【64.慕った命】
王子とともに救援に出向いたワルフは、トゥーラの勝利を耳にして、途中で軍を戻した。
野営は見通しの良い高台。草原が広がっている。
夜になり、満天に星々が輝くと、丸太の椅子を手にしたワルフは、幕舎から抜け出した。
「……」
しばらく歩くと、椅子に座って顎を上げ、感慨深そうに夜空を眺めた。
ウパ川の支流からのせせらぎが、心地よい。
繰り返される政争の日々たちを、朧の向こうへと追いやっていく――
「こういうのも、良いですね」
そんなところへ、お腹の膨らんだシルエットに向かって足を進めたグレヴィが、四方に首を回しながらやってきた。
「そうですね……」
「なんだ? 飲んでるのか?」
星明りに照らされた、赤い頬。
足元に転がる酒の容器を認めると、グレヴィは呆れたように口を開いた。
「少しですよ。祝いの酒です」
「友の?」
「そうですね……」
短い問い掛けに、返答は歯切れの悪いものとなる。
友……
ロイズとアレッタ。
かつて、間違いなく友だった二人は、今でも同じだろうか?
「……」
自覚する。
二人は、今でも自分を友と呼ぶ。
しかしながら、あの頃と全く同じ想いで、二人を友と呼ぶことはできない――
ライバル。競い合う相手……そんな心情が、確かに宿る。
アレッタに……そして、違った感情で、隣の男に対しても……
「私も、呼ばれて良いかな?」
「あ、申し訳ありません。杯も、用意致します」
「大丈夫、持参した」
「あ……これは……」
ワルフが恐縮をする。
配慮して、小柄な王子は従士にマグを取りに行かせたのだ。
「トゥーラに、また、助けられたな……」
「そうですね……」
陶器のマグを前に出したグレヴィが、ワルフが両手で注ぐワインを受けながら、呟いた。
調印式の壇上で、春先に起こった小競り合いを鎮めた感謝を口にした。
それから三ヶ月。今度は大きな侵攻作戦が始まった。
トゥーラの様子を確認した兵からは、相当に激しい戦闘で、城内への侵入を許した形跡があるという。
本来ならば、一度目は領地内の争いとして。二度目は同盟国として援軍を送り、助けるのが筋である。
しかしながら、共に援軍が達する前に、戦いは終わってしまった――
「会いに行かなくて、本当に良いのか?」
ふと、王子が口を開いた。
「ロイズ……いや、トゥーラの国王にですか? 今ごろは、戦いの後始末。忙しいでしょう。また、改めますよ」
「いやいや……女性にだよ。先ほど、名前を出していなかったか?」
「ぐはっ」
グレヴィの発言に、喉を通っていたワインが逆流をする。
「やはり、そうだったか。君に、浮いついた話が無い理由は、それか?」
苦しそうに咳き込むワルフを揶揄うように、グレヴィはニヤリと笑みを浮かべた。
「い、いや……そんな事は……げほ」
「隠さなくても良いじゃないか。トゥーラは同盟国なんだぞ? 将来、君がその女性を娶る事だって、あるかもしれない」
「げほ……げほっ」
「すまんすまん。悪かった。お互い、久しぶりの城外だ。私も、気持ちの良い夜を愉しむよ」
最近は、臣下の言動に踊らされている。
彼の提言に、一切の過誤が無い事も、正直に言って面白くない。
小柄な王子は立ち上がり、勝ち誇って留飲を下げると、愉快そうに背を向けた――
「まったく……」
夕陽の向こうから届いた戦勝報告に、思わず発した幼馴染の名――
不用意な一声には違いない。
それでも、どうやら名前までは認識されなかった。
それが同盟国の王妃の名前だと知ったなら、どんな反応が戻るのか。
何よりも、自身の出世にとって、要らぬ政争の具材ともなり兼ねない。
その点だけは、心底安堵した――
「……」
アレッタ…… 改めて、彼はリアを想った――
「話って、なに?」
4年前のこと。
ロイズが使いに出ているときを見計らって、ワルフは近くを流れるオカ川の河原へと、リアを連れ出した。
川のせせらぎが、程よい静けさを生み出して、そっと背中を押してくれる気がしたのだ――
「その……出仕をする事が、決まったんだ」
「え? どこへ?」
視界を塞ぐ背中から、突然の報告が発せられ、リアの瞳が見開いた。
「リャザンに……」
「あ……良かった……近くで」
可憐な少女は右手を胸に当てると、大きく息を吐き出した。
「それで……」
「はい」
体格はそれなりに良かったが、未だ、この頃は肥えていない。
ワルフが振り向くと、意中の女性は上目遣いの大きな琥珀色の瞳を覗かせて、あどけない表情で次の言葉を待っていた。
「……」
透き通った瞳。吸い込まれそう。両手を前にして、肩の向こうに広がる赤みの入った柔らかな髪ごと抱き締めてしまいそうになった事が、何度もあった。
そんなリアと、真顔で向き合ったワルフは、またもや頬を紅くする――
「一緒に……来てくれないか?」
「え?」
言ってしまった……
後悔が立つ。純真で無垢な彼女の白い心を、身勝手な言葉が穢してしまう。
申し訳ない。
それでも抑え切れなかった……伝えることに決めた……切なる想い。
未熟な青年は、目線を落として、きゅっと瞼を塞いだ――
「急には……無理かな……」
この時、ワルフは19歳。リアは14歳。
ワルフの言葉の意味する所を、未だ、ロイズやウィルと一緒になって野山を駆け回っていた少女には、真摯に受け止めることができなかった――
「そうか……そうだよな」
「うん……ごめんね」
無邪気な表情で。
まるで、近所の川へ遊びに行こうという誘いを断るように。
それでも、どこかに重さも感じて。
告白の結果は、果たして残酷だったろうか?
