【97.あの日③】
その日は、珍しく早くに目が覚めた――
朝の寒威は日ごとに厳しいものとなり、シーツを幾重にも手に取って、蓑虫みたく身体に巻き付けていたにも関わらず…
「あ」
リアは一つを思い起こして、朝日が昇る前の外の景色を確認すべく、両親に挟まれた寝息が聞こえるベッドから抜け出した。
「……」
細い両足が階段を駆け上がり、2階のお気に入りの椅子に膝を立てて外を見る。
確認するべきは、冬鳥たちの姿…
「やっぱりいない…」
大きな瞳を見開いて、不思議そうな声を発した。
小さな国の王妃となるのは、十数年も先のこと――
幼い彼女の頭脳では、奇妙を浮かべるまでが限界であった。
やがて起こる惨劇を見通す事など、出来よう筈もなかった――
「お父さん」
「ん?」
「なにか、おかしいよ?」
それでも階段を駆け下りて、リアは開けっ放しだった寝室の扉を抜けてベッドへと走った。
「なにが?」
突然に背中から娘の声がして、目を覚ます。
横になったままで視線を向けた窓の外は、普段と同じ。夜明け前の闇で覆われていた。
「鳥さんが…」
「とり?」
言いながら、ごろんと転がって娘の方へと瞳を移す。
「どうかしたのか?」
「どこにも、いないの…」
「……」
なんだ。そんな事か…
眠りをふたたび欲したところで、カッと瞳を見開いて、思い立ったように飛び起きる。
「ママを起こして!」
告げてから、両足を床に落として部屋を出る。
娘の声の確認に、先ずは2階へと駆け上がった――
「……」
窓の向こうでは、夜明けの白が浮かんでいる。
娘の言う通り、鳥の姿が消えていた。
普段なら夜明けと共に聞こえてくる冬鳥たちの鳴き声が、全く無い――
男は窓を押し開け、外の様子を確かめた。
季節は冬へと向かっている。
北から届く冷たい風は、南からの気配を消していた――
「どうしたの?」
重い瞼の眠そうな母親が、娘の手を引いて背後からやってくる。
赤みの入った前髪をスッとかきあげて、訝しそうな表情で安穏な言葉を吐き出した。
「母さん! リアを地下へ!」
「え!? は、ハイ!」
ただならぬ様子の夫の声に、母が咄嗟に正気に戻る。
「リア、お願いだから、言う事を聞いてね」
膝を曲げて娘の瞳に訴えると、母は立ち上がり、小さな左手を掴んで階下へと急いだ。
「大事なものから、先ずは運ぶの。分かった?」
「え? う…うん」
階段を降りたところで突然の指示が下され、頭が追い付かない。
それでも見下ろす母親の真剣な眼差しに、小さな身体は硬直したようになって言葉を返した。
「おじさん!」
そこへ、玄関の方から声が届いた。
「ロイが来た」
真っ先に反応をしたのはリアだった。
母親の言葉はどこへやら。咄嗟に繋がれた手を解いて走り出す。
「ロイ! 何か言われたか!?」
リアの背後から、階段を駆け下りながら父が尋ねた。
「リアを守れって…」
「そうか…」
「……」
返答に、父親は眉間に皺を寄せて奥歯を噛んで、母は思わず両手で口元を隠した――
「いいか、ロイ。リアを頼んだ。未だ、時間はある。食べ物と水を運んで。その後は、二人で隠れなさい」
ロイズの元へと駆け寄ると、リアの父は膝を曲げ、少年の両肩に手を置いて、視線を同じにして正面から訴えた。
「…はい」
瞳が向き合って、ただならぬ緊張感が小さな心を覆った。
自宅から走ってくる間は半信半疑の危機感も、成長途中の心身は、真剣な言葉を受け止めて明確な覚悟を表した――
小一時間前、リアの家から西に半キロほど離れたロイズの家では、早くに起きる父親が、最初に異変に気が付いた。
リアの家より少し高い位置にあり、遠くまでを見渡せる。
彼は二階の寝室の窓から外を凝視すると、白やむ空の手前に灯った一つのぼやけた明かりに目を止めて、危険を感じ取ったのだ――
「ロイ! 起きろ!」
咄嗟にベッドで寝ている息子の元へ行き、静かな寝息を立てている柔らかな頬をぺしぺしと両手で挟むように叩いた。
「え…なに?」
「いいから起きろ! リアのところへ行け!」
「え!?」
突然の命令に、思考が追い付かない。
「いいから、リアを守れ! 絶対だぞ!」
「え? う、うん…」
訳も分からぬままベッドから降りると、追い立てられるように飛び出した――
「はっ…はっ」
