて起き上がろうと動いた。
「ぐうぇ!」
「え!? ごめん。きゃっ」
ロイズの短い呻き声が上がって、リアが思わず手を放す。
当然もう一度、リアの身体はロイズの腿の上にのっかる事となった――
「だ、大丈夫?」
リアの動きを咄嗟に読んで、腹部と下半身は構えるも、股間は無理である。
「う…うん…」
苦悶の表情になったロイズは、それでも強がって声を発した――
「…ほんとに、大丈夫?」
改めて、ロイズの固い膝で右手を支えたリアが身体を起こすと、心配そうな声を渡した。
「たぶん…大丈夫…」
「……」
ロイズの震えた声を耳に入れながら、ストンと固められた土に腰を落とすと、リアはロイズの右へと移動して、同じように背中を壁に預けた。
「お腹だった? なんか、違う感触だったけど…」
「……」
どんなモノかを彼女が知るのは、もう少し先の話である――
(おしっこ、出るかな…)
潰れたんじゃないか――
本気で心配をする、少年であった。
何度も深い呼吸を繰り返し、大事な部分の痛みが引くのを待ってから、ロイズは静かに口を開いた。
「左側に、階段があると思う。少し明るい。分かる?」
「うん」
暖炉裏の通路から僅かに覗いていた明かりは、右へと折れたことによって殆ど届かない。
しかしながら幾らか目が馴染んでくると、今度は少年の左から、ほんの微かな明かりが零れているのが認められたのだ。
「……」
暖炉の奥…
その位置を、ロイズは頭の中で思い描いた。
リアの家の裏側にある、不格好な石造りの出っ張りが、今いる場所だ――
「私…こんな場所があるなんて、知らなかったよ」
悔しそうに、小さな身体がぽつりと呟いた。
「なんで、知ってたの?」
続いて、少し問い詰めるようになってロイズに尋ねた。
地下へ逃げろと言われた少年は、家人の忠告を差し置いて、腕を引っ張って真っ直ぐに寝室へと移動した。
腑に落ちないのは当然である――
「父さんが、教えてくれた」
「……」
「リアの家には、避難用の地下室があるって。何かあったら、そこに逃げろって…」
「私は、知らなかったよ?」
「リアには、教えちゃダメって言われてた…」
「なんで?」
納得がいかないと、リアが脹れたように訴える。
「リアに教えると、遊び場所になるからって…」
「……」
届いた回答は、一層の悔しさを連れてきた。
子ども扱いされたこと。違いないという実感。自身を大切に想ってくれた気持ち…
そんなものがない交ぜになって、少女は抱えた両膝の間に、灰で汚れた頬を埋めるのだった――
「騒がしくなってきた…」
馬のいななきが背中の方から耳に届いて、リアが不安そうに呟いた。
「下へ行こう」
意を決したロイズはリアの手に右手で触れて促すと、微かな明かりの方へと膝を伸ばした。
「ちょっと急だから、気を付けて」
「うん…」
落とした腰の外側に手を置いて、両足を前に出して探りながら、しずしずと前へと這っていく。
一段、一段と足で探りながら腰は落としたままで、石造りのざらざらとした触感を手のひらと臀部で感じながら、ロイズは慎重に下へと降りていった。
リアは先導する彼の背中を両足の裏側で、時にはつま先で確かめながら、後に続いた。
「あ…」
ロイズのつま先に曲線を描いたものが当たると、ゴトンゴトッと音を立てながら、下へと転がり落ちて行った。
「何?」
「たぶん、水筒…」
避難の前。食料やら水筒やらを放り込んだのが、階段に留まっていたのだ。
背後からの不安の声に、ロイズは安堵を誘うべく落ち着いた声音で応えた。
「降りれるよ」
足元から漏れてくる明かりは、自身の足によって塞がれる。
それでも目線が地下室の灰白色の天井を捉えると、四角い部屋に備えられた三方の採光口から、明かりが漏れ出ているのが確認できた。
左側の壁に手を添えて、ゆっくりと立ち上がる。一段一段を、ふたたび慎重になって降りてゆく。
「静かにね…」
安堵の心が芽生えると、外部の雑音を鼓膜が拾い始めた。
女性の叫び声、馬のいななき、男の怒号…
真上で繰り広げられているものでは無かったが、それでも緊張は高まった。
やがて二人は前後になって、ようやく地下室へと足を届ける事に成功をした。
「……」
地下室は、降りてきた階段側の辺が長い、3メートルと5メートル程の空間で、天井までの高さはロイズの身長の2倍以上もあって、息苦しい感じはしなかった。
先ずは二人で、床に散乱した水筒やら麻袋を拾い集めた。
麻袋の中身は乾パンや干し肉、果物を干したものだ。子供二人には十分な数量で、一週間くらいなら、余裕で凌げそうだった。
「パパ、ママ、大丈夫かな…」
地上へと続く階段の一段目。その先の一角に集めた食料と水を固めると、リアは灰白色の土壁に背中をとんと預けて、その場で腰を落として膝を抱えた。
「……」
不安に満ちた少女の姿を、呆然と立って眺める事しかできない…
少年の頭には安易な気休めしか浮かばずに、結局適当な声を掛ける事が出来なかった――
「大丈夫だよ…」
それでもロイズは、リアの隣に寄り添うように腰を下ろして、浮かんだ言葉を呟いた。
一緒に居るから安心をして――
彼の声は、この先の見通しを語ったものではない。
落ち込む彼女へと語りかけた、精一杯の励ましであった――
正直、どれほどの効果があるのかは分からない。
例え無責任であろうとも、声を掛けずにはいられなかったのだ――
「え…えくっ…」
やがて、リアの感情が溢れ出して、小さな嗚咽を漏らし始めた。
親に叱られた後や、子供同士で喧嘩になって、男の子に川に突き落とされて負けた時…
これまでに何度も耳にしては慰めの言葉を発したが、今回ばかりはロイズでさえも、届ける声を探しあぐねた――
「この家は?」
「誰も、いないな…」
「逃げたのか? 素早いな」
「厩がある。ここが、鍛冶屋の家か?」
どこかの採光口から、男二人の声が漏れてきた。
「見ろ、刀があるぞ」
「一級品じゃねえか。貰っとこう」
「いいのか?」
「構わねえよ。何本か隠しといて、夜中に取りに来ようぜ」
「いい考えだな」
会話が家の中へと上がり込んで、ここっと鳴らす靴音に混じって耳へと届く。
「……」
リアとロイズは、ふたたび息を潜めた。
「どこに隠す?」
「おい、暖炉があるぜ。この中ってのはどうだ?」
地下室の二人が、大きな瞳になって視線を合わす。
「……」
静けさの中、飛び出るかというくらいに心臓が鳴っている。
やがて頭上から、ガシャンという金属音の擦れる音色がやってきた――
「何かで、隠さないとな」
「薪でも入れとこうぜ」
思い出の溢れる家屋を、手慣れた動きの侵略者たちが汚していく…
「……」
地下室の二人は、それぞれが両膝の中に頬を埋めて、緊張の時間が過ぎ去るのを、ひたすらに祈ることしかできなかった――
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