【95.あの日①】
身体より大きな窓の向こう側――
薄い雲に覆われて、大好きな青い空はどこにも窺えなかった。そんなある日のこと。
初夏の陽射しは和らいで、庭に居場所を見つけた低い緑は風に遊ばれて、垣根の向こう側では、2階の高さ以上に茂った緑の木々たちが、時折り左の方向へと揃って頭を傾けていた――
「……」
木組みの椅子に両膝を乗せて、小さな女の子の大きな瞳は、いつもと同じように窓の中に描かれた風景を眺めていた。
「こりゃ、ほんとに天気が崩れるな…」
彼女の背後から、父親と思われる30代ほどの男性が近寄ると、まいったといった表情を顔に作ってけだるそうな声を吐き出した。
「昨日、言ったよ?」
肩に掛かった癖のある赤みの入った髪を翻すと同時に、女の子の得意気な表情の中から高い声色が飛び出した。
「そうだったな…」
男は言いながら、大きな掌で女の子の赤みの入った癖毛の頂点を、上から撫でるようにして覆い隠した。
「そろそろ、ロイが来るから遊んでくる」
「え?」
「雨が降って来たら、帰る」
「それじゃあ、濡れちゃうだろ。降る前には帰ってきなさい」
「はぁい」
時刻は朝食を食べ終えたあと。
一点を見つめる上目遣いの大きな瞳と、そんな彼女を見守る柔らかな瞳が会話を交わした。
「あ、来た」
大きな双眸を見開いて、小さな両手を窓枠に置いた女の子は、待ってましたと声を出す。
身を乗り出して視線を送ると、乾いた土の一本道を、細かく足を動かして向かってくる少年の姿がやってきた。
「じゃあパパ、行ってくる」
振り向きながら声を上げ、椅子から飛び降りて部屋を飛び出すと、軽快に階段を降りて地階を目指す。
「リア、どこ行くの? 雨、降って来るよ」
「降る前には帰る」
洗濯物の入った網籠を抱えた女性の忠告も効果なく、リアは屋外へと飛び出した。
「ロイ!」
緑の庭を駆け抜けて、左右の垣根を潜ったところで右を向く。
息を切らして走ってくる男の子を励ますように、リアはもう少しだよと赤みの入った頭の上で右手を振りかざしながら声を送った。
「はぁ…ごめんね…遅くなった」
両膝に手を当てて、肩で息するロイズの背中が苦しそうな声を出す。
「いいよ。予想通り」
そんな彼を見下ろしながら、少女は嬉しそうに顔をほころばせた。
「じゃあ、行きましょ」
「ちょっと…はぁ…待って…」
麻色のスカートから伸びる白い脚がスタッと一歩を踏み出すと、リアが明るい声で促した。
しかしながら変わらぬ姿勢で息を整えるロイズの苦しそうな発言に、しょうがないわねぇという表情になって足を戻した。
「お待たせ。今日は、どこ行くの?」
息を戻したロイズがスッと背筋を伸ばすと、目線のやや低い、リアの大きな瞳に問い掛けた。
「川へ行く」
「え?」
「何?」
「だって、危ないよ? 雨降って来るし…」
言いながら、少年は白に灰色が上塗りされている空を眺めた。
「大丈夫だって。雨は西から。山の方は晴れてるもん」
言われてロイズが北西の方を見やると、確かに小高い山の上には青空が覗いている。
「雨が降って来る前には帰れって言われてるから、急ぐよ」
「え? また走るの?」
「走るわよ。一分一秒だって、無駄な時間は無いんだよ」
「ええ? リアは待ってただけじゃん…」
タタッと離れた小さな背中に不満がぶつかった。
「なんか言った?」
「…分かったよ」
一歳違いで、リアの方が年下。
しかも女の子に言われては、男のロイズが引き下がる訳にはいかなかった――
「結構、水の流れが速いね…」
幅およそ12メートル。ドニエプル川の清流。
浅瀬では、膝辺りまでを水に浸けて遊ぶことが可能であった。
「気持ちいい」
忠言などには耳を貸さず、リアはずんずんと胸の辺りにまで伸びた岸辺の草を掻き分けて、やがてじゃぼっと水の感触を受け取ると、想像通りの快感に満足そうな声を発した。
「あ、ちょっと滑るから…」
「わわわっ!」
忠告のそばから、濡れて滑りやすくなった斜面の途中でロイズが足を取られて腰から砕けた。
思わず両手を付いて痛みは走ったが、幸いにして手のひらに擦り傷が生まれた程度で、大したことはなさそうである。
「大丈夫?」
生い茂る青草に埋もれたロイズに向かって、動きを止めたリアが心配顔で呼びかけた。
「うん。大丈夫っ…って、わわ!」
立ち上がろうとしたところで、またもや足を滑らせた。
「何してんの?」
理解に苦しむ少年の挙動に、訝しそうな声がキョトンとなった顔から立ち昇る。
「だって、滑るんだもん」
「跳べばいいじゃん」
「……」
コイツの言ってる事は、理解できる。
ぴょんぴょんとつま先だけを使って跳ねるようにして前へと進み、接地する足裏を少なくして、滑る危険を回避しろという訳だ――
ただし前傾姿勢となって嫌でも勢いが生まれる為に、水辺で止まる事は出来ない…
勢いのままに川へと飛び込んで、そのまま深みにハマったコイツの姿を知っている…
「……」
しかしながら、現在の状況は完全なる負けである。
もう一度足を滑らすような事があっては後世にまで語り継がれるとばかりに、ロイズは立ち上がりざま、リアの助言に従って右足だけを使って前へと跳ね飛んだ。
じゃぼんと音がして、水しぶきが舞い上がる――
透明な珠が夏の空気に照らされて、小さな女の子の赤みの入った髪の毛を、キラッと着飾った――
数時間後、リアの家。
窓枠がカタッと揺れて、風の音を捉えると、おてんば娘を心配する心が噴き上がる。