ワルフにとっては、想いをぶつけた事で、重荷が消える。
伝えないまま離れてしまうには、恋心は成長しすぎたのだ――
伝えた後悔。
それはきっと、募ってゆく重荷より、ずっと軽い――
それから1年後。ロイズがリャザンにやってきた。
勿論、ワルフが推薦状を出したのだ。当然、リアも一緒に来るだろうと思案して。
「……」
しかしながら、時折り見掛ける二人の雰囲気は、ワルフの知る、カルーガに居た頃の二人とは明らかに違っていた。
若くして、見知らぬ土地へとやってきた不安を補うように、二人の距離が縮まったのだろうか。
その手助けを、してしまった……
いや、そんなことは関係ない。二人は、成るべくして一緒になったのだ――
自惚れにも似た、卑しい思考が頭を過ぎる。
同時に、物分かりの良い自分が現れて、海岸で拵えた砂山を浚う、波のようにそれらを何度も打ち消してゆく――
「……」
順調に出世をしている……とは思う。
出仕して、軍略や政策についての提言を語ると、掴んだ功績を推薦人や王族と繋がりのある人物に譲ることで恩を売り、夜会に出てはどうかと誘われた頃から、人脈を広げていった。
世襲や派閥等の後ろ盾がない中での出世は奇妙にも映ったが、やがて自身の名で功績を上げるようになり、歳の近い王子と近しくなる事で、その地位を固めていったのだ――
そんなワルフであったから、女性からの誘惑は勿論あった。
しかし殆どの相手は、社交辞令の枠を超えるような話が得られない。
外見を褒める事はあっても、その内面に興味を惹かれるような女性とは、なかなか出会えなかった。
勿論、知性と教養を兼ね備えた女性もいた。
しかしその度に、心に残った幼馴染と、どうしても比べてしまう自分が居る事を思い知って、胸を痛めた。
結果。片想いは続いていた――
外出する機会は少なかったが、城から外へと出る度に、彼女の姿をしきりに探す。
立ち寄りそうな雑貨店。遠く西側を見渡せる高台へ、なるべく馬車を走らせた。
それなのに、偶然に姿を認めても、やあ、久しぶりだね、なんて声を掛けるようにして肩の下で手を振って、はにかんだ笑顔を浮かべるのだ。
視線の先では、毎度リアが満面の笑顔を作って、人の気も知らないで、肩の上で大きく手を振った――
馬車の自分と、歩く彼女。
その手が触れ合うことは、決して無かった――
立場を利用すれば、会う事くらいは簡単だ。
だが、そうして、どうしたいのか……
自分に、後ろ盾は無い。
積み上げてきた地位を守るため、節度のある行動を取らなければならない。
醜聞や人の噂は社交界の好物だ。彼女の耳に、それらが届く事は絶対に避けたかった。
しかしながら、そんな打算的な思考を浮かべる時点で、彼女の隣に立つ資格は無いようにも思う。
「……」
満天の星の下。自身の左手で、酒を注ぐ。
ありがとうね。お疲れ様。
ふと、上目遣いの微笑みで、華奢な手指でお酒を注いでくれる彼女を浮かべた。
今、ここに想い人が居たのなら、そんな風にしてくれたのだろうか――
トゥーラが度重なるスモレンスクからの侵攻に晒され、いよいよ危ないという話は、国の中枢では半ば公然の懸案事項であった。
兵の増強を図ろうにも、小さな城では常駐させる手立てがない。都市化を図るような猶予も無い。
何より前線だと分かっていながら、移り住むような物好きも居ない。
「トゥーラを見捨てる」
そんな意見が出始めたころ。
国防を思えばそれはならぬと、ワルフが断腸の想いで進言をしたのが、幼馴染をトゥーラへと赴任させる案だった。
一介の役人を城主に据えるという前例のない推挙に、当然ながら異論は起こった。
しかしワルフの堂々とした提言に、彼の能力を買っていた王子の一声が、反対する意見たちを封じた。
「城を黙って渡すのか? 城主を代えて防げると言うのなら、そんな進言くらい容れてやるべきだ。それとも他に、手立てがあるのか?」
リアを利用した。出世のために――
決してそうではない。しかしながら、そう思われても仕方がない。
「……」
確かな、譲れない想いがある。
彼女には、今の地位。いや、もっと上こそ相応しい――
類い稀な才覚を知りながら、市井に埋めたままにするなんて、看過できなかったのだ――
「……」
果たして、彼女はどんなふうに思っているか。
安穏な暮らしを奪った怒りは、混ざっているか。
「……」
きっと、浅慮な思考など、彼女はお見通しなのだ。
トゥーラから届いた援軍の要請に、至急という文言が無かったのは 「あなたの手は借りない」 という意思表示だと受け止めた。
拒絶されたと凹んでは、会いに行く足が鈍った――
嘆きを伴って、ワルフの瞳が満天の星空を見上げた――
実際のところ、彼が想う小さな身体は、現在、生死の境を彷徨っている。
慕い続けた命が続いているのは、素早く援軍を送った、彼の大きな功である――
当然、知る由もない。
お読みいただきありがとうございました。
感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o
想いは伝えた方が良いよね…




