【86.血飛沫】
カルーガの村に休息を求めたスモレンスクの敗残兵たちは、夜明けを迎える前から各々が用意を整えて、祖国へ向かって出立していった。
白い光を浴びる背中たちの中に、軍靴の紐を固く結ぼうと膝を屈している兄弟の姿があった。
「兄ちゃん…」
「なんだ?」
「俺…友達を見殺しにした…」
「……」
靴紐を結んだ姿勢のままで、二人は動きを止めていた。
「生き残る事が大事って…言ったんだけど…」
「そうか…」
弟の言葉を耳にして、兄は短く応じると、続けて諭すように言葉を結んだ。
「気にするな。お前は伝えたんだ。意味を理解できなかった奴が、消えていっただけの話だ」
「……」
兄が立ち上がると、弟も続いた――
同じような経験を、兄貴は何度もしてきたのだ…
悟った弟は、家路へと戻る背中を追い掛けるべく、黙って一歩を踏み出すのだった――
「本当に、ありがとうございました。」
丸い童顔を朝日に照らす中、スモレンスクの副将カプスが真っすぐな瞳でメルクに感謝を述べた。
「これも、任務だ」
十分に理解してくれ。
葛藤を言葉で表して、小柄なメルクはすっと太い右腕を差し出した。
「次に会う時も、こうして会いたいものだ」
ゴツッと骨ばった、皮の分厚い二つの右手が交わると、マメだらけの感触にお互いの力量が計られる。
「そうですね…」
年上と思われるメルクからの問い掛けではあったが、カプスには適当な言葉が思い浮かばなかった――
そうであれば良い…
心で想いながらも、将兵である以上、軍令が下れば逆らえない。
理解しているからこそ、言葉が濁った――
尊敬する兄貴分であれば、もう少し気の利いた会話になるのだろうか…
将たる者、武芸だけでは階級を上げる事はできないのだ――
童顔の男は、離した手のひらをふっと眺めながら、己の未熟さを思い知るのだった――
早く戻れという国からの催促を伝令兵から伝えられると、カプスは急いで支度を整えて、もう一度メルクを訪ねてお礼を述べてから、西へと単騎で馬を走らせた。
「ウィル君。ご苦労だったね」
去っていく人馬の後ろ姿を、澄んだ瞳でじっと見つめていたウィルだったが、右から掛けられたメルクの労いに首を回すと、少年の顔つきを覗かせた。
「いえ…」
優しい笑顔が向けられて、仄かに頬が赤くなる。
小さな村で日々を過ごしている少年は、あまり外部の大人に対して免疫が無いのだ。
「ところで、昨日からルシードさんの姿が見えないが、どうかされたのか?」
風邪でも引いたのか?
そんなふうな訊き方で、メルクは何気なしに尋ねた。
「養母には、辺りを見回ってくると伝えたみたいです」
「そうか…」
ウィル少年からの誇らしげな返答に、メルクは前に視線を戻して呟いた。
「あの方も、どこからか流れてきたのであろうな…」
「……」
広い背中の、立派な体躯。
薪を割る際に響き渡る甲高い音は、空気を切り裂くように美しく、力強い。
ウィルにとっても、父親のような存在…
そんな漢についての、過去への言及…
「……」
いつの日か、耳に入れることができるだろうか…
そこに出てくるであろう、一人の女性の話も――
遠い目をして、空を見る。
(逢いたいな…)
夕日のオレンジ色に染まる畦道で、柔らかな髪が広がった…
別れ際、腕に抱えた華奢な身体の感触と、笑顔で手を振ってくれた貴い姿…
思春期真っ只中の少年は、灯っている確かな恋慕に胸をきゅっと縮ませて、彼女との慈しい場景を思い起こした――
雨上がりの湿った短い青草を踏み、重い足取りでひたすらに西へと進む敗残兵の列を右にして、スモレンスクの副将カプスは、土や礫を四肢の蹄によって後方へと弾き飛ばす愛馬と一緒になって駆けていた。
「どう」
やがて彼の視界には、濃縮された灰色に、白い稲妻のような筋が幾重にも刻まれた、地表に剥き出しとなったひざ丈以上の大岩が飛び込んできた――
草原の高い位置に転がる異色な存在は、どうしたって人為的な背景を思わせる。
手綱を引いた童顔の男は、愛馬の脚を一旦止めてみた。
ここからは、緩やかな下りが続いていく。目指すは遠く、点のように見える祖国だぞ――
そんな事を、含めるように。
「ふう」
腰に巻いた麻紐からぶら下がった水筒を取り出して、蓋を開けて水を飲む。
ぶるっと愛馬が鼻を鳴らすと、カプスは優しい顔になって馬を下り、岩に造作された窪みにたっぷりと水を注いだ。
ありがたい…
愛馬が首を下げ、水を求める姿を眺めながら、彼は何度目かの感謝を想うのだった――
大国スモレンスクが、東を臨む理由の一つが、ここにある。
カルーガやトゥーラを含むヴァティチの地。ウパ川をはじめとして、欧州最長の河川であるヴォルガ川へと注ぐ支流が幾つも流れ、土地が肥沃なのだ。
森の中。ヴァティチに点在する集落が緩衝材となり、長い間大国リャザンとの国境には大きな争いは起こらなかった。
しかしスモレンスクの国王がロマンに代わって西への侵攻を図ったことにより、リャザン公国は戦線の拡大を危惧して防衛の拠点を構築した――
遠い地平線の向こう、リャザンとの間に砦ができたらしい。
そこで暮らす争いから逃れた民たちは、誰もが釣りを愉しんで、穏やかに暮らしているという――