(そろそろ、帰ってくるかしら…)
すると玄関扉がギィッと音を鳴らして、母の陰った胸中に光を戻した。
「お母さん、ただいま。拭くものちょうだい!」
「え? 降ってきたの?」
雨音は届いていないが、近くでは降り出したのだろうか。
慌てて玄関へ駆け寄ると、戸口でずぶ濡れになった愛娘が姿を現した――
「……」
絶句の後、ピキッと母のこめかみに、怒りの筋が浮かび上がったのは言うまでもない――
「雨が降る前には、戻ったのに…」
二階の窓から、さあっと降り出した雨を眺めながら、椅子に両膝を預けた小さな身体は恨めしそうな声を発した。
あれから母の小言はとことん続き、遂には消した筈の過去の所業にまで再び火を点けて、直立不動となったリアの精神修行の場になった。
「雨の前に、行っちゃダメだろ…」
ため息交じりの父の声が、丸くなった背中に放たれる。
「お前の服も、朝から洗濯してたんだぞ。何にしろ、川はマズかったな」
「分かった。今度は山にする」
「いや、汚すなって事だよ…」
口を尖らす娘を眺めると、父は呆れた苦笑いを浮かべるのだった――
「さて、勉強するぞ。リアもするか?」
「しょうがないなぁ」
机に向かって書類整理を終えたところで立ち上がり、ぽんと赤みの入った癖毛に右手を置いて父が慰めると、振り向いて上目になったリアが微笑んだ。
小言の後には、父が心を和らげる。
父が叱れば、当然のように母が慰める…
そんな慈愛に満ちた両親によって、幼い少女の心は育まれていった――
「なんで、勉強するの?」
識字率の低い時代。
勉強の内容は、親子とも一緒。
都市に出向いて借りてきた一冊の本を、父が紙に写して、それをリアがまた写す。
分からない単語や解釈は、想像を膨らませて二人で、時には母も交えて考える。
赤い食べ物と記してある…低い木に生っているらしい…リンゴだろうか?
ザクロ? イチジク? 手で割って食べるみたいだから、リンゴじゃないね…
愉しい団欒の時間でもあった――
刀剣の手入れを生業としていたリアの父親は、急な注文が入った際にも対応できるように、質の良い砥石を採掘できる岩山と、顧客のいる都市部の中間地点に住居を構えた。
加えて家屋の前には、良質な水を湛えた清流が二本も流れている――
畑が方々に広がる高台に建てられた木組みの家の2階からは、川を挟んだ向こう側に、僅かではあったが都市の姿を望む事ができた。
「声に出さなくても伝える事ができる。色んな事を識る事ができる。遠く離れた場所でも、記して送れば届ける事ができる」
小さな娘の疑問には、ハッキリとした見解を父は示した――
注文を入れるお客様は、貴族や豪族。
直接商品を預かる事は稀であったが、時には注文書や預かり証にサインをしなければならない。
文字が読めないようでは不便だろうと、ある時本を貸与されたのだ。
雨の日は武具本来の色艶が映えない為、手入れを休む。
渡されたのは歴史書や法学書、聖書の類であったが、職業柄、求道者のようなところが見受けられる彼の知的好奇心を満たすには、難解な険しい山は合致したらしく、壁にぶつかって尚、愉しそうにしている父の姿に、愛娘も自然と興味を持ったのだ――
難解な話を、時には例を用いて、優しく刀を研ぐように、鋭い刃となるように、愛娘に語る…
教える事で彼の理解力は一層高みに登って、真綿が水を吸い込むように、小さな頭脳にも知識が吸収されていったのだ――
「また、戦争が始まるの?」
地階に設けた作業所は、子供の出入りは当然禁止――
机の上に山となっている注文書が視界に入って、足を踏み入れた妻が嘆息を吐き出した。
「ああ…」
仕事柄、戦いの動きには敏感だ。
貴族からの需要が舞い込むと、注文者の戦歴からおよその侵攻方面が割り出せる。
土地への認知、得意な戦法、階級や序列…具体的には、そんなところだ。
抵抗の激しい、武功に乏しい場所には下級貴族が。いよいよ攻め落とせるという段階になって、初めて上級貴族が武器を持つ。
理不尽な世の中の構図に辟易とした感情を抱くも、その一端を担っている現実とを相殺するように、彼は無心となって刀を研ぐのだった――
季節は夏を迎える――
攻め込む時期は、麦の収穫が終わって涼しくなった頃だろうか…
冬の間にケリを付けられる手頃な小国となれば、四年前に軍門に下ったヴィテプスクと同盟関係にあったドルツクの辺りか。
小国同士の同盟であっても、ドルツクの国王は姻族関係となったヴィテプスクに対して援軍を送り、義理を果たした…
それこそは立派な事象であり、他国の民衆の喝采をも生み出した――
しかし…
滅ぼされては、意味も無い…
後世に名を残すだけの戦いに、どれほどの価値があるのか…
実際に槍を持つ幾多の兵士の名前など、歴史に残ることはない…
「ん?」
彼は、一本の刀剣の鍔に目を止めた。
金銀をあしらった装飾は勿論立派であったが、刻まれた刻印が珍しいものだったのだ――
スモレンスク公国の、上級貴族の刻印。
「……」
譲り受けたものなのか。初めて扱う代物に、職人としての心が躍った。
男は輝きを放つ刀身を、丹念に丹念に磨いていった…
研磨を終えた切っ先が、やがて自身の胸に向けられるとは思いもせずに――
お読みいただきありがとうございました。
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