【89.形見】
トゥーラの城内。
普段は1段飛ばしで駆け上がるほどに軽やかな、国王居住区へと続く螺旋階段を登るマルマの足取りも、最近は重たくなっている。
手にした丸いお盆の上には、王妃様の昼食。
今日の献立は、手のひらサイズのパンが一個と、木製の器に入った干し肉入りの野菜スープ。量は普段の半分で、覗くことのできる器の内側が、悲哀を増長させている。
「昼食、お持ちしました」
いつもは背中で押し開ける、居住区とを隔てる厚い扉を右手を使って開けながら、エプロン姿の女中は、初めてこの部屋を訪れた時のように口を開いた。
「ありがとう」
この瞬間。普段なら、お気に入りの小さな席に座ったリア様の、温かな声が届く筈――
読書を愉しまれている事が半分くらい。他には、まだ寝ていたり、裁縫をしていたり、夜になって国王様と嗜むのか、一人でボードゲームの盤上と睨めっこしているなんて時もある。
お相手できるようになりたいと思った事はあっても、途方もない道のりに思えて、彼女の足は動かぬままだった。
思えば一度だけ、激しく身体を動かした後なのか、肩で息をされていた事がある。
その頃は未だ、気軽に話し掛けられるような間柄ではなく、一人で何をしていたのか見当も付かなかったが、いつか尋ねようと思いつつ、現在に至っている。
「入ります」
澱んだ空気の中を静かに進み、普段は風通しを良くするために開いている、寝室へと続く扉を開けると、上半身を起こした状態でベッドに佇む、華奢な王妃様の背中が覗いた。
「お食事です」
入って左の棚にお盆を載せると、マルマは病状を確認すべく、最近少しだけ身軽になってきたと感じる身体を翻した。
「リア様!?」
刹那。マルマの顔が青ざめる。
「何してるんですか!」
続いて両の腕を前にして、体躯をベッドに投げ出した。
「痛っ」
王妃が右手で握っていた異物を奪い取る。
その瞬間。マルマの指先に、鋭い痛みが走った。
「え……大丈夫?」
リアが握っていたものは、手のひら大のナイフ。
華奢な手首を掴まれて、小さな右手から離れたそれが、マルマの左手を傷つけた。
「大丈夫です! それより、そんなもの。早く仕舞って下さい!」
伸ばしたリアの膝の上。マルマの恫喝が、生気の失せた王妃に向かった。
「くっ」
だが、反応が無い。マルマは白いシーツに転がった、銀色のナイフに素早く右手を伸ばすと、それを掴んで腹這いのまま、頭の方へと放った。
そしてカランと乾いた音が発すると、安堵を胸に灯した。
「痛っ……」
同時に痛みが走って、思わず左手の指を右手で覆った。
「ちょっと、大丈夫!?」
「大丈夫です! それより、お怪我はありませんか?」
ようやく正気を戻したか。前屈みになった王妃が声を送ると、マルマは遮った。
「う、うん……」
しかしながら、突然の出来事に、王妃は戸惑いの声を発するしかなかった――
「ほんとに、死ぬつもりかと思いましたよ!」
「ごめんね……」
怒気を含んだ声色で、いつもの丸椅子にどかっと座ったマルマが口を開くと、ベッドの上で上半身だけを起こした小さな王妃は、夏の終わりを迎えた向日葵のように俯いた。
「なんで、そんなものを持ってるんですか」
左手の裂傷を、唾液で済ませたマルマは、怒りの指数を下げながら尋ねた。
藁と麻の寝具。備え付けの棚には、衣服と帽子。加えて、腰の高さの本棚が一台。
およそナイフとは、無縁な場所である。
「これはね、父から貰ったものなの……」
ぽつりとした声が、リアの口から零れた。
ナイフのハンドルが左側。刃の銀色を、右手の人差し指が優しく摩った。
「……」
つまりは、形見だ。
両親が他界した、同じ境遇。
しかしながら、マルマは俯く王妃の姿に、複雑な感情を抱いた。
「小さな頃にね……狩りに、連れて行ってもらった時かな」
「……」