スモレンスク公国の中枢で、そんな話がまことしやかに囁かれた…
一度でも羨ましいと心に灯したら、手にしたいと思うのは驕りなのだろうか――
「……」
祖国からは命を屠るよう求められ、敵国からは与えられた。
双方の立場と、己の立ち位置。
様々な想いを脳裏に去来させながら、カプスは愛馬に跨ると、ひたすらに西へと向かって乾いた風を切るのだった――
愛馬を労ったのは、太陽の傾きが顕著になった頃だった。
スモレンスクの都市城壁の東側では、いくつもの麻色の天幕が市でも開催するかのように並んでいて、伝令兵から耳にした通り、情報統制を敷く為に、兵士を待機させているのだと理解した。
「おい。状況は、どうなっている?」
馬を下りたカプスは、西日を浴びた都市城壁が作り出す暗がりの中、肘をついて枕代わりに寝転んだり、両手を後ろにして、だらしなく足を伸ばして屯っている男たちに向かって足を進めると、強い口調で尋ねた。
「あん…」
「こ、これは、カプス様!」
胡坐をかいた状態で、頭上から突如として届いた声に、腕っぷしの強そうな男が煩わしそうに振り返ると、同時に仲間から驚きの声が上がった。
「御無事で、何よりです!」
土埃と共に屈強な男たちが一斉に立ち上がり、カプスの方を向いて直立をした。
「お前、名前は?」
「輜重隊、監視官。ラップであります!」
背丈は見劣りするカプスだが、肩周りや上腕に誇る筋肉は、力量を想像させるに容易である。
敵の進軍を阻むために、横から単騎で突っ込んで混乱を生み、時を稼いで勝利に貢献をした――
そんな伝説のような話がある。
直接、見た者は少ない。
あの、どちらかと言えば背丈の低い、童顔の将兵が?
伝え聞いた話を誰もが訝しむのだが、起こした事象は事実である。
そして実際に戦場でカプスを見た者は、伝説は真実だったと納得をするのであった――
「我々は、到着後、ここで待機を命じられております!」
「その後は、野営の準備を手伝っておりました!」
「ほう…」
白々しさの溢れる男たちの口上に、カプスの口角がニヤリと上がった。
「今、まさに準備中みたいだが?」
「あ…いえ、我々は、今しがた、休憩を頂いたところであります!」
「そうか…」
納得したような言動に、直立不動の男達が、ほっと胸から息を吐く。
「ところで…あの元気そうな馬は、どうした?」
言いながら、カプスは都市城壁に備えられた馬繋ぎの輪っかに繋がれている、3頭の馬体に目を向けた。
「あれは…」
「いい馬ではないか」
ラップが新たな言い訳を述べようとしたところに、カプスが羨ましそうに言葉を重ねる。
「いや、そうなんですよ。あまりにも馬体が良いんで、買ったんですよ」
「ほう…」
左から聞こえてくる空説に、カプスの脳裏が一つを浮かべた――
それは前日のこと。カルーガの村。
詫びを入れようと足を向けた民家の先で目に入れた、薄暗い部屋の奥で横たわる、生々しい痣だらけの女性の姿と、その家族…
家長であろう男の、丁重なお断りに屈して足を戻したが、慙愧の念は絶えなかった…
しばらくすると、村に住んでいる少年が見舞いに向かってくれて、事のあらましを知る事ができた――
曰く、あの家の者は、諸国に中立の立場を掲げ、早馬の貸出を生業としているとのことだった。
そう聞けば、馬体の良さも納得だ。
それに目を付けた男達が、帰郷を急いで駿馬を奪っていったとの事であった――
僅かばかりの小銭を投げ捨てて――
そして、同時に…
「うらあ!」
抜いた一閃、血飛沫は華麗に舞った。
袈裟切りに抜いた刀は、赤い鮮血を宿した――
「お前達の狼藉が、この国を貶める!」
頂点に達した怒りの声が、天地に轟いた――
「赦すつもりはない。相応の罰を申し出ろ」
「は…はい…」
地に斃れ、真っ赤を垂れ流す肉片からは、はみ出した桃色の内臓が、びくんびくんと跳ねている。
恐怖に引き攣った蒼白の顔からは、掠れたような返事が漏れるのだった――
「そこの者」
「はは、はい!」
努めて冷静になって声を掛けたカプスだったが、右手に赤が滴る切れ味鋭い刀剣を掴んでいては、震えた声が返ってくるのは仕方がない。
不幸にも事の顛末を眺めていた役人らしき男が、身体を跳ねるようにして応じた。
「副将カプスが到着したと、中に伝えてくれ」
「は、はい。承知しました」
ガタガタと震える身体が答えると、男は背中を向けて一直線に南側の都市城門を目指して走った――
不思議と両脚は動いてくれて、男は心の底から安堵を感じるのだった――
「カプス様が、戻られました!」
待ちわびた一報が、やがてスモレンスク城の3階。宰相エリクセンの元へとやってくる。
当然ながら、老臣フリュヒトも同席している。
「よし。ここに…いや、私が出向こう」
副将の帰還を知ったなら、大将はどうしたと、市中の噂話には拍車が掛かる。
事態を想像したエリクセンは、座っていた椅子から立ち上がると、駆け込んできた衛兵に対して幌馬車を寄こすようにと告げるのだった――
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