粗くなる息遣いの中で、幼い心にも何かしらを感じ取る――
しかしながら、それが何なのかは、全く分からない。
リアを守れ
それだけを胸に宿して、小さな少年は川沿いの乾いた土の上を、必死になって走った――
夜明けと共に視界が開けると、不安の正体が現れた。
ロイズの父親は、それが多数の兵団だと認めると、急いで外へと飛び出した。
「襲撃だ! 逃げろ!」
周辺の家々の窓に向かって石を投げ、緊急を知らせる。
方々に畑が広がる丘陵地帯。声を届けるも、やがて限界が訪れた。
「襲撃? 演習じゃないのか?」
窓の外から聞こえてくる、不思議な叫び声。
ベッドから身体を起こした一人の呟きは、ごく自然な反応であった――
朝の白い陽光とは、明らかに違う赤。
炎の羅列を瞳が容れると、抵抗する術は殆ど残されてはいなかった――
(盗賊の類じゃない…)
ロイズの父は、敵の総数から汲み取った。
冬が近付いて、降水量が減る。川の水量が減ったなら、渡河できる。
ドルツク方面の政変は落ち着いて、キエフ大公イジャスラフが自ら起こした争いは敗北に終わった。
空位となったキエフ大公には、隣接するスモレンスク公国のロスチスラフが就任をした。
人民は安堵を宿したところで、厭戦の機運は高く、戦意に乏しい。
そんな状況を狙ったかのような襲撃は、明らかに計画的なもの…
スモレンスクの新たな公となったロマンに襲い掛かり、新任のキエフ大公を揺さぶる目的だと思えば、敵がどんな集団なのか、想像する事はできた――
「大事な物は、持ったか?」
「うん…」
父からの声に、麻布で作られた巾着袋の紐をたすきに掛けて、リアが不安そうに頷いた。
家の周りでも次第に声が上がるようになり、重大な事態が迫っている――
緊張感が、嫌でも身体を蝕んだ。
「ロイ、お前の方がお兄ちゃんだ。リアを頼む」
「はい」
華奢なリアの右手を左手で握ったロイズが、気丈になって答える。
使命感が恐怖に打ち勝って、背筋が真っ直ぐに伸びていた。
「お父さんは?」
「……」
不安そうな瞳が、上目遣いで呟いた。
「お父さんは、一緒に居てやれない」
「ママは?」
「…ママもだ」
短い言の葉が、リアを刺す。
それほどに、時間が無い。
「リア、行こう」
ロイズが悟って声を出す。
小さな手を引いて、寝室の方へと向かった――
少女の茶色い瞳の中で、膝を屈した父の姿が霞んでいった――
「ロイ、地下室は、こっちじゃないよ?」
右手を引かれたリアから、不安そうな声が上がった。
「いいんだ」
「……」
リアが知っている地下室は、仕事部屋の中にある。
それでも見慣れた背中から返ってきた声質は、有無を言わさぬものだった。
「リア!」
「ママ!」
寝室に入ると、衣服を灰と煤で汚した母親が出迎えた。
膝を屈した母親に、駆け寄ったリアが飛び込むと、寝起きのままの衣服に付着した細かい灰色がぱふっと舞った――
「リア…迎えが来るから、お願いだからじっとしててね…」
「ママは?」
「ママは、やることがあるの。逃げられないの…」
「なんで?」
吸い付くような娘の頬が、別れを拒む。
それでも強く気持ちを張った母親は、一つを言い聞かせた。
「あなたにも、きっとやることが出来る。その時には、逃げないで…」
「……」
大きくなった娘の、弾力ある愛しい身体を、ぎゅっと両腕で抱き締める――
この先の成長を、知る事は無いと覚悟して…
「ロイ、リアをお願いね」
瞳は、そのままロイズに向かった。
「……」
零れる涙を前に、自失となる…
少年は返す言葉が見つからず、それでもコクと頷いた。
「来るぞ! 用意はできたか!?」
「暖炉の中に隠れて! 絶対に出ちゃダメだからね!」
父の大声が、玄関の方からやってくる。
最後の言いつけを伝えた母はスッと立ち上がると、灰色の大きな瞳を覗かせて、自身を見上げる娘の姿を焼き付けた――
「リア…大きくなったね…」
涙の中で呟いて、普段から後ろで纏めている赤みの入った髪の毛を、はらりと解いた。
「絶対に生きて…」
「ママ!」
小さな身体が叫ぶ中、想いを断ち切るべく背中を向けて、彼女は部屋の外へと飛び出した――
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