「これは、お前が持っていなさいって。二本もくれて、手入れの仕方も、教えてもらったの」
「……」
リアの視線を独占する銀色は、鳥や兎を仕留めるための狩猟用よりは短くて、食事の席で、自ら切り分けるために使用するナイフにしては、鋭利である。
「でも、おかしいよね……」
「何がですか?」
「女の私が、こんなの持ってたら、おかしいよね?」
「……」
空虚を含んだリアの声。
マルマが尋ねると、王妃の瞳の色が翳った。
「良いのでは?」
マルマが保持しない一品は、絶対に手放してはならないもの――
「もう、普通の女の子じゃありませんから」
「……そうだね」
病人を肯定する一声は、機知に富んだものだったか。
思わず肩を顰めるも、王妃の口角が、久しぶりに上がった。
「そういえば、ラッセルさんが、謝罪したいみたいですよ?」
「……なんで?」
続いてマルマが状況を伝えると、王妃の瞳が上がった。
「理由までは……わかりません」
察しはついている。
しかしながら、差し出がましいという思いが湧いて、丸椅子に座ったままのマルマは、それ以上を控えた。
「なんか、骨折してるって、聞いたけど?」
「あ、ご存じでしたか」
「ロイズからね」
「そうでしたか……」
徐々にだが、会話の時間が増えてきた。
それは、側仕えは勿論。リア自身も、感じるところ。
他者への関心。
塞いだ心を解すには、良い傾向――
「あの人も……災難よね」
「ラッセルさんですか?」
「うん……ここへ来たばっかりに……」
「……」
「まあ、ロイズが誘ったんだけどね」
「え? そうなんですか?」
ぽろっと飛び出た発言に、マルマの声が上ずった。
「そのおかげで、こき使われて、骨折までして……散々よね」
「はは……」
こき使っているのは、誰なのか。
ラッセルとの会話を思い起こして、マルマは困ったような顔をした。
「でも、イヤって訳じゃ、ないみたいですよ?」
「そうなの?」
愚痴を口にしながらも、世話を焼くのは愉しそう――
「あの人は、王妃様のことが、お好きなんですよ」
「……」
ちょっと、妬けるくらいに……
自身と同じく。恋愛感情というものではない。リア公妃という、個人の人間性に惚れているのだ――
恐らくは……
「そうなの?」
「……」
しかしながら、彼の想いは、報われてはいないらしい。
リアが呟くと、両手を膝に置いたままのマルマの眉尻が下がった。
「そういえば、ロイズも、謝罪がどうとか……言ってたな……」
「リア様の許しを得るまでは、面会できませんって、伝えてありますよ?」
「そうなの?」
「はい」
心配無用。「構ってくれ」 と聞き分けのない飼い犬を、屋外へと締め出したのだ。
「私と会うたびに、リア様の様子はどうだ? って、聞いてきますからね……」
「……」
煩わしい。怒りと卑下を含んで、マルマが吐き出すと、部屋に静寂が広がった。
「……話だけでも、聞く気、ありますか?」
「え?」
唐突な質問に、大きな瞳が聞き返す。
「いえ。一応、聞いておかないと……」
「ああ、そうだよね……」
マルマの問いは、尤もだ。
ラッセルにしてみれば、餌を前にして、マテと告げられた飼い犬のように、今か今かと面会の機会が訪れるのを待っているに違いない。
「でも、今は……気が、進まないな……」
話の内容が見えてこない。
自身の体調も考慮して、王妃は余計な負荷を嫌った。
「分かりました……」
「……」
残念を宿した返答が、リアの心を微かに揺らした。
仄かな罪悪感。そんなものが、確かに灯ったのだ。
「でも……」
「はい」
「聞かない訳にも、いかないよね……」
彼の肩書は、国王の右腕。
「そうですね……」
リアの尤もな発言に、マルマの口角が上がった。
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